かえりみの時

出エジプト記2:23-25

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2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

 一、エジプトのモーセ

 イスラエルはエジプトで奴隷でしたが、重労働によく耐え、増え広がりました。ファラオは、イスラエルが強くなることを恐れ、生まれた男の子をナイル川に投げ込めと命じました。そんな残酷な命令がいつまでも続くわけがなく、それは一時的なものだったと思われますが、モーセが生まれたのは、まさにその命令が実行されていたときでした。モーセは生まれて三ヶ月で命を奪われるはずでした。しかし、神は、その幼い命を守ってくださいました。ファラオの権力がどんなに強大なものであっても、神の力には及ばないのです。しかも、モーセの命を救ったのが、ファラオの娘だったのですから、神のなさることは、じつに不思議です。

 イエスは言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」(マタイ10:28-31)使徒パウロもこう言っています。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)「どんな被造物も」とあります。ファラオといえども被造物にすぎません。被造物は、創造者に逆らい通すことはできないのです。そのことを信じて、神の全知全能に頼りましょう。私たちを大切にしてくださる神の愛に信頼しましょう。聖書は、こう言っています。「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」(ペテロ第一4:19)こうした御言葉を心に留めるなら、恐れから救われす。みことばによって、信仰を励まされましょう。

 ところで、歴史学者たちは、モーセを育てた王女は、トトメス三世の姉ハトシェプストではないかと考えています。トトメス三世が父親の跡を継いだとき、まだ幼かったので、弟が成長するまで、彼女がエジプトの女王として君臨したことがありました。また、諸外国の王子たちを集め、彼らに教育を施して、それぞれの国に送り返したことが知られています。近隣の国々が親エジプトになることを狙ったのです。モーセは他の国の王子たちと一緒に教育を受け、諸外国の事情を学んだことになります。また、ハトシェプストはシナイの鉱山に関心を寄せていました。もしかしたら、モーセは鉱山の監督となってシナイに住んだことがあったかもしれません。出エジプトの時、神は、イスラエルの民をシナイに導かれましたが、モーセのエジプトでの経験は、どんなにモーセの助けになったかわかりません。

 二、ミディアンのモーセ

 エジプトの王女の庇護のもとにモーセは宮廷で育ち、エジプトで地位を得ました。しかし、その心は同胞イスラエルとともにありました。モーセは、あるとき、一人のエジプト人が一人のイスラエル人を打ち叩いているのを見て、心に激しい憤りを覚えました(出エジプト記2:11)。それでそのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めました(同12節)。しかし、モーセがしたこのことは、たとえ、同胞の苦しみを見かねてのことであったとしても、正しいことではありませんでした。聖書に「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブ1:20)とあるように、怒りにまかせてしたことは、同胞イスラエルを救うことにはならず、かえってイスラエルの人々をさらに苦しめることになりました。

 次の日、モーセはイスラエル人同士が争っているのを見て、仲裁に入りました。すると、そのうちの一人が、モーセに向かって言いました。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」(同13節)モーセは、「あたりを見回し、だれもいないのを確かめ」てから、殺したエジプト人を砂に埋めたはずだったのですが、もうそのことは人々に知られ、ファラオの耳にも達していたのです。このころには、モーセを育てた王女は亡くなっており、後ろ盾のないモーセはファラオに追われる身となりました。それで彼はエジプトから、急いで逃げ出しました。

 モーセはミディアンにたどりつき、その地で、レウエルの娘ツィポラと結婚し、子どもをもうけ、羊を飼う者となってその地に住みました。神は、モーセを神の民の牧者として選び、その命を救い、エジプトで教育を受けさせ、宮廷の役職を与え、その準備をさせておられました。モーセの心にも、時が来れば、自分がイスラエルの人々の代弁者となり、同胞を救うのだという思いがあったことでしょう。しかし、モーセは、見事に失敗しました。彼は殺人者、お尋ね者、逃亡者となり、神の民の牧者でなく、ミディアンの羊の牧者になったのです。

 モーセがミディアンに行ってから何年もたってファラオは死にました。モーセの罪は問われなくなりましたが、モーセにはエジプトに帰る勇気はなく、ミディアンでの平穏な生活に安住するようになり、いつしか自分に与えられた使命を忘れてしまいました。そして、エジプトのイスラエルは、新しいファラオによって、以前よりも、もっと苦しめられることになりました。

 三、かえりみの時

 では、モーセの失敗によって、イスラエルの救いは無くなったのでしょうか。いいえ、たとえモーセがエジプトの同胞の苦しみに目を閉じても、神は、それをご覧になっています。モーセが自分の使命を忘れても、神はご自分の約束をお忘れになりません。きょうの箇所はこう言っています。「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」神は祈りに「聞き」、約束を「思い起こし」、苦しむ者を「みこころに留め」たとあります。神は見る目を、聞く耳を、感じる心を持っておられるお方です。神は、よりすがる者を決して無視されません。その苦しみに目を留め、叫びに耳を傾け、あわれみの心を動かして、かならず、助けてくださるのです。

 私がいつも、自分に言い聞かせ、また、人にも贈る聖書の言葉の一つは、詩篇50:15です。「苦難の日に/わたしを呼び求めよ。/わたしはあなたを助け出し/あなたはわたしをあがめる。」これは、神ご自身の言葉です。ふだん神に信頼することもなく、ほとんど祈らない人でも、苦しい目にあうと、「神さま、助けてください」と祈るものです。自分は無神論者だと言っていた人が、命の危険にさらされ、「神さま、私の命を救ってください」と、思わず叫んだという話を聞いたことがあります。「無神論」は、頭脳で作り出したものに過ぎす、神によって、神のかたちに造られている人間は、その存在、たましい、霊においては、神を否定することができないのです。

 苦しい目にあってやっと「神さま」と祈るようになるのを、〝苦しいときの神頼み〟と言い、人から軽蔑されます。ところが神は、「苦難の日に/わたしを呼び求めよ」と言われ、〝苦しいときの神頼み〟でもいいから祈れ、そうすれば、かならず助けると言っておられるのです。最初は、〝苦しいときの神頼み〟で祈ったとしても、祈りが聞かれるにつれて、「神はおられる、神は生きておられる」ことが分かり、神への感謝が生まれ、礼拝が始まります。苦しいとき、恐れるとき、辛いとき、悲しいとき、寂しいときばかりでなく、ものごとが順調なときも、平安なときも、うれしいときも、祈ることが喜びになります。「わたしはあなたを助け出し/あなたはわたしをあがめる。」祈って、助けられ、助けられて神をほめたたえ、神をあがめ、もっと祈るようになるといった、祈りの良い循環がはじまるのです。

 しかし、私たちには、祈っても、祈っても、なかなか聞かれないと思って失望するときがあるものです。イスラエルの人々が、エジプトで奴隷にされたのは、モーセが生まれる何年も前のことでした。モーセがエジプトからミディアンに逃亡したのは彼が40歳のときで、モーセはミディアンで40年を過ごしていますから、エジプトでのイスラエルの苦しみは100年以上、何世代かに渡って続いたことになります。その間、イスラエルの民は、何度も何度も救いを求めて、神に叫び、祈り求めたことでしょう。しかし、神の救いの手はすぐには伸ばされませんでした。神が祈りに答え、約束を実行されるのには、「時」があって、その「時」は、神だけがご存知で、私たちには知らされないものです。もっとも、それが知らされることもあります。エルサレムの人々がバビロンに連れていかれたとき、神は預言者エレミヤを通して、「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる」(エレミヤ29:10)と言われ、バビロンに捕らわれていった人々が70年後に、エルサレムに帰って来ると言われました。70年は長い期間ですが、エルサレムの人々が神に背いた罪の刑罰としては、短いものでした。70年は、古い世代の人々が世を去り、新しい世代の人々が生まれ育つ年数です。神は、神に従順な新しい世代を異国の地、バビロンで、ペルシャで育てておられたのです。

 神は、イスラエルの人々がエジプトの奴隷から解放される日を指定しておらませんが、それは、モーセがミディアンで過ごした40年のすぐ後のことでした。あとわずかな年月のうちに、神は、イスラエルの人々の嘆きや叫びに答え、ご自分の民をかえりみてくださるのです。きょうの箇所に、「重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた」とありますが、これは、神がこのときにはじめて、人々の祈りを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約をようやく思いだし、やっと、人々の苦しみに目をとめ、みこころにとめられたということではありません。神は、イスラエルが苦しみにあったはじめから、いつも、その苦しみに目をとめ、その祈りに耳を傾けておられました。神が、ご自分の契約をかたときでもお忘れになることなど、決してありません。「契約を思い起こされた」とは、忘れていたが、思い出したというのではなく、その契約をいよいよ実行される時がきたということです。

 ですから、いつまでたっても祈りが聞かれないと思うときにも、神の「かえりみの時」が必ず来る、近いうちに来ると、信じて、その時を待ちましょう。使徒ペテロは、こう教えています。「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。」(ペテロ第一2:12)「神の訪れの日」、「かえりみの時」は必ず来ます。落ち着いて、神に信頼し、良い行いに励むなら、神は、その日、その時を早めてくださるかもしれません。信じて、待ち望み、その日、その時に、神に助け出され、神をあがめる者になりたいと願います。

 (祈り)

 すべてを造り、治めておられる主なる神さま、あなたの知恵と力、なによりも、私たちをみこころに留めてくださる大きく深い愛を感謝します。エジプトのイスラエルに目を留め、その祈りに聞いてくださったように、あなたは、私たちの現状をご覧になり、私たちの叫びに耳を傾け、私たちの祈りに答え、「かえりみの時」を与えてくださいます。その時を待ち望み、なお忍耐深く祈り、あなたに信頼する者としてください。私たちの共に信じるイエス・キリストのお名前で祈ります。

6/9/2024