贖いの神(一)

出エジプト記6:6-7

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6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。

 W. A. Criswell 先生は、アメリカ南部だけでなく、全米の多くの人々に影響を与えた人でした。Saddleback 教会の Rick Warren 牧師は Criswell 先生から「あなはダラス・ファースト・バプテスト教会より大きな教会を建てる」という「預言」を受けたと、その著書に書いていますが、果たして、その通りになりました。また、サンディエゴの Shadow Moutain 教会の David Jeremiah 牧師は、Criswell 先生が遺された霊的なものを受け継ぎ、聖書に立つ、堅実な教会を建て上げています。

 わたしはサンディエゴにいたとき、Criswell 先生が来られるというので、Shadow Mountain 教会に行きました。Jeremiah 牧師が Criswell 先生を紹介し、先生が講壇に立つと、こう言いました。「Jeremiah 先生の紹介は、二番目に良かった紹介でした。一番良いのはこれです。みなさん、わたしが W. A. Criswell です。」Criswell 先生はどこででも、そう言って、人々を笑わせるのですが、それは単なるジョークではありません。先生は、「本人が本人のことを語るのが、いちばん良いように、神は、聖書によって、ご自分を示しておられる。聖書は、神の自己紹介なのだから、聖書から神はどのようなお方なのかを学ぶのが一番である」と言って、メッセージを始めました。

 Criswell 先生のお話のように、聖書は、神の自己紹介の書物です。神ご自身が聖書によって「わたしはこのような者である」と、ご自分を示していてくださるのです。ですから、「神とはどのようなお方か」を知りたいなら、神について自分であれこれと想像するのではなく、聖書に向かい、聖書に聴くことが一番なのです。

 わたしたちはすでに聖書から、神が「創造の神」であり、「摂理の神」であることを学びました。そして、神がこの世界の造り主であり、この世界を保っておられるお方であるなら、奇蹟を行うことがお出来になるのは当然であり、また、神が奇蹟を行なってでも、人を救おうとされる愛のお方であることも知りました。きょうは、そのことに加えて、神が「贖いの神」であることを学びたいと思います。

 一、罪からの贖い

 「贖い」という言葉には、人手に売り渡されたものを買い戻すという意味があります。財産が人手に渡るということは今でもありますが、古代には人間が売り買いされ、人手に渡り、奴隷になるということがありました。いったん、奴隷になると、ほとんどの場合、ずっと奴隷のままなのですが、もし、誰かが、「贖い金」というものを支払ってくれたなら、奴隷から自由人になることができました。また、犯罪者が誰かを誘拐して人質にした場合、人質を解放するため「身代金」が支払われることがあります。このように、「代価を支払って人を買い戻す」また、「身代金を払って救出する」ということを「贖い」と言います。

 聖書は、人は、罪のもとに売られて、その奴隷となっていると教えています。その姿を一番よく表わしているのが、「依存症」でしょう。「アルコール依存症」や「ギャンブル依存症」など数多くの依存症がありますが、そのどれにも共通点があります。それは、依存症の人が、自分が依存症であることに気付いていないこと、また、それに気付いたとしても、自分の力では依存物(アディクション)から抜け出すことができないということです。依存症の人は、依存物を「やめようと思えば、いつでもやめられる」と考えていますが、実際は依存物に束縛されており、そこから解放されるためには、その人以外の力、その人以上の力が必要なのです。

 聖書の言う罪も同じです。ローマ7:15に「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」とあるように、罪を犯すとき、人は、その罪に縛られてしまうのです。誰もが罪を犯してはいけないと分かっていても、分かっているとおりのことができないという矛盾をかかえています。具体的な罪、大きな罪を犯すことがなくても、神に対して頑固な思いを抱き続けたり、人を羨んだり、見下げたりという内面の罪に縛られることもあります。依存症の場合と同じように、それが罪だと気付かずに無意識のうちに犯す罪もあります。ですから、神の言葉に照らされ、自分の罪に気付き、それに気付いたならすぐに悔い改め、神に、罪から解放してくださることを願い求めたいと思います。わたしたちの神は、そして、わたしたちの神だけが、罪に束縛された者を、その束縛から、買い戻してくださる「贖いの神」なのですから。

 二、贖いの代価

 「贖い」とは「買い戻す」ことですから、「代価」が必要です。では、人が罪から解放されるために支払われる「代価」とは、何でしょうか。いや、「何でしょうか」と言うべきではありません。それは「誰でしょうか」と言うべきでしょう。それは、神のひとり子、イエス・キリストです。わたしたちが犯した罪は、どこかでその代償が支払れなくてはなりません。「罪の支払う報酬は死である」とあるように、それは罪を犯した者が自分の命で償わなければならないのです。「償う」といっても、罪ある人間がささげるいのちが罪を完全に解決できるわけでもありません。支払っても支払いきれないものが永遠に残るのです。

 しかし、神は、わたしたちが犯した罪を完全に償うため、神の御子を「贖い金」、また「身代金」として差し出してくださいました。それが、イエス・キリストの十字架の死でした。神は御子イエスの命という「代価」によって、わたしたちを罪の「奴隷」から、また悪の力の「人質」から、贖い出してくださったのです。

 なぜ、神は、そうまでしてくださったのでしょう。人間の側には、そうしてもらうような理由は何一つありません。それは、ただ神の一方的な愛のゆえです。聖書は、この神の愛についてこう言っています。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:9-10)神の愛は、イエス・キリストが「贖い」となってくださったことの中に最も良く現われているのです。

 もちろん、神を「創造の神」として知るときも、神の愛を感じ取ることができます。神の造られた美しい世界を見るとき、そこにある神のいつしみに触れます。また、神を「摂理の神」として知るときも、神の愛の見事さに心を打たれます。しかし、神の愛は、イエス・キリストの、あの十字架にこそ、最も力強く輝いているのです。神は、御子イエス・キリストに十字架とともにわたしたちすべての者の、すべての罪を負わせ、その命を、わたしたちが罪から贖い出されるための「代価」としてくださいました。神の、この「贖い」の中にこそ、わたしたちは、神の究極の愛を見ることができます。神を「贖いの神」として知るとき、はじめて、神の最も深い愛を体験することができるのです。

 三、贖いの目的

 今朝の箇所に「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう」(6節)とあります。これは、神がモーセに語られた言葉です。神は、エジプトで奴隷となり、苦しんでいるイスラエルの人々を救うため、モーセを遣わされました。ところが、イスラエルの人々はモーセを信用しませんでしたし、エジプトの王、ファラオも、神がモーセを通して語られた言葉に聞き従いませんでした。それで神は、エジプトに九つの災害を与えました。九つの災害はエジプトの国に大きな損害を与えましたが、王宮にいるファラオには直接の被害はありませんでした。ファラオが何度も言葉を翻して神に従わなかったため、ついに、十番目の災害が与えられることになりました。これは、エジプト中の初子という初子が、家畜の初子からはじまって、ファラオの王子にいたるまで、一夜のうちにすべての長子が死ぬという恐ろしい災いでした。この災いの結果、ファラオはついに、イスラエルの人々を解放し、イスラエルの人々はエジプトを脱出しました。神が「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう」と言われたのは、このことだったのです。

 しかし、十番目の災いでイスラエルの人々の子どもまでもが死ぬことになったら、それはイスラエルの救いにはなりません。それで、神は、イスラエルの子どもたちの代わりに小羊をほふり、その血を家の戸口に塗るように命じました。この災害は、家の戸口に子羊の血が塗られた家を過越したのです。それで、この災いからの救いは「過越」と呼ばれ、今にいたるまで、イスラエルの人々の間で守られています。

 聖書は、この「過越」はイエス・キリストの救いの雛型であると教えています。わたしたちは、イスラエルがエジプトで奴隷であったように、罪の奴隷でした。「過越」の日に屠られた子羊は、イエス・キリストを指し示しています。それでイエス・キリストは、「神の子羊」と呼ばれるのです。イスラエルの人々が守ってきた「過越」の食事は、イエス・キリストによって「主の晩餐」となりました。わたしたちは、「神の子羊」となられたイエス・キリストによって、罪の刑罰が「過越し」、わたしたちが贖われていることを、この晩餐によって、こころから感謝するのです。

 神は、エジプトから贖われたイスラエルの人々を「ご自分のもの」とし、「神の民」とされました。7節に「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」とある通りです。イエス・キリストによって「贖われた」者は、罪の奴隷から解放され、自由になったのはいいが、どこへ行ってよいか分からないというのではありません。イエス・キリストによって「贖われた」者は、「神のもの」となり、「神の民」とされるのです。奴隷の家から天の市民となり、わたしたちを贖ってくださった主に仕える者となるのです。このように「贖い」には、目的があるのです。イエス・キリストによって贖われた者たちが、神の「贖いの愛」をほめたたえ、それに感謝し、そして、神に贖われたことをいつも自覚して、「神のもの」、「神の民」として生きていくという目的です。これが、旧約に預言され、イエス・キリストによって実現した「贖い」です。わたしたちは、この「贖いの神」、この「贖い主」イエス・キリストを信じる者たちなのです。

 黙示録14:3にこうあります。「彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。」天の礼拝での賛美は、「贖われた者」たちが、御子イエス・キリストの「贖い」をほめたたえて歌う賛美です。ファニー・クロスビーの書いた賛美に「われ贖われて、自由にせられ、キリストにありて、やすき身なり。贖い、贖い。われは歌わん」とあるように、わたしたちも、「贖われた者」となり、「贖われた者」として生き、この天の賛美に加わりたいと思います。

 (祈り)

 神様、あなたは、イエス・キリストを「贖いの供え物」とし、わたしたちを罪から贖ってくださいました。この「贖い」の奥義に秘められた、あなたの愛をもっと知り、それによってあなたをもっと賛美する者としてください。贖い主、イエス・キリストによって祈ります。

3/5/2017