32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
32:33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。
32:34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」
祈りには、賛美、感謝、悔い改め、願い、そしてとりなしの五つの要素があります。五本の指のひとつひとつが賛美、感謝、悔い改め、願い、とりなしを教えています。手を合わせて祈るとき、この五つの要素を思いだしましょう。
また、とりなしの祈りをささげるときもを五本の指の順で祈ると良いでしょう。祈りの手で自分に一番近いのは親指です。自分の両親、親族、家族をはじめ、身近な人たちのために祈りましょう。次の人差し指は、教える指ですから、みことばを教える牧師、宣教師、サンデースクールの教師、クリスチャンスクールの教師、また、一般の教育者たちのために祈りましょう。中指は一番長い指で、政府や社会の指導者たちを指し示しています。聖書は「上に立つ者のために祈れ」と教えていますから、大統領、閣僚、国会議員、知事、市長のために祈りましょう。四番目の薬指は、医療に携わる人々、入院中の人々、病気のひとびとのために祈るようにと教えてくれます。最後の小指は、指の中でいちばんちいさい指です。ですから、社会で一番ちいさく扱われがちな人々を覚えて祈りましょう。食べるものにさえ事欠く貧しい人々が世界中に大勢います。さまざまな困難や苦しみを抱えている人々、誰の助けも得られないでいる人々が私たちの身近にも大勢いるのです。神はそのような人々に心をかけていてくださるのですから、そのような人々のための祈りを聞いてくださらないわけがありません。
先週は「アブラハムのとりなし」から神のあわれみを信じて祈っていくことを学びました。今朝は「モーセのとりなし」をとりあげます。人々のために祈り、人々に代わって祈ったモーセから、とりなしの心を学びましょう。
一、人々のために祈ったモーセ
まず、モーセはイスラエルの人々のために祈りました。しかも、神に逆らい、モーセに従わないイスラエルの人々のためにです。エジプトで奴隷だったイスラエルの人々は神の全能の力によってエジプトから救い出され、自由の民となり、約束の土地へ旅立ちました。しかし、イスラエルの人々は生まれたばかりの、弱く、小さい国民でした。神はイスラエルの人々をエジプトの軍隊が追って来ることがなく、他の国々と衝突することもない荒野に導かれ、そこで神の民を養い、強くしようとされました。荒野の旅の間、神は人々に飲む水を与え、食べ物を与え、何にも困ることのないようにされたのですのですが、人々はいつも神に不平不満を鳴らし、指導者のモーセに逆らい続けました。しかしモーセはそのつどイスラエルの人々のためにとりなし祈りました。
イスラエルが神に罪を犯したとき、モーセは山に登り、そこで神のことばを授かっていました。モーセが山にこもっている間、人々は「モーセが山に登ったきりで帰ってこない。どうなったかわからないから、自分たちを導く神を作ろう」と言って金の子牛を作り、それを拝み、そのまわりで飲んだり食べたり踊ったり、大騒ぎをしていたのです。出エジプト32:6に「民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」とあるとおりです。神は山の上からこれをご覧になってモーセにこう言われました。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」(出エジプト32:9-10)
こんな状況のとき、皆さんがモーセだったらどうするでしょうか。「そうです。神さま、こんなことは許されることではありません。このような人々は滅ぼしてしまってください」と答えるかもしれません。私たちは、人々のために長年祈っているのに、すこしも状況が変わらないと忍耐をなくしてしまうことがあります。まして自分が祈っている人から嫌な目にあわせられたら、「この人のためには祈ってもしょうがない」と思ってしまうこともあるでしょう。祈ること、祈り続けることに疲れることもあるのです。しかし、それでも祈り続けるなら、かならず結果を見ることができます。ある人が友人のために何年も祈り続けていました。しかし、その友人はいいかげんな生活を改めようとしませんでした。その人は友人が神のもとに帰るのを見ないままに天に召されました。ところが、その人の葬式にきた彼の友人は、その場で悔い改め神に立ち返ったというのです。この実話は、私たちに祈りが決して無駄にはならないことを教えています。聖書に「善を行うことに、うみ疲れてはならない」(ガラテヤ6:9口語訳)とあるように、神から新しい力をいただいて、祈ること、とりなし祈ることに励んでいきましょう。
モーセは人々のために「どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください」(出エジプト32:12)と神に嘆願しました。このモーセの祈りによって神は「その民に下すと仰せられたわざわいを思い直された」のです(出エジプト32:12)。自分にとって好ましい人のために祈るのは誰にでもできます。しかし、モーセのように神にも自分にも逆らっている人々のために祈ることは簡単なことではありません。簡単でないからこそ、私たちには神の助けが必要なのです。人々のためにとりなす人はそれによっても神から忍耐の力を与えていただけるでしょう。
二、人々に代わって祈ったモーセ
次にモーセは人々に代わって祈りました。山から降りてきたモーセは人々が金の子牛のまわりで踊っているのを見ました。モーセは金の子牛を粉々に砕き、これに関わった人々を裁きました。そして、翌日、モーセはもういちど山に登りました。それは、人々に代わって神にゆるしを請うためでした。
「とりなし」は古くは「代祷」(代理祈祷、代わりに祈ること)と呼ばれました。「とりなし」とは、誰か他の人の「ために」祈るだけものではありません。それは他の人の「代わりに」祈ることでもあるのです。自分がその人の立場に立って祈るのです。たとえば、皆さんがこどもにミルクを与えるとき、「神さま。ミルクをありがとうございます。わたしが元気で大きくなれるように助けてください」などと祈ります。赤ちゃんはまだことばで祈れませんので、母親が代わりに祈ってあげるのです。まだ信仰を与えられていない家族があった場合、私たちはその人のために祈るだけでなく、その人に代わって祈ることができます。たとえば夫に代わって「神の存在と力と恵みを示してください」、妻に代わって「神のことばをもって心に語りかけてください」、こどもに代わって「真理を示し、それによって導いてください」と祈ることができます。祈り会でも、そこに出席できない人のために祈るとともに、その人たちに代わって、いやしが与えられるように、助けが与えられるように、必要が満たされるようにと祈っています。
聖書には、罪を犯したイスラエルに代わって、正しい人々が悔い改めの祈りをささげているのを数多く見ることができます。エズラは正しい人でしたが、指導者たちの罪について聞いたとき、まるで自分が同じ罪を犯した者であるかのようにして、罪を犯した人々の立場に立ち、その人たちに代わって、神の前に悔い改めの祈りをささげています(エズラ9章)。エズラと同時代のネヘミヤもエルサレムの荒れ果てた様子を聞いて、イスラエルの人々に代わって悔い改めの祈りをささげました。モーセも同じようにして、彼自身には罪はないのに、人々の代わりに神の前に出、人々に代わって神にゆるしを願いました。病気がいやされるように祈る、必要が満たされるように祈る、どれも大切なことです。しかし、私たちのいちばんの必要、罪のゆるしを願って祈る祈りはもっと素晴らしいと思います。それこそ私たちが最もとりなし祈らなければならない第一のものだと思います。
モーセの祈りはこうです。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(31-32節)人々のために祈る祈り、人々に代わって祈る祈りが、人々の身代わりになることを願う祈りにまで高められています。神はモーセに「人々を滅ぼして、あなたを残そう」と言われたのですが、モーセは「私を滅ぼして、人々を残してください」と嘆願しているのです。なんと深く、高い愛がこの祈りに表れていることでしょうか。他の人のためにとりなし祈るのは愛なしにはできません。とりなしの祈りはまさに「愛の祈り」と呼ぶことができます。こんな愛をもって祈りたい。そう思います。
私たちは他の人の罪を見たり聞いたりした時、そのために神のあわれみをとりなし祈るというよりは、その罪を責めるだけで終わってしまうことが多いものです。しかし、モーセは、人々が神の義を破ったとき、その破れ口を指摘するだけでなく、そこに身を投じて、その破れ口を塞ごうとしました。詩篇106:19-23には今朝の聖書の箇所にあった出来事が描かれています。23節に「それゆえ、神は、『彼らを滅ぼす。』と言われた。もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」とあります。私たちはお互いにさまざまな破れ口を持っています。個人にも、家庭にも、社会にも、教会にもそれはあるでしょう。神がこんなに祝福しておられるのに、その祝福がとどまらないでどこから漏れている。そんな破れ口があるのです。神は、私たちにもまた、モーセのようにその破れ口を塞ぐとりなし手になることを期待しておられます。
しかし、そのことが一朝一夕にはできないことは、私たち自身が知っています。誰かのために真剣に祈ろうとすればするほど、本当にその人の立場に立ち、その人に代わって祈ることの難しさを感じます。どうしたら人々のために祈る力が与えられ、人々に代わって祈ることができる愛を得られるのだろうかと思います。そんなとき、私たちは、イエス・キリストを見上げます。私たちの罪のためにゆるしを願い、罪人の立場に立ってとりなしてくださるお方を思いみます。十字架の上でご自分の命をささげ、その身代わりによって私たちを救ってくださったお方を覚えます。モーセは神の民のために祈ったばかりでなく、人々に代わって神の前に出て祈り、人々の身代わりなることさえもいといませんでした。しかし、神はモーセに人々の身代わりになることをお許しになりませんでした。けれども、第二のモーセとしておいでになったイエスは全人類の身代わりとなる資格がありました。みずから進んで命をささげることを父なる神に願い出て、それが許されました。イエスはそれによって、私たちに罪のゆるしと永遠のいのちへの道を開いてくださいました。よみがえられたキリストは今、天で私たちのためにとりなしておられます。聖書は教えます。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)
このキリストのとりなしが無ければ、他の人のために祈るどころが、自分のためにさえ祈ることができません。私たちのとりなしがたとえ不完全であっても、キリストのとりなしはそれを完全なものに変えてくださる。十分にとりなすことができない私たちをキリストは絶えずとりなしていてくださる。だから、私たちは祈る勇気、人々のためにとりなす力を得るのです。すべての祈りは父なる神の右の座におられるイエスを通して父なる神に届けられます。そして、祈る力は神からイエス・キリストを通して私たちに注がれるのです。ですから祈りましょう。人々のために、人々に代わって祈り続けましょう。神はその祈りに答えてくださいます。
(祈り)
父なる神さま、今朝、私たちはとりなしの心が愛にあり、その力が私たちのために死なれ、よみがえり、父なる神の右でとりなしてくださるイエス・キリストを通して注がれることを確認しました。この後、聖餐によってキリストの十字架と復活を告白する私たちに、人々のためにとりなし、祈る力を注いでください。主イエスの御名で祈ります。
7/25/2010