キリストのしもべ

ガラテヤ1:1-10

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1:1 使徒となったパウロ―私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。―
1:2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。
1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 十月は「宗教改革記念」の月です。それにちなんで、ガラテヤ人への手紙から三回にわたって、お話しをすることにしました。今朝は、福音の真理ということを中心に、日本人と真理、ガラテヤ人と真理、パウロと真理という三つの項目でお話しいたします。

 一、日本人と真理

 中国の「家の教会」では、イエス・キリストを信じる人々が毎日何万人もあると言われ、韓国ではクリスチャン人口が40%に達しようとしていると言われていますのに、日本では、クリスチャンは、わずか1%、百人にひとりです。もちろん、数が多いから良い、少ないから駄目というわけではなく、日本のクリスチャンはたとえ少数でも、キリシタンの時代には殉教が出るほど熱心でしたし、すぐれた教育者、政治家、実業家がいて、明治時代には日本が近代国家になっていくのを助け、戦後も、クリスチャンが復興のための大きな力となりました。日本のクリスチャンはとても忠実、献身的で、わずか20名、30名のメンバーでも、牧師を支え、教会堂を建て上げている教会がいくつもあります。他の国では文字を読めない人が大勢いるのに、日本では誰もが文字を読むことができ、聖書も毎年百万部以上発行されており、隠れたベストセラーとなっています。以前行なわれたNHKの宗教意識調査では、「もし、宗教を選ぶとしたら、キリスト教を選ぶ」と答えた人が35%もありました。日本では信仰の自由が保証され、たくさんの宣教師が来て、日本の伝道を助けています。しかし、いまだに1%の壁は破られていません。なぜ日本で伝道が進まないのでしょうか。その原因や理由については、さまざまに分析されています。「日本は、豊かで、何もかも恵まれており、信仰の飢え渇きがない。」「江戸時代にキリスト教を迫害してきた後遺症があるからだ。」「キリスト教が知識や教養としてしか伝えられてこなかった。」など、いくつかのことが指摘されていますが、私は、日本人が、長い間、真理よりも人間関係を、神よりも人を第一にしてきたことが原因の一つではないかと思っています。ある宣教師が「同じ、アジア人でも、中国の人たちは、聖書が真理であると分かれば、真理に従う。しかし、日本人は、聖書が真理だと分かっても、家族や、友だち、近所の人たちを気にして、真理に従おうとしない。」と言っていましたが、それは、当たっているように思います。

 家内と私は、日本では長い間新潟県で伝道していたのですが、最初、地元の人たちの言葉が分からなくて苦労しました。近くの農家のおばさんが、やってきて「ナジラネ」と言うものですから、「今、八時ですよ。」と答えると、おばさんはキョトンとしていました。私は「何時ですか。」と聞かれたと思ったのですが、「ナジラネ」というのは「いかがですか。」という意味で、「野菜はいりませんか。」という意味だったのです。私たちは、アメリカに来る前から、ことばの壁を体験していました。このことばの他によく耳にしたのは、「アッチサマがみてるガーテ」という言葉でした。これは、おとなが子どもを叱る時に使うことばで、「他の人が見てるから、きちんとしなさいよ。」という意味でした。それが正しいことか、間違ったことかは、問題ではなく、人の目に触れて非難されるかどうかが何より大切だという考え方から出た言葉ですね。「アッチサマ」というのは、「他人様」ということで、わざわざ「様」をつけるほど、それを重んじています。他の国でなら「神様が見てらっしゃるよ。」と言うところなのですが、日本では、神様のかわりに「他人様」なのです。他人様が神様なら、人目に触れるところでは、きちんとしていなくてはならないけれども、人目に触れなければ何をしても良いということになってしまいます。ある時、私たちの知り合いの子どもが「ぼくのお父さんとお母さんはね、人の見てないところで、車にたまったタバコの吸殻を、窓から捨てるんだよ。」と話してくれたことがありますが、「人が見ていなければ何をしても良い」ということを、子どもに教え込んでしまっているのですね。また、他人様が神様になっているところでは、他の人がしていることや要求することが、正しいか、間違っているか、あるいは良いか悪いかなどを考えることをしないで、みんながしていることを、たとえ間違ったことでも一緒にしてしまうということになってしまいます。「赤信号、みんなで渡れば、恐くない。」ということですね。

 最近、日本のお役所での裏金づくりのことがニュースになっています。お金をごまかして、それが発覚しないわけはないのに、こういう犯罪は後を絶ちません。どこの国でも、同じようなことはあると思いますが、日本の場合、問題なのは、それが「職場ぐるみ」の「慣例」になっているということです。官庁のお役人には、異動があるはずなのですが、こういう不正が、前任者から後任者への「引継ぎ事項」になっているというのですからあきれます。こうした犯罪の背景にも、真理よりも人間関係を、神よりも「他人様」を絶対のものとする考え方があるように思います。「上司の言うことには逆らえない。」「自分ひとりが異を唱えても、どうなるわけでもない。」「職場の和がなにより大切だ。」というような考え方が、深く根を降ろしているのですね。そのような環境では、自分で物事を考え、判断し、行動していくという生き方ができなくなってしまいます。信仰は、真理と直面すること、神に出会うことから始まるのですが、人間関係がすべてを支配しているところでは、神への信仰が育つことは難しくなってしまいます。主イエスのたとえ話にあるように、神のことばの真理が蒔かれても、人間関係の茨が、そこから芽生えた信仰をふさいでしまうのかもしれません。そこには、人間のしもべは生まれても、本物のキリストのしもべが生まれるのは困難なのです。

 二、ガラテヤ人と真理

 では、日本以外の国では、何の問題もなく信仰が育っていったのでしょうか。日本だけが不毛の地だったのでしょうか。どうやらそうではなかったようです。使徒パウロが伝道したガラテヤ地方の人々も同じようでした。ガラテヤのクリスチャンたちは、使徒パウロから福音を聞き、それを信じて救われたのですが、ユダヤからやってきた人々の教えに誘われ、福音から離れてしまったのです。その教えというのは、「イエスはユダヤ人として生まれ、ユダヤの律法を守った、だからキリストを信じる者も、割礼を受けてユダヤ人のようになり、ユダヤの律法を守らなければ救われない。」というものでした。それで、このように教える人々は2:12で「割礼派」と呼ばれています。割礼派の教えはもっともらしく聞こえますが、福音をゆがめてしまうものでした。そして、ゆがめられた福音はもはや福音ではなくなったのです。確かに主イエスはユダヤ人として生まれ、律法を守りましたが、私たちにユダヤの戒律を守るようは命じられませんでした。主イエスは、神を信じる者に戒律以上のもの、神のみこころを守るように教えました。キリストは私たちをさまざまな戒律から解放してくださったのに、ガラテヤの人々は、ユダヤ教に逆戻りしていったのです。割礼派の人たちは、結局のところ、キリストの恵みに信頼するよりも、戒律を守っているということで自己満足し、それを誇っていたにすぎませんでした。

 それで、パウロは、1〜5節の挨拶の後、6節に「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」と書いています。パウロは、どの手紙でも、挨拶のあと、その教会に感謝したり、その労をねぎらったり、ほめたりすることばを書くのですが、ガラテヤ人への手紙には、ほめことばがひとつもありません。パウロは、道徳的に随分乱れていたコリントの教会に対してさえ、ほめことばをいくつも書いたのに、ガラテヤの教会にはほめことばを書きませんでした。そればかりか、ギリシャ語で「アナテマ」というのろいの言葉さえ使っています。8節と9節に「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」と、二度も重ねて「アナテマ」(「のろわれるべきです。」)という言葉を使っています。

 「のろい」というのはおぞましい言葉で、誰も聞きたくないことですが、パウロがこれほどにまで激しい調子で手紙を書いたのには、わけがありました。キリストの救いのメッセージは「福音」といいますが、それは、イエス・キリストが私たちを罪ののろいから救い出してくださり、私たちを永遠の命の祝福にあずからせてくださったという、祝福のメッセージです。割礼派の人々は、この祝福のメッセージを否定してまったので、そこにはのろいしか残らなかったのです。福音の真理が失われるところには、神の祝福も留まらないのです。たとえ教会に道徳的な問題があったとしても、そこに福音の真理が保たれていれば、道徳的な問題は、かならず改善されていきますが、教会に福音の真理が保たれていなければ、教会にどんなに立派な人、頭の良い人、また力ある人が集まっていたとしても、教会は命を無くしてしまいます。決して、教会が道徳的にいいかげんであって良いという意味ではありませんが、コリントの教会がかかえていたような道徳的な問題よりも、ガラテヤの教会がかかえていた真理の問題のほうが、教会にとって、はるかに危機的な問題であり、神の祝福を失うものであったということがわかります。

 しかし、どうして、ガラテヤの教会は、福音の真理から離れてしまったのでしょうか。いろいろな理由があったでしょうが、ガラテヤの人々が、真理よりも人間関係を重んじ、神のことばよりも、人間的な権威をあがめたことが、その原因でした。パウロがガラテヤを去ってから、割礼派の人々がユダヤからやってきました。この人たちは、おそらくは、エルサレムの十二使徒たちの権威を借り、たくさんの肩書きをならべたてて、ガラテヤにやってきたのでしょう。ガラテヤの人々は、彼らの「権威」や「肩書き」に惑わされ、彼らの語ることを吟味することなく、鵜呑みにしてしまいました。ガラテヤの人々は、あとから使徒になったパウロよりも、もとからイエスの十二弟子であった人々のほうがすぐれていると考えました。そして、十二弟子とコネクションがあると主張する、こられの人たちの言うことに耳を傾けたのです。ガラテヤの人々は、真理よりも、見せかけの人間的な飾り物に惑わされたのです。

 十二弟子とのコネクションならパウロになかったわけではありません。2:9には「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。」と書かれています。パウロは、エルサレムの教会の中心的な指導者であったヤコブとペテロとヨハネと、親しい関係を持っていました。しかし、パウロは、そのような人間のつながりで、福音を宣べ伝えませんでした。なぜなら、福音は、人間的な権威でサポートしなければならないようなものではないからです。むしろ、人間的な権威の飾り物は、神のことばを不純なものにしかねません。ですから、パウロは、エルサレムのおもだった人々に礼儀を尽くし、彼らと主にある交わりを保ちましたが、決して彼らにおもねたり、その権威を利用するようなことはしませんでした。ペテロが、割礼派の人々を恐れて、本心を偽った行動をした時には、パウロは人々の面前でペテロをさえいさめています。パウロにとって何よりも大切なものは、福音の真理でしたから、福音の真理がゆがめられようとした時には、相手が誰であっても、パウロは臆することなく、立ち向かったのです。パウロは1:10で「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」と言いました。人間的なものが、神の真理よりも重んじられる時、真理の側に立つのが、本物のキリストのしもべです。信仰が育つにはあまりにも不毛に思える場所でも、キリストのしもべとして立つ人がひとりでもいれば、人々はやがて真理に目を向けるようになるでしょう。「初代教会は、殉教者の血を種として生まれた。」と言われますが、教会は、人間的などんな権威にもひざをかがめなかった信仰の勇者たちによって、真理を保ち続けてきました。現代のアメリカや日本では、目に見える迫害や殉教といったものはないかもしれませんが、しかし、本物の信仰者に対する目に見えない圧迫や、神のことばを語る人々を失望させ、真理を語る勇気を取り去って、霊的に葬り去ろうとする力も働いています。そのような中で、キリストのしもべとして立つことの困難さを感じます。しかし、主は、いつでも真理に立つものを守り、用いてくださいます。ですから、真理を求める者たちが励ましあって、キリストのしもべとして生き抜いていきたいものです。

 三、パウロと真理

 主義主張だけを振り回し、それで真理の側に立っていると勘違いしている人々が多いのですが、パウロもまた、自分の主義主張だけを絶対とするだけの人だったのでしょうか。主義主張のためには、人の心も踏みにじって良いと考える冷たい心の持ち主だったのでしょうか。そうではありませんでした。パウロは、人の心を理解し、人間を大切にした人間らしい人でした。「人間的」という言葉は、良い意味でも、悪い意味でも使われます。良い意味では、神が人間を「神のかたち」に造ってくださった、人間の素晴らしい性質を指します。人間は他の動物とは違って、すぐれた知性を持ち、豊かな感情を持ち、自由な意志を持っていて、愛したり、信頼したり、希望を持ったりすることができます。ところが、ガラテヤ人への手紙では「人間的」という言葉が、良い意味ではなく、悪い意味で使われています。ここでは、本来は神から与えられた知恵や力にすぎないのに、思い上がって、自分の知恵や力を誇っている人間の罪深い性質を表わすのに使われています。聖書は、神から離れた人間の罪深い性質を「肉」と呼んでいますが、ここで使われている「人間的」というのは「肉的」という意味です。信仰を持つと人間らしさがなくなると思っている人がよくありますが、そうではなく、キリストを信じる信仰によって、肉的なものがきよめられて、本当の意味での人間らしさを取り戻すことができるのです。人間的、肉的なものが、ほんとうの人間らしさを損なうのです。パウロは、神に敵対する「人間的なもの」には立ち向かいましたが、神が与えてくださった「人間らしさ」を大切にしました。

 パウロは、真理に立ちながらも、人間らしさを忘れなかった人であり、ガラテヤの人々のために涙を流し、苦闘し、彼らを思いやることのできた人でした。4:19-20には「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいか困っているのです。」とありますが、使徒パウロの、ガラテヤの人々に対する母親のような愛が、ここに見られますね。キリストのしもべは、常に「愛をもって真理を語り」ます。ひとりびとりのうちに、みことばの真理が根付くまで、また、教会に真理の柱が立てられるまで、忍耐の限りを尽くすのです。

 なぜかと言うと、福音の真理とは、キリストの愛そのものだからです。パウロはそのキリストの愛に捕えられ、動かされていました。パウロは、ガラテヤ人への手紙の挨拶の部分で、「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(3節)と祈りました。この祈りは、もとのことばでは、「恵みと平安」という言葉が最初にきて、最後に「イエス・キリスト」という言葉が来るのですが、パウロは、「キリスト」という言葉に、分詞の形で「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。」(4節)ということばをつなげています。パウロは、イエス・キリストの御名を口にした時、その言葉だけで終わることができず、イエス・キリストがどんなに素晴らしいお方かを、書き加えずにはおれなかったのです。パウロは、イエス・キリストの恵みについて、この手紙の中で順を追って論じていくのですが、それを待ちきれないかのようにして、挨拶の部分でも、キリストの恵みについて、彼の心に燃え立っているものを、書き表したのです。

 パウロがキリストについて書いた、「キリストは今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。」ということばの中には、福音の真理が見事に言い表わされています。ここには、福音のエッセンスがあります。まず、第一に、ここには、私たちに罪があるということが教えられています。罪とは、犯罪を犯すとか、不道徳なことをするとかいったものだけではありません。私たちをそのようなことに駆り立てる、私たちの内側にある汚れた性質のことでもあるのです。そのような罪があるかぎり、表面的にはどんなに良くても、たましいの深い平安や、生きる喜びといった内面の幸いを得ることはできません。罪が赦され、きよめられなければ、私たちはきよい神に受け入れられることはないのです。第二に、ここには、キリストの死の意味が教えられています。キリストの十字架の苦しみと死は、私たちの罪のための身代わりだったのです。決して死を味わうことのない神の御子が私たちのために、肉体の死だけでなく、永遠の死をも味あわれたのです。しかも、キリストは不承不承そうされたのではなく、私たちを愛して、みずから進んで、その命を捨ててくださったのです。福音の真理とは、このキリストの愛にあるのです。第三に、ここには、罪の悔い改めが示されています。キリストが私のために死んでくださったということをほんとうの意味で知った人は、ふたたび同じ罪の中に生きたいと願いません。この世の悪に染まったままでいられないのです。罪を悔い改め、この世と調子を合わせるのではなく、神のみこころにそって、自分を変えていくのです。いいえ、神に変えていただくのです。神に変えていただきたいと願い、祈り、励むのです。

 主義主張を振り回すだけでは真理を伝えることはできません。パウロが真理に立ち、それを伝えることができたのは、「キリストが私の罪のために命を捨てられた。」という事実に生かされていたからでした。キリストの命がけの愛を知り、キリストをも命がけで愛したからでした。もし、ガラテヤの人々が、このキリストの恵みをしっかりと自分のものにしていたなら、キリストの愛によって心が燃やされていたなら、その心に、人間を誇るような思いが入ってきたりはしなかったでしょうし、やすやすと、誤った教えに傾いてはいかなかったでしょう。いつ、どんな時でも、キリストの恵みを忘れないように、キリストの愛を見失わないようにしていたいものです。そうでないと、私たちは、容易に人間的なものに振り回され、まどわされて、真理を見失ってしまうかもしれません。現代は、善も悪も、光も闇も、本物も偽者も区別がつかないほど混同している時代ですから、しっかりと目をさまし、それらを見極める知恵を祈り求めたいものです。そして、イエス・キリストの御名をもって祈るたびに、また、その恵みを求めるたびに、福音の真理を思い返しましょう。そうするなら、私たちは、真理にとどまり、真理によって自らを生かし、他の人を生かすことができる、キリストの弟子となるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたの主権や栄光が忘れられて、人間的な誇りが横行している「今の悪の世」ですが、キリストは私たちをそこから救い出そうとして、その命を捨ててくださいました。もし、私たちが、またもやそこに逆戻りしてしまうなら、私たちは、キリストの死を無駄なものにしてしまいます。私たちをキリストの恵みの中に留めてください。そして、この世にあって、キリストのしもべとして生かしてください。そのことによって、福音の真理をあかしする者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/10/2004