伸ばされた腕によって

出エジプト記6:5-9

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6:5 今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」
6:9 モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。

 一、失敗からのスタート

 神は、ミディアンでモーセに現れ、「エジプトに行け」と命じられました。モーセはそれに応え、しゅうとのイテロに暇乞いをし、妻ツィポラと二人の息子、ゲルショムとエリエゼル(歴代誌第一23:15)を伴ってエジプトに向かいました。

 しかし、モーセはエジプトの宮廷で育ち、長年ミディアンにいた人です。そんなモーセがいきなり人々のところに戻ってきて「神はこう言われた」と言っても、人々は信じることができません。それで、神は、あらかじめモーセの兄、アロンにも現れ、モーセを迎えるよう手筈をしておられました。アロンはモーセを迎え、連れ立ってイスラエルの長老たちのところに行き、モーセはアロンの取り次ぎによって、イスラエルの人々に受け入れられるようになりました。

 こうしたアロンの助けの中に、モーセは、神が共におられることを知り、体験したことと思います。神が、必要な時に、必要な助け人を与えてくださったことは、皆さんも何度も体験していることでしょう。

 イエスは言われました。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:19-20)私たちが共に礼拝を捧げ、共に祈る中に、主が共にいてくださるとの約束です。信仰の交わりは、私たちはがそれによって、主が共にいてくださることを確信する手段の一つです。ですから私たちは、そうした信仰のわり、礼拝の集まりを大切にしたいと思います。これは、神からのギフトで、その中に、主が共におられることが隠されているのです。

 イスラエルの人々は、モーセが告げ、アロンが人々に語った神の言葉を聞いたとき、神を信じ、その場でひざまずいて礼拝をささげました。出エジプト記4:30-31に「アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した」とあります。人々は、長年の祈りが聞かれた、奴隷の苦しみから解放される時が来たと言って、喜びました。

 ところが、モーセとアロンがファラオのところに行って交渉すると、ファラオは怒って、イスラエルの労役をもっと増やしました。それまでは、れんがを作るのに、藁も支給されていましたが、これからは藁も自分たちで集めるよう命じられました。しかも、今まで通りの数のれんがを作ることが要求されました。それは、麦の刈り入れが終わったあとで、どこへ行っても藁を見つけることができません。人々は畑に残っている刈株を、藁のかわりにしました。刈株を掘り起こすのは、藁の束を担ぐように簡単なことではありません。イスラエルの人々は、厳しい労働に疲れ果て、モーセとアロンを恨むようになりました。モーセとアロンは、ファラオから睨まれ、イスラエルの人々からは恨まれるようになったのです。

 何か新しいことを始めようとするときには、最初が肝心です。最初うまく行けば、そのあとも順調に物事が進むものです。ところが、モーセは最初から躓いてしまいました。モーセのミッションは、失敗から始まったのです。

 二、立ち直る方法

 では、そのときモーセはどうしたでしょうか。5:22をごらんください。「それでモーセは主のもとに戻り、そして言った」とあります。「主のもと」とは、どこでしょう。モーセはホレブの山で主である神に出会いましたが、そこに戻ったということではありません。彼のいたのはエジプトです。「主のもとに戻り」とは、ミディアンからエジプトまで、ずうっと共にいてくださった神が、エジプトでも共におられる、その、神の臨在(プレゼンス)に立ち返って祈ったということです。モーセは、最初から躓くような目にあい、ずいぶん落胆し、失望しました。自分に与えられた使命を投げ出して、ミディアンに帰ろうとしたかもしれません。しかし、モーセは、主が、共におられることを忘れませんでした。「主が共におられる」こと、主の臨在を確信することは信仰の出発点です。そして、それは同時に信仰のゴールです。

 聖書は、「私はどこへ行けるでしょう。/あなたの御霊から離れて。/どこへ逃れられるでしょう。/あなたの御前を離れて。たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。」(詩篇139:7-8)と言って、主は、どこにでもおられるお方だと告げています。私たちが様々なことで、思い煩ったり、失望したり、落胆したり、また、恐れを覚えるとき、「主が共におられる」ことを知り、信じることによって、私たちは、どんなに励まされ、立ち上がることができます。失敗しても、「主のもとに戻る」なら、もう一度、いや、何度でも、やり直すができるのです。共にいてくださる主を知ることは、信仰のスタートラインです。

 また、主と共にあることを喜ぶこと、それは、信仰のゴールでもあるのです。詩篇27:4に、「一つのことを私は主に願った。/それを私は求めている。/私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。/主の麗しさに目を注ぎ/その宮で思いを巡らすために」とあるように、主と共にいること、それは信仰者が求めてやまないものです。私たちが最終的に住むところ、天の都には、真珠の門や黄金の道があり、命の水の川が流れ、その両岸には命の木があって、あらゆる人にあらゆる癒やしをもたらします。そこには罪がなく、どんな暗い陰もありません。すべてが、きよく、美しく、栄光に輝いています。しかし、天で最も素晴らしいものは、真珠の門でも黄金の道でもありません。神ご自身が、人とともにいてくださることです。神と人との間に、何の隔てもなく、私たちが神の臨在を全身で感じ取って喜ぶことにあるのです。聖書に、こう言われています。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)

 私たちは、この天の都を目指す巡礼者です。それぞれ、生まれた国も、場所も、年代も、境遇も違います。しかし、向かって行くところは同じです。やがて、イエスが備えていてくださる天のマンションの同じ住民となるのです。神は、天を目指す旅においても、私たちと共にいてくださいます。時には、神の臨在を見失ってしまうことがあるかもしれませんが、私たちが神を見失うことがあっても、神は私たちを見ていてくださいます。目を離すことなく、まぶたを閉じることなく見守ってくださっています。ですから、そのことを思い起こして、いつでも、神の臨在を見る目を取り戻しましょう。

 三、神の腕

 モーセは祈りました。「なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」(5:22-23)これは、神に文句を言い、抗議するような祈りで、決してお手本になる祈りとは言えません。しかし、それは正直で、真剣な祈りでした。神は、真実な祈りに、真実をもって聞き、答えてくださいます。また、モーセは「あなたは…」、「あなたの…」と言っています。神を「あなた」と二人称で呼んでいるのは、モーセが神との人格の交わりを持っていたこと、神の臨在を身近に感じ、臨在の前で祈ったのです。

 神はモーセに答えてこう答えられました。「今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」(6:5)神の救いは、ファラオによってでもなく、モーセによってでもなく、イスラエルの人々によってでもなく、神ご自身によってなされます。エジプトで労役に苦しみ、あえいでいる人々の嘆きを聞いてくさる神のあわれみ、また、イスラエルの父祖たちに立てた契約を守り通される神の真実がイスラエルを救うのです。救いの根源は、どんな場合でも、神の真実とあわれみにあります。そして、神の真実は変ることがなく、神のあわれみは尽きることがないのです。

 神の真実とあわれみは、神の「ハート」にあるのですが、神は同時に、ご自分の心のうちにあるものを実行する「腕」をも持っておられます。6節に、「それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う』」とある通りです。この「伸ばされた腕」とは、神の全能の力を意味します。私たちが「あの人は手腕がある」と言うとき、それは、文字通り、その人が手や腕を持っているという意味ではありません。「手腕」が才能や能力があることを意味するように、神の「伸ばされた腕」とは、神の全能の力を意味します。

 モーセが行ってファラオに語ると、ファラオは頑固になって、イスラエルをさらに苦しめました。では、それによってイスラエルの救いは遠のいたのでしょうか。いいえ、ファラオがイスラエルに寛容になることによって、イスラエルが奴隷から解放されるのではありません。ファラオがいくら頑固であっても、神のみ腕の力がファラオを屈服させ、イスラエルは奴隷から解放されるのです。

 また、救いは、モーセの外交手腕によるのでもありません。モーセは、ミディアンで神から使命を授かったとき、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは」(3:11)と言いました。宮廷にいたときのモーセは、支配者階級にいて、自分を「何者かである」ように考えていたことでしょう。モーセは宮廷で財産を持っていたかもしれませんが、ミディアンでは、彼は、何一つ財産を持ちませんでした。ミディアンでのモーセは、「何者でもなかった」のです。モーセファラオとの最初の交渉は見事に失敗しました。モーセは、自分が「何者でもない」ことを、痛いほど感じたでしょう。しかし、それはイスラエルの救いに何の問題にもなりません。イスラエルを救うのは、モーセの手腕ではないからです。神は、ご自分の力を示すため、「何者でもない者」を用いられるのです。

 また、イスラエルの人々は、神の言葉を聞いても、失望や落胆から立ち上がることができませんでした(9節)。しかし、神は、イスラエルの人々の不信仰のゆえに、その手を差し控えられはしませんでした。むしろ、イスラエルの人々が、主こそ神であることを知り、信じることができるため、その腕を伸ばそうとしておられたのです。詩篇44:3は、こう言っています。「自分の剣によって 彼らは地を得たのではなく/自分の腕が 彼らを救ったのでもありません。/ただあなたの右の手 あなたの御腕/あなたの御顔の光が そうしたのです。/あなたが彼らを愛されたからです。」「あなたの御腕」が意味する神の力、「あなたの御顔の光」で表されている神の臨在が、イスラエルを救いました。そして、「あなたが彼らを愛されたからです」とあるように、救いは神の愛、あわれみから出たものでした。私たちも、同じように、神の愛により、神の臨在により、神の力により救われ、救いのうちに保たれ、やがて天の都に住むようになります。神の愛に私たちの救いの源があることを覚えて感謝を捧げます。

 (祈り)

 主なる神さま、私たちの救いが、あなたの愛と真実に基づくこと、また、それが、あなたの力強く、伸ばされた腕によってなされることを、きょう、学びました。私たちも、モーセのように失敗し、イスラエルの人々のように失望、落胆する者です。そうしたときにも、あなたが共におられることを信じ、あなたの愛のお心により頼み、あなたがそのみ腕を伸ばして、みわざを行ってくださることを願い求める者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/23/2024