36:22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
36:23 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。―神である主の御告げ。―
36:24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
一、信仰の改革
1517年10月31日、ウィッテンベルグ大学教授マルティン・ルターは、大学での討論会を呼びかける書類を書き上げました。それは、95か条から成り立っていたので、『95か条の提題』と呼ばれるようになりました。ルターが『95か条の提題』で呼びかけたのは「贖宥状」についての議論でした。大司教アルブレヒトは、ローマへの献金を捻出するため、ドイツ国内での贖宥状販売を計画し、それをドミニコ会の司祭ティツェルに委託しました。ティツェルはルターの所属する教区の境界線ぎりぎりのところまで来て、「お前たちの霊魂と死んだ親しい者の救いのことを考えないかね。ほんの僅かな捧げ物で、お前たちはそれを買い戻せるのだ。…そもそも、お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、魂は煉獄から抜け出せるのだ。」と説きました。この「贖宥状」の販売には疑問の声が多くあり、評判の良くないものでしたが、ルターが問題にしたのは、「贖宥状」の背後にある信仰の堕落でした。罪の赦しは、人間の行いで勝ち取ることができるものでも、金銭で買い取ることができるものでもありません。それは、イエス・キリストが十字架の上で、私たちの罪を背負って苦しみ抜いて勝ち取ってくださったものです。そんなに尊いものが、人間のすこしばかりの善行で手に入る、お金で買えるわけがありません。神が、人間の救いのために、大きな愛で、まごころをこめて備えてくださった救いは、人間の側の、まごころからの悔い改めと信仰によって受け取るべきものです。罪の赦しは、神の恵みと人間の信仰が出会うところに存在します。罪を悔い改めなくても、告白しなくてもよい、償うべきものや償うことのできるものを償わなくてもかまわない、お金さえ出せば罪の赦しを得ることができると考えることは、信仰の堕落です。そんなふうに教えることは、福音を水増しすること、いや、福音を別のものと取り替えてしまうことで、それはイエス・キリストの教えではありません。それで、ルターは、『95箇条』の第一条で、「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、信仰者の生涯のすべてが悔い改めであるように命じられたのである。」(ラテン語:Dominus et magister noster Jesus Christus dicendo: Penitentiam agite etc. omnem vitam fidelium penitentiam esse voluit. ドイツ語:Unser Herr und Meister Jesus Christus hat mit seinem Wort "tut Buße" usw. gewollt, dass das ganze Leben der Gläubigen nichts als Buße sein soll.)と書いたのです。人々は、『95か条』の背後にあるルターの信仰に共鳴し、そこから教会の改革がはじまりました。それで、ルターが、『95か条の提題』を書き上げ、それをウィッテンベルグの教会の扉に掲示した日が「宗教改革の日」となりました。
それから、もうすぐ500年が経とうとしています。この500年の間に、プロテスタント教会が生まれ、カトリック教会も大きな変化を遂げました。もう、宗教改革は過去のものになったのでしょうか。もし、宗教改革がたんに教会の組織や、礼拝の形式、神学の変化だけであったなら、宗教改革は終わったと言っても良いでしょう。しかし、「宗教改革」は、実際は「信仰の改革」でした。それは、人々の信仰を正しいものにしていくことでした。この信仰の改革は止むことがあってはなりません。今も、そういった意味での宗教改革は続けられなければなりません。聖書が教えられず、福音が水増しされたり、別のものと取り替えられたのは、500年前のことではありません。それは、いつの時代にもあり、今もあります。いくら聖書が普及し、それが使われていても、聖書から、キリストの十字架や復活、罪の赦しや永遠のいのちといった、信仰の奥義が教えられるのでなければ、ほんとうの意味で聖書が教えられていることにはなりません。どうやったら職場で昇進できるか、お金を儲けられるか、人間関係がうまくいくかなどといったことが、あたかも聖書の中心の教えであるように語られ、信仰が私たちに富と健康を約束するもの、「元気のみなもと」としてしか受け取られていないとしたら、それは真実なものではありません。
この世には、イエス・キリストを信じる信仰を否定しようとする力と、それを歪めようとする力が常に働いています。初代教会は、信仰を否定しようとする力を「迫害」という形で、信仰を歪めようとする力を「異端」という形で体験しました。現代はもっと別の形で働いています。信仰を否定しようとする力は、誰の目にもあきらかで、そういうことがあれば、かえって信仰が強められ、一致できるのですが、信仰を歪めようとする力は、それに気付かない人が多く、知らない間に、教会が真理から離れてしまい、教会の中に不一致が起こり、ほんものの愛が消え、教会は力を失います。そうならないように、教会は、いつも自らを改革していかなければなりません。自分たちは大丈夫とおごり高ぶって、本当の改革を忘れてしまった教会は、神に喜ばれないどころが、世の害悪になることさえあります。
宗教改革の発祥の地ドイツに、ディートリッヒ・ボンヘッファーという牧師がいました。ヒットラーに抵抗し、ドイツが連合軍によって解放される直前に、ナチスによって処刑された牧師です。当時のドイツで「宗教改革記念日」といえば、それはすごいもので、マルチン・ルターは、ドイツを精神的な独立に導いた「ヒーロー」としてあがめられていました。ヒットラーはドイツ民族だけが優秀で、正しいと主張して、人々の心をつかみ独裁政治をしましたので、「マルチン・ルター」と「宗教改革」をドイツの民族主義をかき立てるために利用しました。これに対してボンヘッファーは、宗教改革記念日に、「ルターを民族主義のヒーローとして担ぎ出すのは間違っている。たんに自分たちの気に入らないものに反対して、自分たちだけが正しいとするのは、プロテスタントの精神ではない。」と説教しましたが、ドイツの教会の多くは、「ドイツ人だけが優秀で正しい」とする誤った民族主義によって福音がゆがめられていくのを防ぐことができませんでした。
みなさんが良く知っているように、ユダヤの人々は貨物列車に詰め込まれ、ポーランドのアウシュビッツに送りこまれました。この列車の終着駅はアウシュビッツなのです。その途中、貨物列車が必ず停まる駅があり、その駅前にひとつの教会がありました。貨物列車が駅に停まるのが、ちょうどその教会の礼拝時間でした。列車が駅に停まるたびに、貨物のコンテナの中から助けを求める声があがるのですが、そのとき、その教会は、その声が聞こえないようにと、オルガンを大きな音量で鳴らしたというのです。そんなことが実際にあったのです。この例が示すように、神のことばよりも政治家のことばに耳を傾け、救いを求める叫びに耳をふさいだ教会、つまり改革を忘れた教会は、独裁政治を許し、ホロコーストを見て見ぬふりをするようになってしまったのです。
ルターの宗教改革によって、確かに教会の礼拝や制度、組織が、それまでのものから大きく変わりました。しかし、教会の改革でいちばん大切なものは、外面の変化でないことを私たちは良く知っています。たんに形を変えること、やり方を変えることが、ほんとうの教会の改革ではありません。宗教、つまり、信仰の宿るところは、私たちの内面なのですから、それが「宗教」改革と言うからには、その改革は内面の改革でなければなりません。ルターをはじめ、改革者たちが教えたのは、内面の改革でした。神について、罪について、救いについて何も知らなくても、儀式に参加しさえすれば救われる。悔い改めや信仰がなくても、ただお賽銭をあげれば天国に行ける。巡礼をしたり、奉仕活動をしたり、寄付しさえすれば神の恵みに預かることができる。こころに愛がなくても表面だけ人とあわせておけば、それでよい、などとしていた人々に、悔い改めと信仰ときよめという内面の改革を教えたのです。私たちが目指す改革も、私たちひとりびとりの内面が変えられていくものでありたいものです。
二、こころの改革
しかし、人間に内面の改革ができるのでしょうか。私たちは、ちいさなことでも、自分の意見や、行動を変えることがとても難しいものです。良い話を聞いたり、本を読んだり、映画を観たりして感動し、そこで聞いたこと、観たこと、習ったことをやってみようとするのですが、なかなかそれを続けることができません。ある集まりで「ここでは政治の話はしないように。」というインストラクションを受けたすぐあとで、ある人が「今、ここでは政治の話はしないということになっていますが、こんどの大統領選挙で…」と、政治の話をはじめてしまったことがありました。同じようなことは、身近なところでよく見られます。ルールがあっても、ルールが基準になるのではなく、結局は自分のしたいことが基準になってしまうのです。このように、人は自分で自分を変えることはできません。しかし、神には出来ます。今朝の聖書、エゼキエル書には、私たちを造り変えてくださる神の恵みが示されています。
エゼキエル書は、イスラエルの人々が国を滅ぼされ、他の国々に散らされた後に与えられた預言の書物です。イスラエルが国を失ったのは、神の民であるにもかかわらず、自分たちの神を捨て、ほんとうは神ではない、他の神々に従ったからでした。20節に「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。」とあるとおり、イスラエルの人々が難民となって他の国々に寄留するたびに、神の名が汚されたのです。神は、ご自分の名を汚されたままにはしておかれず、22節で、「わたしが事を行う。」と言われました。神ご自身がその名の聖いことを示す、その名を高めると言われたのです。「わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。」と言われているのは、その背後に、イスラエルに対する神の「あわれみ」がないという意味ではありません。神は、ご自分の主権とともに、神の民へのあわれみによっても、ご自分の民を回復してくださるのですが、ここでは、神ご自身がご自分のきよさを守られるという、神の主権が強調されています。神のなみなみならない決意の表現です。
やがて時が来るとき、イスラエルは、寄留していた外国から自分の国に戻って来ます。そこには穀物も、木の実も、畑の産物も豊かに実り、飢饉が起こることはありません(29-30節)。廃墟が立て直され、城壁が築かれ、多くの人が住むようになります(33-35節)。このことは歴史の中で成就しています。しかし、こうした目に見えるイスラエルの回復の前に、もっと大切なことが約束されています。それは、人々の内面の変化です。25節から28節にこう書かれています。
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。たとえ、イスラエルに繁栄が戻ってきても、人々のこころが神から離れてしまっていたなら、イスラエルは再びその繁栄を失うでしょう。イスラエルが本当の悔い改めに導かれ、心の奥底からきよめられ、神の霊によって導かれるのでなければ、それは、イスラエルの本当の回復にはならないからです。神が求めておられるのは、神と神の民とが、真実に結びつき、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」という関係が成就することです。そして、その結果、神が「彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(38節)と言われたように、すべての人が神を知るようになることなのです。
この預言が、成就したのは、キリストが私たちを罪からきよめるため、十字架の上で血を流され、復活し、天にお帰りになった後、弟子たちに聖霊を注がれた、ペンテコステの出来事によってでした。その日、エルサレムで三千人の人々が罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、そして聖霊を受けました。エゼキエル書が預言していた、きよめの水と聖霊とを受けたのです。宗教改革やリバイバル、またリニューアルと呼ばれるものは、ペンテコステの繰り返しです。神は、今から二千年前のペンテコステと同じように、今も、教会を悔い改めに導き、きよめ、聖霊で満たしてくださいます。神は、神を信じる者が神とのまじわりを深め、世に出て行って、イエス・キリストこそ主であることを宣べ伝えることができる力を与えてくださるのです。
現代の世界は複雑な問題を抱えています。教会がこの時代の問題に誠実に取り組み、その中で、イエス・キリストこそ、この世の救い主であることを示すのは、決して容易なことではありません。それは、この世のものを取り入れれば良いというものではありませんし、時代の後を追えばできるようなものでもありません。もし、教会が、世の中と同じになってしまったなら、どうやって、神もなく望みもなく生きている人々に、本当の希望を示し、力を与えることができるのでしょうか。時代の後を追っていたのでは、この時代の問題に解決を示すことができないではありませんか。教会はむしろ、この時代に先んじていなければならないのです。皆さんが、イエス・キリストを信じて、消えることのない喜びを受けることができたのは、聖書をそのまま信じ、福音をまっすぐに伝える教会に出会ったからではなかったでしょうか。その信仰をしっかりと守りましょう。教会が福音をまっすぐに伝えることができるために、神は、本気でイエス・キリストを信じる人々を必要としておられます。聖霊の力によって、私たちがそのような者に変えられ、日々新しくされ、教会がたえず改革されていくことによって、教会は神の民となり、神の民は聖霊に満たされて、人々に主を知らせることができるようになるのです。そうして、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」「彼らは、わたしが主であることを知ろう。」という神のことばが成就するのです。ともに、聖霊による内面を改革を求めましょう。聖霊が教会に「信仰の改革」を、私たちひとりびとりに「こころの改革」を与えてくださいますように。
(祈り)
神さま、あなたは、みずからの罪によってあなたの名を汚したイスラエルをもあわれんで、回復を与えてくださいました。そのように、新約の時代に神の民に加えてくださった教会をあわれんでください。教会もまた、自分たちがあなたの民であることを忘れ、あなたの名を汚しています。教会をきよめ、聖霊によって新しくし、この時代にあっても、人々に聖なるあなたの名を知らせ、主イエス・キリストの御名を高らかに掲げることができるものとしてください。あなたは、「わたしが事を行う。」と約束されました。あなたを待ち望みます。あなたの名のゆえに、あなたの教会をかえりみ、絶えずみこころにかなうものへと造り変えてください。主イエスによって祈ります。
10/26/2008