2:9 ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
2:10 その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。
今月からしばらくの間、モーセの生涯を学びます。モーセはイスラエルをエジプトから導き出し、律法を与えた人です。モーセは律法を与え、イエスは福音をくださったなど、モーセとイエスとは比較して語られますが、じつは、モーセとイエスの共通点も多いのです。モーセはイエスを預言し、証しする存在、つまり、イエスの「雛形」でもありました。モーセの生涯を学ぶことによって、聖書の主人公であるイエスと、聖書の主題であるキリストによる救いを、さらに深く知ることができたら幸いです。
一、モーセの時代
モーセが生まれたのは、今から三千年以上も前のエジプトです。聖書に登場するペルシャやローマなど、古代に栄えた国々は今はもうありませんが、エジプトだけは、現代まで続いています。ガザの様子が、毎日のように報道されているように、エジプトとパレスチナとは国境を接しており、古代から互いに行き来がありました。エジプトではナイル川が運ぶ肥沃な土によって、さまざまな農作物が豊かに実りました。イスラエルの人々はエジプトから救い出されたのち、荒野で、エジプトの食べ物を恋しがって言いました。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。」(民数記11:4-5)エジプトでは、きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくなどがどこででも採れ、おいしいものだったのでしょうが、主要な農産物は小麦などの穀物でした。ローマの時代には、ローマとエジプトとの間に穀物輸送の船が頻繁に行き来していて、エジプトは、「ローマの食糧庫」と言われていました。
それで、アブラハムの時代より、飢饉が起こるたびに人々はエジプトに食糧を求めに行きました。ヤコブの時代に起こった大規模な飢饉のとき、ヤコブの一族は、すでにエジプトの宰相となっていたヨセフを頼って、エジプトに移住しました。イスラエルはエジプトで保護され、わずか70名の家族が大きな民族となりました(出エジプト記1:5, 7)。
ところが、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こりました(同8節)。王朝が入れ替わり、イスラエルの人々は、もはや宮廷の保護を受けられなくなりました。エジプトでは、イスラエルの人々は「ヘブル人」と呼ばれましたが、これには「遠くからやってきた人」という意味があります。新しい王は、今まで「客人」として扱われていたイスラエルの人々を「よそ者」扱いしたのです。そればかりか、もとは家畜を飼うのが仕事だったイスラエルの人々を、土木や建設工事に徴用し、苦しめました。イスラエルを弱くしようとしたのです。しかし、イスラエルの人々は、それで弱り果てることなく、どんどん強くなっていきました(同12節)。
そのことを恐れたエジプトの王、ファラオは、イスラエルがエジプトにとって脅威にならないため、漆喰やれんが作り、また灌漑や農作業などの過酷な労働を課し、イスラエルを奴隷にしてしまいました(同14節)。
そればかりでなく、ファラオは、イスラエルの助産婦たちに、「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ」(同16節)と命じました。
二、モーセの守り
ですから、モーセは、ほんとうは、生まれたとたんに殺されていたはずでした。しかし、イスラエルの助産婦たちは男の子たちを生かしておきました(出エジプト記1:17)。二人の助産婦、シフラとプアは、ファラオの命令に従わなかったら自分たちが大変な目に遭うことが分かっていました。それでも、彼女たちは神を恐れ、ファラオの命令に従いませんでした。それで神は、その信仰に報いて、彼女たちが咎められることがないように守られたばかりでなく、「神は、彼女たちの家を栄えさせた」と聖書は言っています(同20節)。
このことは、神を恐れ、他の人を守り、助ける人は、その人もまた、神に守られることを教えています。私たちの場合、助産婦たちのような立場に立たされることはほとんどないでしょう。しかし、私たちにも、彼女たちのように、誰かを守り、助け、生かすためにできることができるのです。それは、ほんの小さなこと、わずかな時間をささげるだけのことかもしれませんが、神はそれを喜んでくださり、それに報いてくださいます。皆さんもそんなことを体験していると思います。
私は、〝Small Miracles〟という本を持っているのですが、そこには、大変な状況で助けられ、守られた実話が集められています。たとえば、小さい子どもを連れ、赤ちゃんを抱いた母親が、グロッサリーで買い物をし、チェックアウトに並んでいたとき、子どもにも、赤ちゃんにも、トラブルがあって、困っていました。そんなとき、この母親の前にいた人が、チェックアウトの順序を変えて、先に買い物ができるようにし、子どの世話をしてしてくれたなどといったものです。この記事のコメントには、「私たちは、聖書に描かれている天使を見たことはなくても、自分たちの身近にいる、天使を毎日見ている。私たちも、そんな天使の一人になれるのだ」とありました。私たちには大きな奇跡を起こす賜物はなくても、このような「小さな奇跡」を起こす賜物は、誰にも与えられていると思います。神が二人の助産婦を用いて、モーセを守られたように、私たちの神を恐れる信仰が、神の偉大な御業の一環として用いられることを覚えておきましょう。
ファラオの助産婦への命令は実行されず、モーセは神の守りによって生まれました。ところが、ファラオは、なおも、イスラエルの男子を絶やそうとして、生まれたばかりの男の子をナイル川に投げ込めという命令を降しました(同22節)。無事に生まれたモーセですが、ファラオの第2の命令によって、またもや命を奪われそうになりました。しかし、このときも、モーセは命を守られました。神が先に二人の助産婦の信仰を用いられたように、このときは、モーセの両親の信仰が用いられています。
モーセの両親は、父がアムラム、母がヨケベデと言います。モーセには姉がいてミリアムと言い、兄はアロンでした。モーセが生まれたときアロンは3歳でしたが、ミリアムが何歳だったかは聖書に書かれていません。ミリアムがエジプトの王女に話した言葉から判断すると、9歳か10歳くらいだったように思われます。モーセの両親は、信仰深く、子どもたちをしっかり育てていたことを垣間見ることができます。ヘブル11:23には「信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです」と、両親の神への信仰と子どもへの愛情が記されています。両親は、最後の最後まで子どもを守ろうとしましたが、ついにそれができなくなったので、子どもをナイル川に置くことにしました。それでも、子どもを水に投げ込むなどできませんから、かごを作り、水が入らないようにし、そこに赤ん坊を入れました。それは水に浮かぶゆりかごのようでした。両親は、赤ん坊が誰かに助けられることを願い、祈ってそうしたのです。姉のミリアムが離れたところからそのかごを見守っていました。
するとそこにエジプトの王女が来ました。そして、かごの中に赤ん坊を見つけ、それがヘブル人の赤ん坊であることが分かりましたが、王女は、泣いている赤ん坊をかわいそうに思い、赤ん坊を水の中から拾い上げ、救い出しました。「モーセ」という名には「引き出す」という意味がありますが、この名は、王女が、「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言って与えた名です。
そのとき、ミリアムが王女に近づき言いました。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」(同2:7)それで、実の母であるヨケベデが給料をもらって、王女の子、実は自分の子を育てることになったのです。このようにして、ファラオが死なせよと命じたモーセが、ファラオの娘によって救われることになったのです。王女がモーセを見つけたこと、モーセを見てかわいそうに思ったこと、またミリアムが機転を利かして行動したことなど、これは単なる偶然ではありません。偶然でこんなことが起こることはありません。これは神のなさった奇跡、神は奇跡によって、モーセを救い出されたのです。
三、モーセの準備
モーセは、ある年齢になって、王女の子として宮廷に入りました。この王女は、外国の王子たちをエジプトに招き、教育を受けさせたことで知られています。モーセも、エジプトで高度な教育を受け、諸外国の王子たちを通して、諸国の状況についての知識も得ました。今で言えば「国際情勢」の知識です。今では家にいても、手にとるように分かりますが、当時は諸外国の知識を持つ人は少なかったのです。神は、モーセの命を救われたばかりでなく、彼をエジプトの宮廷に置くことによって将来のイスラエルの指導者として育ててくださったのです。
しかし、イスラエルを導くのは、エジプトで見つけた学問や様々な役職について得た経験だけで成し遂げられるものではありません。イスラエルは神の民であり、イスラエルを導くことは神のわざであり、モーセには神への信仰が必要でした。神は、そのこともご存知で、モーセが宮廷に入るまでは、両親のもとで育てられるようにしてくださいました。モーセが両親のもとにいたのは、ほんの幼いころに過ぎませんでしたが、その幼い心に、まことの神への信仰はしっかりと根をおろしていました。幼い心に信仰を根付かせることはとても大切なことで、それは生涯残ります。モーセが宮廷に入ったのち、エジプトで役職に就くようになったあとも、モーセは自分の家族に会うことを許されていて、自分がイスラエル人であることをしっかり自覚していたと思われます。
モーセがその命を救われたばかりか、王女の子でありながら、イスラエルの神への信仰を保ち続けたことは、それ自体、大きな奇跡ですが、これは、イスラエルのエジプトからの脱出というさらに大きな奇跡のための準備だったのです。
私たちは、誰もが安らかな生活をしたい、穏やかな生涯を過ごしたいと願っています。かつては、そうしたことがある程度可能でした。しかし、今の時代は、どこに住んでも、いつも危険と隣り合わせで、心安らぐことはありません。自然災害、病気、犯罪、道徳の低下、また、経済の破綻など、様々なものに脅かされています。今こそ、危険や、困難からの守りが必要なときはありません。
しかし、どうやってそれらのものから守られるのでしょうか。守ってくださるのは神です。神は、幼い命を奪われそうになったモーセを奇跡をもって守ってくださいました。しかし、その背後には、イスラエルの助産婦たち、シフラとプアの信仰があり、モーセの両親、アムラムとヨケベデの信仰がありました。これらの人々は、聖書に名前が残っていますが、聖書をよく読んでいても、助産婦やモーセの両親の名を覚えている人は少ないでしょう。まして、一般の歴史では名もない人々でした。しかし、この人たちの信仰が奇跡をもたらし、歴史を変えました。イエスは言われました。「もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」(マタイ17:20)「からし種」は、まるで粉のように小さなものですが、それは大きな木に育ちます。私たちの小さな信仰も神の手の中で育ち、神はそれを用いて大きなわざをしてくださるのです。危険が迫るとき、困難にぶつかるとき、たとえ、小さな信仰、弱い信仰であっても、精一杯の信頼をもって神を呼びましょう。神は、それに答え、私たちを守ってくださいます。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、モーセの幼い命を奇跡によって救い、守ってくださいました。しかし、その背後に、人々の信仰があったことを覚えます。きょう、私たちは、たとえどんなに小さな信仰であっても、あなたがそれを用いて、私たちを守ってくださることを学びました。私たちは大きな困難にぶつかるとき、その大きさにくらべ自分の信仰の小さいことを嘆きがちですが、なおもあなたに信頼し、あなたの守りを体験できるよう、導き、励ましてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/2/2024