32:31 そこでモーセは主のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」
一、シナイを目指して
イスラエルの人々は、紅海でファラオの軍勢から救われたのち、シナイ山に向かうためシンの荒野に入りました。それは、「エジプトの地を出て、第二の月の十五日」(出エジプト記16:1)で、エジプトから持ってきた食糧が底をついたころでした。人々は言いました。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(同16:3)人々は困ったことが起こると、すぐに不平不満を口にし、モーセを非難したのです。
そこでモーセが主に祈ると、主は、その日の夕方、うずらの群れを送り、人々はそれを捕まえてうずらの肉を食べました。また、翌朝、不思議な食べ物が霜のように降り、荒野の面を覆いました。聖書には、「それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった」(16:31)と記されています。コエンドロは、アメリカではコリアンダー、タイではパクチーと呼ばれているハーブで、その種は香辛料として使われ、胃腸に良いと言われています。そうした小粒の種のようなものが、毎朝、天から降りました。人々はそれを「マナ」と呼び、煮たり、焼いたりして、荒野にいた間、主食にしたのです。
次に、人々は、シンの荒野からレフィデムへと進みましたが、そこには水がなく、またしても不平を言いました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(17:3)主は、これを聞き、モーセに岩を打って水を出すよう命じ、岩から流れ出る水で、人々の渇きを癒やされました。
何かあるたびに人々の不平不満を聞かされるのは、辛いことです。けれども、モーセはそのつど、人々に代わって、祈りました。ほんとうは、人々が率先して祈らなければならなかったのに、そうしませんでした。それで、モーセが彼らに代わって祈りました。それを「とりなし」と言いますが、イスラエルの人々は、モーセのとりなしの祈りによって必要を満たされ、助けられてきました。
二、イスラエルの罪
さて、いよいよ、イスラエルはシナイ山に到着し、山の裾野に宿営しました。主は、シナイ山に降りてこられ、そこからご自分の栄光を表し、語りかけられました。モーセは主から授けられた十戒と律法を書き記し、それを民に読み聞かせました。人々は、「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」と答え、イスラエルが神の民となり、主がイスラエルの神となるとの契約が成立したのです。
そののち、モーセは礼拝に関しての指示を受けることになり、幕屋や祭司に関する指示を仰ぐため、「四十日四十夜」シナイの山でひとりで過ごしていました(24:18)。
その四十日が満ちようとしたときです。モーセの姿が見えなくなって長く経ち、不安になった人々が、アロンに言いました。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(32:1)それを聞いたアロンは「金の子牛」を作りました。人々はそれを見て「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と言い、祭壇を築いて、それを拝み、「座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」(32:6)のです。神への礼拝ではありませんでした。
人々は、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(20:3-5)との戒めを受け、それを守り行うと誓ったばかりなのに、もう主以外のものを神とし、偶像を作り、それを拝むという大きな罪を犯したのです。
主は、モーセにそのことを告げて、こう言われました。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」(32:9-10)「うなじ」とは「首筋」のことです。「うなじを固くする」とは、頑固で反逆的であるという意味です。首筋が硬いので、うなずいて「はい」と答えることができず、いつも首を横にふって、「いいえ」としか言えなくなるのです。「首筋」が固いのは、心が硬いからです。彼らは、ファラオが心を硬くして、主に逆らったために滅ぼされたことを、忘れてしまっていたのです。
三、モーセのとりなし
主は、そのようなイスラエルの民を、滅ぼすと言われました。このときも、モーセはイスラエルのために、とりなし、祈りました。このモーセの祈り、とりなしから、私たちは、三つのことを学ぶことができると思います。
第一に、モーセは「神の御名」を覚えて祈りました。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。」(32:11-12)もし、イスラエルがここで滅ぼされたら、神がイスラエルを奴隷の家、エジプトから導き出された輝かしい救いのみわざが、エジプトをはじめ、諸国に証しされなくなります。主が恵み豊かで、あわれみ深いお方であることが否定されます。そんなことになって、主の御名が卑しめられることがないよう、御名のゆえに、イスラエルへの災いを思い直してくださいと、モーセは嘆願しました。
イスラエルが犯した罪には、弁解の余地がありません。「主よ、私たちはあなたに信頼しました。従いました」と言えるようなものは何一つありませんでした。彼らは金の子牛を作って、それを拝む以前にも、何度も神に不平を言い、決して従順ではなかったのです。ですから、モーセは、ただ主の御名が崇められるためにと、主の御名に訴えて祈ったのです。敬虔な信仰者はみな、そのように祈りました。「私たちの救いの神よ 私たちを助けてください。/御名の栄光のために。/私たちを救い出し 私たちの罪をお赦しください。/御名のゆえに」(詩篇79:9)、「しかし 神よ 私の主よ あなたは/御名のために 私にみわざを行ってください。/御恵みのすばらしさのゆえに/私を救い出してください」(同109:21)などです。そして、主の御名のために、主の御名のゆえに祈った祈りは、すべて聞き入れられています。
私たちも、「イエス・キリストのお名前によって」と言って祈ります。それは、これで祈りを終わりますという合図ではありません。イエス・キリストの御名に信頼して祈ります、この祈りによって主の御名があがめられますようにという意味を込めて、そう祈るのです。「御名によって」と言って祈るとき、主の「御名」がどんなに聖なるものであり、力あるものかを深く覚え、御名に信頼して祈りたいと思います。
第二に、モーセは主の「約束」に訴えて祈りました。モーセは、「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました」(13節)と祈りました。神の約束を根拠に、主に訴えています。イスラエルが神との契約を破ったのですから、主がイスラエルとの約束を撤回し、変更されたとしても、文句は言えませんでした。しかし、モーセは、主がイスラエルの父祖たちに約束された言葉を根拠にして、イスラエルに下すと言われた災いを思い直してくださるよう、主に嘆願しています。そして、主は、イスラエルへの災いを「思い直された」ました(14節)。それは、主がイスラエルとの間に結ばれた約束、契約に真実であり、忠実であったからです。
約束を交わし、契約を結んだ両者は、互いに義務を負い合うことになり、それに違反した方は、罰を受けなければなりません。「約束」や「契約」は相互を束縛するものです。しかし、考えてみてください。絶対者、主権者であり、完全に自由である神が、被造物にすぎず、罪を持つ人間と「契約」を結び、わざわざご自分を束縛する必要など何もなかったのです。それなのに、主はイスラエルの父祖たちを選んで、彼らと約束を結ばれました。もし、主がその約束を守らなかったら、イスラエルの子孫は、その約束を盾にとって、主を訴えてもよいということを意味します。それは、イエス・キリストによる新しい契約でも同じです。私たちは、「信じる者は救われる」との約束に立って、「私は信じます。あなたの救いを成就してください」と祈ることができるのです。主は、それほどまでに、ご自分をへりくだらせ、人間に譲っておられるのです。主は、私たちに、約束の言葉を与え、私たちがそれを根拠に自分のためにも、人のためにも祈ることができるようにしてくださっているのです。私たちは主の約束をもっと知り、それに立って祈りたいと思います。
第三に、モーセは、主の民への愛をもって祈りました。主は、モーセに「しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする」と言われました。それは、罪を犯した民を滅ぼして、モーセの子孫から新しいイスラエルを生み出すということです。モーセは、アブラハム、イサク、ヤコブに代わって、新しいイスラエルの父祖になれるのですから、人間的には栄誉なことでした。けれども、モーセは、自分の栄誉を受けることなど、少しも考えませんでした。もし、そんなことを考えていたら、民のためにとりなすことはできなかったでしょう。モーセはこう祈りました。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(31-32節)イスラエルの民は何度も不平不満をモーセにぶっつけ、モーセを非難しました。それにもかかわらず、モーセは、自分を非難し、自分に逆らった民のために祈りました。自分の救いを放棄してさえ、人々の救いを願っています。イエスが、ご自分を嘲る者のため「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)と祈り、パウロが「私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)と言っていることと共通したものがあります。そこには、人々の救いを願うまことの愛です。
「とりなし」は「代祷」とも呼ばれます。相手の立場に立ち、その人に代わって祈ることです。たとえ、自分が同じ罪を犯していなくても、罪を犯した人に代わって、罪の赦しを願い求めることです。ネヘミヤ記1章、ダニエル書9章にそのような祈りがあります。ネヘミヤもダニエルも、神の民に代わって、罪を悔い改め、神のあわれみを願い求めました。そのような愛の心で祈る祈りが、神の愛とあわれみを引き出すのです。
私たちも、まわりの人々に様々な迷惑をかけてきたかもしれません。それでも、その人たちは、私たちのために祈ってくれました。私たちは、そうした人々の祈りによって、今まで信仰を保つことができました。困難から立ち上がることができました。それは、主の恵み、あわれみによるものですが、同時に、そこに、愛のとりなしの祈りがあったことを知ります。主は、とりなしの祈りを用いて、私たちを救い、守り、導き、癒やしてくださいます。そのことを覚えて、これからも互いのためにとりなし祈り合っていきたいと、心から願います。
(祈り)
父なる神さま、私たちは自分が好む人、自分によくしてくれる人のためには祈ることができても、そうでない人のため、とくに自分を煩わせる人のためにとりなし祈ることに難しさを感じることがあるかもしれません。そんなときも、モーセが民のためにささげたとりなしの祈りを思い起こし、それに倣うことができるよう助けてください。モーセのような心をもってとりなし、とりなしの祈りを通して、人々を愛する心を養われることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
7/28/2024