聖なる御名

エゼキエル36:22-28

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36:22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
36:23 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。──神である主の御告げ。──
36:24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

 一、神を第一にする祈り

 「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」との求めに答えて、イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えました。「主の祈り」では、まず、神を「父よ。」と呼び、それから、六つの願いが続きます。第一の願いは「あなたの名があがめられますように」、第二の願いは「あなたの国が来ますように」、第三の願いは「あなたの心が成りますように」です。最初の三つの願いはすべて「あなたの…」で始まります。第四の願いは「私たちの糧を与えてください」、第五の願いは「私たちの罪を赦してください」、第六の願いは「私たちを救ってください」です。私たちが祈るときには、いきなり「私の…」「私たちの…」という自分の、自分たちの願いごとが先に来るのではなく、「あなたの名」、「あなたの国」、「あなたの心」と、神のことを第一にして祈るようにと、主の祈りは教えているのです。

 「祈り」とは「神に願うこと」です。天の父は、私たちの必要を知っておられ、それをよろこんで与えようとしておられます。私たちは、子どもが父親におねだりをするように、どんなことでも、信頼を込めて天の父にお願いして良いのです。しかし、祈りのすべてが自分のための「願いごと」で始まり、自分のための「願いごと」で終わってはいけないのです。その前に、神をあがめ、賛美する祈りが先に来るよう、努めなければなりません。ユダヤの人々は、「神さま」と呼びかけたあと、しばらく、自分が呼びかけた神のことを黙想する習慣があります。神がどんなに素晴らしいお方であるか、恵み深く、あわれみ深いお方かを想いみるなら、おのずと、神への賛美や感謝が生まれてきます。「父よ。」と呼びかけ、「天におられる」お方を見上げるなら、「私の…」ということばよりも「あなたの…」ということばが出てくるのです。

 祈りには「願い」ばかりでなく、賛美や感謝、悔い改めやとりなしも含まれます。私は、洗礼準備会のとき、このことを、五本の指にたとえて説明しています。手を合わせて祈るとき、親指からはじめて、「賛美」、「感謝」、「悔い改め」、「願い」、「とりなし」の順で祈るようにしましょうと教えています。この、祈りの五つの要素はどれも省くことができません。願いやとりなしの前に、まず、神の御名があがめられることを祈りましょう。イエスは、どんなことにおいても、神を第一にすることを教えました。そして、それを祈りからそれを始めるようにと、「主の祈り」を私たちに与えてくださったのです。主の祈りを祈るたびに、神の御名、神の御国、神の御心を第一にする生活へと導かれていくのです。

 二、御名を回復する祈り

 では、「御名をあがめさせたまえ」にはどういう意味があるのでしょうか。英語では "Hallowed be thy name." と言います。"hallow" というのは「神聖なものにする」という意味があります。日本の正教会では「主の祈り」は、独特の文語体で、すこし節をつけて、祈ります。「天に在ます我等の父や。願はくは爾の名は聖とせられ」というふうにです。全教会共通の口語の「主の祈り」では「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように。」と祈ります。英語や正教会、また口語の「主の祈り」は、原文に近い訳なのです。

 「御名が聖とされますように。」という祈りは、「私たちが神の御名を汚すことがありませんように。もし私たちが神の御名を汚すようなことをしていたなら、聖なる御名が回復されますように。」ということを願っています。「名を汚す」というのは、日本人には分かりやすい概念だと思います。日本人は「家」を大事にし、「家名」を大事にしてきました。たとえば、「山本家」という由緒ある家に生まれた者が、何かの不祥事を起こすと、その人は「家名を汚した」というので、親戚づきあいから閉め出されるなどという制裁を受けます。武士の時代には、不祥事を起こさなくても、他の人から非難されたということだけで、その責任を取らされ、切腹させられることもありました。現代では、「家制度」が徐々になくなりつつありますが、会社、企業、団体が「家」の代わりになっているようです。会社の評判を落とすようなことがあれば、やはり、厳しい制裁が待っているのです。大企業になればなるほど、会社の名前やブランド名は大切なものになってきます。大手の食品会社の一つの工場が賞味期限をごまかした製品を出荷したりすると、その会社全体が信用を失います。今、世界でトップの自動車会社がリコール問題でずいぶんたたかれています。このブランドの車なら安心、安全と思われていたのに、その信用が大きく揺らいでいます。

 このように、人間社会でも「名を汚す」ことが、非難を受け、処罰されるのなら、神の名を汚すのは、なおのことです。実際、かつてのイスラエルの国は、「神の民」と呼ばれ、神の名を帯びていました。なのに、彼らは、自分たちの神の名を汚したのです。まことの神を捨てて、偶像の神々を拝み、自分たちのこどもを神々に犠牲としてささげることさえしました。国が信仰的に乱れるとき、かならず、政治も社会も乱れ、経済も衰え、国は力を失います。イスラエルの社会は不正と腐敗がはびこるところとなったのです。そのためイスラエルの北王国はアッシリヤに南王国はバビロンに滅ぼされ、その国民のほとんどが捕虜となって外国にひかれていきました。それを見た諸国の民は、「これは主の民なのに、その国から追い出された。」と言って、神の名が汚されたのです。

 しかし、神は、ご自分の名が汚されたままにしておかれませんでした。エゼキエル36:21に「しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。」とあるように、神はご自分の名を聖としようとされました。どのようにしてでしょうか。神の名を汚した人々を完全に滅ぼしてしまうことによってでしょうか。そうするなら、諸国の人々は神を正義の審判者として恐れ、かしこむようになるでしょう。しかし、愛の神は、そうはされませんでした。神の民を回復することによって、ご自分の名を聖なるものとしようとされたのです。エゼキエル36:25〜28に「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(エゼキエル36:25〜28)とあるとおりです。

 この約束は、イエス・キリストによって成就しました。かつてはイスラエルが「神の民」と呼ばれましたが、今は、イエス・キリストを信じる者が「神の民」と呼ばれています。かつてのように、血筋はもはや問われません。どこの国の誰であっても、イエス・キリストを信じる者は「神の民」となり、神は、その人の神となってくださるのです。イエス・キリストを信じる者には「きよい水」が注がれ、「新しい霊」が与えられます。これは、洗礼と聖霊とを表しています。ペンテコステの日に、使徒ペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:37-38)と教えました。イエス・キリストを信じてバプテスマ(洗礼)を受けるなら、それによって聖霊を受け、神の民になると、はっきりと教えられています。

 「御名が聖とされますように。」この祈りは、神から離れ、失われた者となっている人々が、神の民として回復することによって答えられていきます。人々の回復が神の名の回復になるのです。ひとりでも多くの人がイエス・キリストを信じる信仰に導かれ、洗礼を受けて聖霊を授かり、神の民とされることによって、神の名は聖とされていくのです。主の祈りを祈るたびに、イエス・キリストを信じて洗礼に至る人々が起こされるよう、願い求めていきましょう。

 三、御名をあがめる祈り

 「御名が聖とされますように。」との祈りは、神の名を汚すことがないようにというだけでなく、さらに積極的に、神の御名のすばらしさがもっと輝き出るように、御名の力が誰の目にも明らかになるようにということを願うことなのです。それは、私たちが、もっと神の御名を堅く信じ、その名を呼び、また、その名をことばと行いであかしすることができるようと祈ることなのです。

 第一に、私たちは、神の御名に信頼して、その御名を呼ぶことによって、神の名を聖なるものとすることができます。十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない。」という戒めがあるので、「神さま」「イエスさま」と、神の名を呼んで祈ることもしてはならないと誤解している人がありますが、決してそうではありません。神は「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。」(詩篇50:15)と言っておられます。預言者エリヤは、バアルの預言者たちを前にして「主の御名を呼び」ました(列王第一18:24)。聖書は「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」(ヨエル3:5)と約束し、イエスは「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13)と約束しておられます。父なる神も、イエスも、じつに数多くの名を持っておられます。神は「万軍の主」、「助け主」、「羊飼い」、「いやし主」、「友」、「力ある神」、「避難所」などと呼ばれ、私たちがどんな状態のときにもそれに対応してくだるお方です。もっと多くの神の御名を知り、信じ、呼び求めましょう。神は、私たちの唇から、主の御名がさらに多く語られることを喜んでくださるのです。

 第二に、私たちは良い行いに励むことによって、神の名をあがめることができます。コロサイ3:17は、「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」と教えています。「主イエスの名によってなす」というのは、主イエスの力によって、主イエスのために行うということです。「自分がやりました」と誇るためでなく、主の御名があがめられるためにすることです。そのような行いは、たとえ小さなものであったとしても、神はそれを覚え、報いてくださいます。ヘブル6:10に「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」とある通りです。

 第三に、私たちが、神の名を、恥じないで、大胆にあかしすることによって、神の名があがめられるようになります。初代のクリスチャンは、ユダヤの指導者たちから「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じられました。しかし、彼らは「御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」と祈って、神から勇気をいただき、ますます大胆にイエスの御名を広めました。それで、ユダヤの当局者たちは使徒たちを喚問し、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡しました。けれども使徒たちは釈放されると、再びイエスの名によって語り、イエスこそキリストであるとあかしし続けました。アメリカではそんな迫害はありません。何の束縛もなく、自由にイエスの御名を語ることができるのです。なのに、私たちはイエスの御名を語ることを、なんと多くの場合さし控えていることでしょうか。誰も制約していないのに、自分で制約してしまっているのです。「私の家族や友人は信仰のことは聞きたくないに違いない」と自分で思い込んでしまっているのです。イエスのことを語らないようにという、間違った「配慮」をしてしっているのです。人々は、クリスチャンからもっと信仰のことを聞きたいと思っているのです。教会の活動や行事のことだけでなく、イエス・キリストが自分にとってどういうお方なのかを知りたいと、心の奥では願っているのです。ですから、素晴らしいイエスのお名前を、もっと、確信をもって語り、明確に伝えましょう。私たちが、そのようにして神の名を高く掲げるとき、人々はそのすばらしさを知り、「御名が聖とされる」のです。

 神は、エゼキエル36:23で「わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき」と言われました。かつては御名を汚していたような私たちであっても、イエス・キリストの聖なる御名によって救い、その名で呼ばれる者とし、その名を人々に示す者としてくださいました。「諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。」とあるように、神は、私たちを使って、多くの人が神を知り、信じ、神に従うように導いてくださるのです。「御名が聖とされますように」との祈りによって、神の御名の栄光のために用いられる喜びにあずかることができるのです。

 (祈り)

 天の父よ、あなたの御名を軽んじ、汚すことしかしてこなかった私たちを、あわれみ、その聖なる御名によって救い、あなたの御名が聖なるものとされるために用いてくださいます。主の祈りを祈るたびに、あなたの聖なる御名を覚え、あなたの御名のために良い行いに励み、あなたの御名を大胆にあかしすることができますように。そのようにしてあなたの名が聖とされ、あがめられますように。私たちの主イエスの御名で祈ります。

2/14/2010