「今、行け」

出エジプト記3:10-12

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3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

 一、召命の地

 モーセはエジプトからミディアンの地に逃亡し、ミディアン人の祭司の娘、ツィポラと結婚し、そこに定住しました。

 ミディアン人は、アブラハムが、サラを亡くしたあと娶ったケトラとの間にできた子どもの一人、ミディアンから生まれた民族です(創世記25:1-4)。ミディアンの人々もアブラハムの子孫ですので、イスラエルの人々が信じていたのと同じ、まことの神を知っていました。ミディアンの地は、今日では、エジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアの4か国の国境が重なりあっているところにありました。

 ミディアンで羊飼いとなったモーセは、羊を追って、ホレブの山まで来ました。伝統的には、南シナイの山岳地帯にあるジュベル・ムーサが、聖書のシナイ山だと言われています。しかし、他にも「ここではないか」という説がいくつかあります。その説の一つに、「アラビア説」というものがあって、「シナイ山」は、アカバ湾の東側、現代のサウジアラビアにあると言います。この説が、「なるほど」とうなずけるのは、そこが、エジプトの支配を受けていない地だったからです。アカバ湾の西側、シナイ半島は、当時も、また今も、エジプトの一部です。エジプトから逃れようとしたモーセが、依然としてエジプト領内にいたとは考えにくく、エジプトの支配の及ばないアカバ湾の東側、つまりアラビアに渡ったと思われます。ガラテヤ4:25にも「アラビアにあるシナイ山」とあります。

 そうすると、出エジプト後、イスラエルがたどったのは、シナイの山岳地帯ではなく、その直前で方向を変え、シナイ半島を横切って東に向かったことになります。また、イスラエルが渡った紅海はスエズ湾の紅海ではなく、おそらく、ニュエイバ・ビーチからアカバ湾の紅海を渡ったことでそう。イスラエルの人々は、シナイ山で宿営し、およそ1年を過ごしていますから、そこは、エジプトから守られた安全な場所、また、南シナイのように標高が高く、冬に寒くなるようなところではなく、山の麓に、大勢の人と家畜が一緒に宿営できる平原があるところとなります。そうしたことからも、アラビアにシナイ山があるとすると、聖書とよく一致するのです。

 エジプトから約束の地を目の前にしたモアブの草原までの旅程は民数記33章にしるされているのですが、それを地図に当てはめるとき、いくつかの可能性が生まれます。もし、モーセの生涯や出エジプトが単なる物語であれば、地図などどうでもよいことになりますが、聖書の旅程と地図とを照らしあわせると、概略を知ることができ、また、いくつかの可能性があるということは、聖書に記されていることが、歴史に起こった出来事であることを教えているのです。

 多くの人は神は「神話」や「物語」の中だけのものだと考えています。なるほど、聖書は「物語」(ストーリー)として書かれています。それは、親から子へ、先祖から子孫へ、世代から世代へと伝えられるのに適した形だからです。けれども、その内容は、神が、人類の歴史の中にご自身を現し、みわざをなさったことの記録、歴史の事実です。このことは、神が、今も、私たちの現実の中に働いてくださる「生きておられる神」であることを私たちに教えてくれます。神は、古代の世界ではほとんど顧みられることのなかったミディアンの地で、エジプトからの逃亡者モーセに現れてくださいました。それは、当時の世界で最も強かったエジプトから、その奴隷となっていたイスラエルを救い出すためでした。そのように、神は、私たちがそこで苦しんでいる現実の只中に来てくださり、私たちを救い出してくださるお方なのです。私たちは、苦しみの中で、神を見失うことがあるかもしれませんが、苦しんでいる場所、そこが神の働かれる場所なのです。

 二、召命の言葉

 さて、ホレブの山の麓の草原には、柴木、つまり、燃料にする背の低い木(ブッシュ)が多くあるところでした。モーセは、その1本が燃えているのを見ました。乾燥した日が続き、熱風が吹くと木の枝がこすれあって発火することがあります。モーセは、柴木が燃えているのを見ても、それ自体不思議だと思いませんでした。そうしたことは時々あることだったのです。ところが、その火が他の木に燃え移らず、また、その木も燃え尽きてしまわなかったのです。一本の木だけが、いつまでも炎に包まれ、光を放っていました。モーセはそのことを不思議に思い、そこに近づきました。

 すると、炎の中から神が、「モーセ、モーセ」とモーセの名を呼ばれました。モーセは思わず「はい、ここにおります」と答えました。そこから神とモーセとの対話が始まりました。「燃え尽きない柴木」、それは、神がモーセをご自分のもとに引き寄せるための現象に過ぎませんでした。大切なことは、そのあとに続く、神の言葉です。確かに神は、不思議な出来事、夢や幻などによって人々を導いてこられました。現代でも、そうしたことはあります。祈っていたことがそのとおりに実現したり、「偶然」という言葉で説明のつかない不思議な出会いが与えられることも、よくあることです。しかし、いつでも、目に見える「しるし」が与えられるとは限りません。モーセが目に見える「しるし」から神との対話に導かれ、神の言葉を聞くようになったように、信仰にとって大切なことはしるしを「見る」ことよりも、神の言葉に「聞く」ことです。しかも、神の言葉を、自分に語られたものとして聞くことです。

 カリフォルニアにいたころ、私は、礼拝が終わると礼拝堂の出口に立ち、礼拝を終えた一人ひとりと握手をしていました。ひとことふたこと言葉を交わすこともあって、時々、「先生、きょうの説教はとてもよかったです。きょう、夫は仕事で来られなかったのですが、ぜひ夫に聞かせてあげたかったです」などと言われることがありました。その人は、自分でも説教にしっかり耳を傾けていたのですが、中には、まるで他人事のように聞く人もありました。信仰を持たない人は聖書を物語や一般的な教訓としてしか読まないかもしれませんが、信仰を持つ者は、神が私に語っておられる言葉として聖書を読みます。御言葉に聞こうとします。そうするとき、聖書の言葉が、たましいの内に宿り、日々の導きとなり、励ましとなり、慰めとなり、生きる力となるからです。

 神の前に立ったモーセに、神は「あなたの履き物を脱げ」と命じられました。同じことは、モーセの後継者ヨシュアにも命じられています(ヨシュア記5:15)。後の時代には、履き物を脱ぐことは、自分の持っている権利を相手に譲り渡すことを表すものとなりました(ルツ記4:7)。ですから、神は、このときモーセに、「あなたの権利をわたしに譲れ」と言われたことになります。神は、あらゆる物の上に立つ主権者ですから、モーセに、一方的に命令できたはずです。ほんらい人は、神に対して自分の権利など主張できないのですが、神は、モーセが「権利」だと考えていることを、自ら進んで献げることを望まれたのです。このとき、モーセは、ファラオから逃れた自分の命を守りたかったでしょう。ミディアンの地で得た妻や子どもを譲れないものとして保っていたかったでしょう。羊飼いとしての平穏な日々を自分の権利として主張したかったでしょう。しかし、神は、モーセに、そうした権利や主張を明け渡すよう言われました。モーセは、40年の間、エジプトの宮廷でこの世の栄光の中にいました。彼はそこから神の栄光を見る人生へと進むはずでした。しかし、モーセが選んだミディアでの40年は、そのどちらもない人生で、彼にとっての本当の人生ではありませんでした。神は、ミディアンでの40年に代えて、神の栄光と力を見る40年の人生を与えるため、モーセに「履き物を脱げ」と言われたのです。古い人生を明け渡し、新しい人生を受け取るということです。

 履き物を脱いで、なお立っていられる人はいません。ひざまずくか、ひれ伏すかに違いありません。モーセも、神の前にひざまずき、ひれ伏したことでしょう。私たちは、案外、小さなことにこだわり、「どうしても、こうでなければならない」と主張して人を困らせるばかりでなく、神に対してさえ、自分の主張を譲らないで、神の導きを曇らせてしまうことがあるでしょう。礼拝は、そうした自己主張やこだわりを明け渡すところです。実際に靴を脱ぎ、ひざまずき、ひれ伏すことがなくても、心の中では、そのような姿勢で神の前に出たいと思います。

 三、召命と約束

 神は、モーセに、「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」(10節)と言われました。エジプトに戻り、ファラオに、イスラエルをエジプトから去らせるよう告げよと命じられました。先代のファラオに追われ、ミディアンに逃げてきたモーセにとって、その息子のファラオのところに行くなど、とんでもないことでした。しかも、モーセはエジプトの力がどんなに大きいかを身をもって知っていました。イスラエルをエジプトから導き上ることは不可能に思えました。それで、モーセは答えました。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(11節)しかし、神は、モーセ一人にそのことをさせるのではありません。神は言われました。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」(12節)イスラエルをエジプトから救い、約束の地に導くのは神ご自身がなさること、モーセは神の使者として、その務めを果たせばいいのです。

 ここには、神のモーセに対する命令だけでなく、約束があります。神が私たちに何かを命じられるとき、神は、かならず、それを達成するための約束を与えてくださいます。約束の伴わない命令は、聖書にはありません。その約束とは、「わたしが、あなたとともにいる」という約束です。モーセがエジプトに向かうときも、宮廷に行ってファラオと交渉するときも、モーセ一人ではない、神がともにいてくださるとの約束です。

 この約束は、じつは私たちにも与えられています。神がモーセに与えられた命令と、イエスが弟子たちにお与えになった宣教の大命令(マタイ28:18-20)とはまったく同じ構造になっています。神はモーセに「履き物を脱げ」と言って、ご自分の主権を主張なさいましたが、イエスも「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」とおっしゃって、ご自身の主権と権威を示されました。そして、神がモーセに「今、行け。…行ってファラオと人々に告げよ」と言われたように、イエスもまた弟子たちに、「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」と命じられました。そして、神がモーセに「わたしが、あなたとともにいる」と言われたように、イエスも「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束しておられます。この約束は、イエス・キリストを信じる私たち一人ひとりにも残らず与えられているのです。

 礼拝は、そこから一週間の生活の場へと遣わされていく場です。神が「今、行きなさい」、「行って、しなさい」と私たちに言われることは、モーセや弟子たちに命じられたような大きなことではなく、たいていは、小さなことでしょう。けれども、小さなことが億劫になります。「教会から帰ったら、あのことをしなければならない」、「明日から仕事に行かなければいけない」、「今週は忙しくて大変だ」などといった気持ちにとらわれ、小さなことに不忠実になることがあります。また、神が「しなさい」と言われることが、実際よりも大きなことに見えて尻込みしてしまうこともあるでしょう。そんなときは、「わたしは、あなたとともにいる」との約束を思い起こしましょう。「わたしは、あなたとともにいる。」この約束に信頼するなら、それらを果たすことができます。それが小さなことであっても、小さなことに忠実でありましょう。そうすれば、大きな務めを受けたときも、それを果たせるようになります。主は、すでに、私たちとともにおられます。そのことを信じ、主とともに生活の場へと進んでいきましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは、旧約の時代も、新約の時代の今も、「わたしはあなたとともにいる」と約束してくださいました。きよく、高い天におられるあなたが、地にうごめいているような小さな私たちとともにいてくださる。それはなんと大きな恵みでしょう。この恵みの約束に励まされて、今週も、この礼拝から、それぞれの生活の場へと私たちを遣わしてください。そして、その場で、あなたの愛と恵みを体験し、証しする者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/16/2024