36:22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
36:23 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。―神である主の御告げ。―
36:24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
36:29 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。
36:30 わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。
36:31 あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。
新年にあたり、聖書が私たちに教えていることの要点をおさらいし、確認しておきたいと思います。神が私たちに与えたメッセージのことを「福音」と言います。幸福の「福」と、音楽の「音」という字を書きます。でも「ふくおん」とは読まず、「ふくいん」と言います。「良い知らせ」、グッドニュースという意味です。福音は最初イエス・キリストが宣べ伝え、続いて、キリストの弟子たちがそれを世界中に広めました。福音が伝わっていったところに次々と教会ができあがりました。教会は、どこの国でも共通したものを持っていますが、同時に民族の違いや、歴史の違いによって、礼拝の形式などは違っています。日系の教会では、比較的静かな礼拝形式を保っていますが、アフリカ系の教会では、ダンスをしながら礼拝したり、説教者がワイヤレスマイクを持って、会衆の中を歩き回って説教したりします。聴き手も「アーメン」「ハレルヤ」と応答し、とても元気です。ドラムを使って賑やかに賛美する教会もあれば、楽器を一切使わないで、無伴奏で賛美を歌う教会もあります。冥想や祈りを強調するところもあれば、社会奉仕を強調するところもあります。教会の姿、形はそれぞれに違っていますが、しかし、教会が守り、伝えなければならない福音はひとつです。教会の外見は時代によって変わっていくでしょうが、神が、私たちの救いのために与えてくださった福音は変わりません。どんなに時代が変わっても、人間の根本的な必要は変わらないからです。
私たちは、この福音を変わりなく信じ、それを守り、伝えていきたいと願っていますが、いつの時代にも、神の福音を人間の教えに置き換えようとする人たちがいました。それは、初代教会からすでにあって、使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙で、「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」(ガラテヤ1:6-7)と言って嘆いています。今日も、クリスチャンである、キリストの教会であると言いながら、聖書は神のことばではないという人、キリストの十字架や復活は神話にすぎないなどという教会があるため、聖書を神のことばと信じ、聖書のとおり、キリストの十字架によって人は罪赦され、キリストの復活によって救われると信じる人々は、みずからを「福音派」と呼び、自分たちの信じる福音を純粋な福音という意味で「純福音」と呼ばなければなりませんでした。しかし、本来、すべての教会は、神の福音を信じる「福音派」でなければならないはずであり、その福音は「純福音」であるはずです。わざわざそのような言葉を使わなければならないこと自体、今の時代がどこかおかしいのです。
福音の内容を表わすのに「四重の福音」という言葉が使われてきました。この言葉は、A. B. シンプソンという牧師が強調し、シンプソン牧師から始まったアライアンス・ミッションは、「四重の福音」のシンボルを教団のロゴに掲げ、ホーリネス教団もこれを大切にしてきました。しかし、「四重の福音」は、特定の教団教派の主張というよりも、福音の要点を分かりやすく言い表したもので、これもすべての人が福音を正しく信じていれば、取り立てて言う必要がなかったものかもしれません。福音にはもともと、シンプソン牧師が唱えた四つの大切なメッセージが含まれているのです。その四つのメッセージとは、「新生、聖化、神癒、再臨」です。この四つのものがどのように関連しあっているかについては、次回からの説教でお話しすることにし、今朝は、「新生」(新しく生まれること)について学ぶことにしましょう。
一、新生の必要性
「新年、新品、新人、新居」など「新」がつく言葉はたくさんありすが、「新生」というのは、霊的な生まれ変わりのことを言います。イエスが「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われたように、私たちが救われるためには、新生が必要なのです。
なぜかと言えば、私たちの生まれつきの性質は、罪に染まっていて、いくら教育をほどこしても、訓練をしても、その性質を変えることができないからです。19世紀は、進化論的な思想が流行していて、人間は限りなく進化しており、環境がよくなり、教育がすすめば、犯罪や戦争はなくなり、地上に天国が実現すると信じられていました。しかし、20世紀になってふたつも世界戦争が起こりました。教育は進んでも、教育のある人たちが、とんでもない悪いことをするようになりました。豊かになって貧しさのために盗みをする人は減っても、スリルを楽しむために盗みをする人々は増えるばかりです。デパートやスーパーマーケットでは、盗難防止のために専門の人を雇い、監視カメラやアラーム装置をつけなければなりません。そうした人件費や設備、それに、万引による損失分も、物の値段の中に含まれているわけで、私たちは、実際の値段よりも随分高い買い物をさせられているわけです。人間ができることは、犯罪を防ぐために、法律をつくり、罰を与え、様々な設備やシステムを作ることだけで、科学万能と言われる現代にも、人の心から自己中心や、邪悪な思いを取り去ることはできないでいるのです。
イエスは、異邦人に触れると汚れる、彼らが食べているものを食べると汚れると言っていたユダヤの人々に対して「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15)と言いました。ユダヤ人は汚れは外からふりかかってくると考えていたのです。日本人も同じように考え、神社でお払いをしてもられば、外からふりかかった汚れからきよめられると信じていました。しかし、イエスは、外からのものが私たちを汚すのでなく、むしろ、私たちの心の中から汚れが出てくるのだと言われました。イエスは、弟子たちに「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)と教えました。悪の問題は、私たちの外側にあるのでなく、私たちの内側にあるのです。これは、私が経験したことですが、ある時、ガラージに置いてあったモータオイルの容器が汚れていたので、それを使った時にオイルがこぼれたのかなと思っていました。ところが、しばらくして見ると、またそこにオイルがたまっていました。オイルは外からついたものではなく、オイルの容器に目に見えない亀裂があって、そこからにじみ出ていたものでした。こんな時は、いくら容器をきれい拭いても、また汚れてしまいます。オイルの容器を取替えなければならないのです。私たちの心の中の悪や汚れも同じことで、いくら外側をきれいにし、立派にしても、私たちの心の中が変わらなければ、また同じ問題に戻ってしまうのです。
イエスはこのことを「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ8:17-18)というたとえで教えています。柿の木はどんなに頑張っても、りんごやなしをならせることはできません。同じ柿でも、渋柿の木は渋柿しかならせることができません。木には、それぞれの性質があり、その性質が実となって表われるのです。球根も同じですね。球根は外から見ればみな同じような形をしていますが、それを植えてみると、まったく違った花を咲かせます。チューリップの球根はチューリップの花を咲かせ、スイセンの球根はスイセンの花を咲かせます。私たちの心は球根のようなもので、心の中の隠れた性質が言葉や行い、態度となって外に表われてくるのです。ですから、ほんとうに良い実をならせたいなら、また、美しい花を咲かせたいなら、私たちは心の内側から変えられなければならないのです。
イエス・キリストの救いは、私たちの心をまったく新しくし、私たちを新しい人間に生まれ変わらせてくれます。それを「新生」と言い、キリストの福音はこの「新生」の恵みを私たちに伝えているのです。このことは旧約聖書にすでに預言されていました。エゼキエル36:26-27はそのひとつです。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」神は、私たちの石のような固い心を取り除いて、血の通った柔らかい心を与えてくださるのです。
「新生」は「再創造」とも呼ばれます。創世記には人は神のかたちに造られ、その中に「いのちの息」を吹きこまれて「人は生きたものとなった」(創世記2:7)とあります。ところが、人間は、造り主である神から離れ、神のかたちを失ない、罪の中に「死んだもの」となってしまいました。神は、そのような人間が、もう一度造り変えられ、神のかたちをとりもどすことができるために、イエス・キリストによる救いを備えてくださいました。新生、あるいは、再創造は、クリスチャンであれば、誰もが最初に知っておかなければならない教えです。エペソ人への手紙にはこうあります。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造りだされた、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22-24)パウロは、ここで、クリスチャンであれば、誰もが新生が何であるか知り、すでに体験しているはずだと言っているのです。
新生はまた、死んでいたものが復活することにもたとえられています。罪は、肉体の死ばかりでなく、たましいの死をもたらします。どの人もかならず死にますが、それは、すべての人が例外なく、神の前に罪を犯していることを証明しています。私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」でした。しかし、神は、キリストの復活の力によって、キリストとともに、霊的な死からよみがえらせ、キリストのいのちによって生きる者としてくださいました。聖書はこう言っています。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−あなたがたの救われたのは、ただ恵みによるのです。−キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4-6)「新生」それは、私たちが考えてもいなかったような恵みです。神は、私たちを根本から救うために、その豊かなあわれみと大きな愛によって、こんなに素晴らしい救いを備えていてくださっているのです。
二、新生の方法
では、どうしたら、私たちは新しく生まれ変わり、造り変えられ、また、霊的な死からいのちへとよみがえることができるのでしょうか。新生は新しい誕生のことですので、私たちが、この世に生を受けた誕生の時と比べながら考えてみると理解しやすいと思います。
第一に、私たちの誕生が、私たちの力を超えた出来事であるように、新しい誕生も、私たちの力によってではなく、神の力によってもたらされます。私たちは誰一人、自分の意志でこの世に生まれてきたのではありません。どの時代の、どの国に生まれるかということは、私たちに決められることではありません。日本語では「生まれた」と言いますが、ほんとうは、「生んでもらった」のです。英語で "I was born in Japan." というように、私たちは、誰も、私たちを超えた存在、造り主なる神によって、この世に生を受けました。同じように、新しい誕生もまた、神の力によってもたらされます。決して人間の力によってではありません。よく、「生まれ変わった気持で」と言います。理性を働かせ、意志の力をふりしぼって、懸命の努力をして、困難を乗り越え、自分を変えていくことができる人はごくまれでしょう。私たちの多くは、新年の決意も三日坊主で終わり、いつまでも過去の出来事にこだわり、たえず、迷いの中にあります。理性も、意志も、感情も、自分ではコントロールできないのでいます。たとえ、一時的に平静な心になっても、それは、コップの中に入った泥水が、そっとしている時は、表面は澄んでいても、少しでもコップが揺れると、再び、泥水に戻ってしまうようなものです。人間の力で「生まれ変わり」は不可能です。しかし、私たちを造り、この世に生み出してくださった神にはそれが出来るのです。
今の若い人たちが、私たちから見ればとんでもないヘアスタイルをしたり、ファッションをしたりしていますが、その背後には「自分を変えたい」という気持が働いているのかもしれません。何か目新しいことをすれば、自分を変えられると思ってそうしているのでしょう。しかし、そうしたことによっては、ほんとうには自分を変えることができず、若者たちは、自分を変えることができないことに、さらにフラストレ−ションを感じて、そのすることがどんどんエスカレ−トしていくのでしょう。若い人だけでなく、多くの人が自分を変えようとしていろんなことを試みてきたことでしょう。しかし、ほとんどの場合、それらは徒労に終ったのではないでしょうか。そして、人は生まれ変わることなどできないのだ、すべては生まれつき背負った遺伝子の力によってしばられているのだという、運命論に縛られている人がなんと多いことでしょう。私たちの人生を運命に委ねるのでなく、愛の神に任せましょう。神は、人にできないことをしてくださるお方です。神は、若い人ばかりでなく、どんな人も、福音を信じるすべての人を新しく生まれ変わらせてくださるのです。
第二に、新生は、キリストを信じる信仰によってもたらされます。私たちの誕生、最初の誕生は、私たちの意志と力を超えた出来事でした。第二の誕生も、同じように、自分の力によってではなく、神の力によってなされます。しかし、第二の誕生の時には、最初の誕生とは違って、私たちの願いや求め、そして信仰が働きます。「私も新しく生まれ変わる必要がある」ということを認め、そのことを願い、神がそれのことをしてくださると信じる時、それは起こるのです。ヨハネの福音書にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(1:12-13)私たちが、新しく生まれ、神の子どもとして受け入れられるためには、私たちも、神の御子キリストを心に迎え入れる必要があるのです。キリストを信じる時、私たちは新しく生まれ変わることができるのです。赤ちゃんは、母親の命に生かされ、母親の力で生み出されますが、産道を通る時に、赤ちゃん自身も頭を回わして、母親と力を合わせるそうです。そのように、私たちも、新しく生まれる時には、私たちの信仰によって神と力を合わせるのです。神の新生の力を自分の中にとりこむのです。赤ちゃんが生まれてすぐ産声をあげるように、キリストを信じて生まれ変わりを体験した者は、信仰を言い表わします。生まれてすぐ産湯が使われるように、生まれ変わりを体験したら、信仰告白に続いてバプテスマを受けるのです。バプテスマが生まれ変わりのしるしとなるのです。そして、生まれた赤ちゃんが戸籍に登録され、家族の一員となるように、その人も教会のメンバーとなり、教会生活をはじめるのです。
第三に、私たちの誕生が瞬間的な出来事であるように、新生もまた瞬間の出来事です。安産もあれば難産もありますが、生まれるのに、一週間もかかった、一カ月もかかったという人はありません。母親の胎内で九カ月過ごしたとしても、世に生まれ出るのは、長くて数時間のうちです。同じように、私たちが霊的な生まれ変わりを体験するのは、瞬間的です。私たちが、新しく生まれ変わるには、何年も何十年も必要ではないのです。ある人たちは、長く教会に来ているうちに人はクリスチャンになるのだと考えています。長い間に、聖書の教えを学び、教会での立居振舞を身につけ、クリスチャンになっていくのだと考えていますが、そうでしょうか。時間をかければ何でも可能になるというのは非科学な考え方です。それは、ビリ−・グラハムが言うように、三輪車も長い間ガラ−ジに入れておけばやがて自動車になると信じるようなものです。羽鳥 明先生は、時間が人をクリスチャンにすると信じる人は「カレンダ−でも拝んでいれば良い」と言っています。
ザアカイは、イエスを客に迎えたその日に、生まれ変わりを体験しています。イエスとともに十字架につけられた犯罪人のひとりは、朝の九時から正午までの三時間のうちに信仰を持ち、イエスから天国を約束されています。エチオピアの宦官は、ピリポを自分の馬車に乗せ、数哩進んでいく間に、信仰を言い表わし、ピリポからバプテスマを受けています。「時間」が人をクリスチャンにするのではありません。キリストを信じるという「時」が、人を生まれ変わらせるのです。聖書は言います。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」(コリント第二6:2)神の「時」を避けていては、どんなに「時間」をかけても、生まれ変わりを体験することができません。私たちには明日がどうなるか、わかりません。明日ではなく、今日という日を、新しい人生への第一歩にしましょう。「今は恵みの時、今は救いの日です。」今のこの時、今日というこの日に、新生の恵みを受けることができるよう、祈ってやみません。
(祈り)
父なる神さま、人はうわべを見ますが、あなたは、私たちの心の奥深くをごらんになります。私たちには、表面の変化でなく、内面の変化が必要です。あなたは、私たちの救いに必要な生まれ変わり、新生を、約束し、それをキリストによって実現してくださいました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」この恵みをまだ受け取っていない方々がありましたら、今という時、今日という日にそれを体験できますよう、導いてください。この恵みを知らない人々に、新生の福音を伝えていく、私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
1/12/2003