15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。
15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。
今月は聖書が教える四つの大切なメッセージについてお話しています。先々週は、人は新しく生まれ変わらなければ救われないこと、先週は、生まれ変わった人はそこから成長していくということをお話ししました。難しい言葉で言えば、「新生」と「聖化」ということでした。今朝は、第三のメッセージ、「私たちをいやしてくださるのは神である」ということについてお話ししましょう。このことは別のことばで「神癒」あるいは「いやし」と言います。聖化と神癒は似ています。どちらも新生によって与えられた神からのいのちが私たちの中で働いて生み出されるものです。聖化はそのいのちがわたしたちの魂の中に働き、魂をきよめ、強めることですが、神癒は、そのいのちが私たちの肉体に働き、私たちをいやし、強めることであると言うことができます。人間は魂だけの存在ではありません。身体をもって生活しています。私たちの魂と身体は不思議なつながりを持っていて、魂が弱くなると、身体も弱くなり、身体が弱まると魂も衰えることがあります。私たちには魂だけでなく、身体のケアも必要なのですが、神は魂だけでなく、身体をもこころにかけ、ケアしてくださるのです。「神癒」とは、そうした神の恵みを指すのです。
この神の恵みの中に生き、身も心もすこやかであるために、私たちは何ができるでしょうか。今朝は三つのことを心に留めたいと思います。
一、祈る
まずは、祈ることです。病気になれば誰も早くよくなりたいと思うはずですが、人の心理というものは複雑なもので、病気になっても直りたくないと思う場合もあるのです。たとえば、ある登校拒否のこどもは、学校に行く時間になるとかならずお腹が痛くなるのですが、学校に行く時間が過ぎると、何事もなかったかのように、腹痛が消えてなくなるのだそうです。その腹痛はあきらかに精神的なものが肉体の症状となって現われたものす。そのこどもは、自分が立ち向かわなければ現実を病気に逃げているのです。病気ほどつらいことはないはずなのに、病気を隠れ蓑にして、その中に閉じこもっている人も多いのです。ヨハネの福音書5章で学んだ「三十八年間病気だった人」もそのようなひとりでした。イエスは彼に「よくなりたいのか。」(ヨハネ5:6)と声をかけています。いやしの力は「よくなりたい」という私たちの願いに応じて働きます。祈りは、そのような私たちの願いを強めるのです。
「病気は神が与えたものだから、神のみこころとして受けるべきで、いやしてくださいなどと祈るべきではない。」という人もいます。神に願うこと自体が神のみこころにさからうことだというのです。もし、そうなら、息子のいやしのために遠い道のりをかけつけてきたカペナウムの役人や(ヨハネ4:46-54)、部下のためにへりくだってイエスに願い出た百人隊長(マタイ8:5-13)、あるいは「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び続けた盲人バルテマイ(マルコ10:46-52)などは、神のみこころに異義を申し立てた人々ということになります。しかし、イエスは、これらの人々の求めに答えてくださり、彼らの信仰をほめてくださっています。フォーサイスは『祈りの精神』という本の中で「神は、神の子らが祈りによって神のみこころに反抗することを喜んでおられる」と言っていますが、意味深いことばです。病気の時祈ることは、決して神にたいして失礼なことでも、ご利益信仰でもありません。神は、私たちがいやしを祈り求めるのを待っておられるのです。
また、「病気は自分の犯した罪の罰なのだから、それを甘んじて受けるべきである。それをいやしてくださいとは虫が良すぎる。」と考える人もあるでしょう。確かに、ある種の病気は、その人の不摂生が原因となっており、病気は生活を改めるようにとの神からの警告である場合があります。また霊的な罪の結果、病気がやってくる場合もあります。コリント第一11:30に「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」とあります。これはコリントの教会の人々が聖餐式をいいかげんに取り扱ったからでした。もし、この世界に罪が入ってこなかったら病気もなかったでしょう。しかし、病気のすべてが、病気になった人、あるいはその両親の何かの具体的な罪からくるのではありません。イエスは生まれつきの盲人について「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)と言われたではありませんか。病気になった時、静かに自分の罪を反省することは大切なことです。そこから悔い改めに導かれるなら、それは素晴しいことです。しかし、病気になったからと言ってそのことでむやみに自分を責めたり、また、病気になった人を冷たい目で見るべきではありません。ある宗教団体では、その信者が入院すると、かならず大勢で病院に行くのだそうです。お見舞にいくのではありません。「病気になったのは信心が足りないからだ。もっと熱心に御題目を唱えなさい。」と責め立てにいくのです。病気の人を責めて病気が良くなるでしょうか。イエスは熱病を叱りつけたことはありますが、熱病の人を叱りつけたことはありません。いつも、病気の人をあわれんで、いやしてくださいました。どんな原因でなった病気であれ、神に祈りましょう。神は恵みの神であり、あわれみの神です。恵みとは、受ける資格のない者に注がれる愛、あわれみとは、私たちの悲惨さを、その原因を問わないで、拭いとってくださる愛のことです。神のいやしは、神の恵みから、神のあわれみから来るのです。そのことを信じて祈ろうでありませんか。
二、祈ってもらう
第二に、病気になったら、自分で祈ると共に、他の人に祈ってもらうことです。ヤコブの手紙に「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」(ヤコブ5:14-16)とあります。
ひとりで祈っていても、神がいやしてくださるのだという確信が持てない時があります。そのような時、他の人に祈ってもらうことによって、信仰が強められ、神のいやしを確信できるようになります。他の人に祈ってもらうことはとても大切なことです。
そして、祈ってもらう時、なによりも、自分の教会で、その指導者に、また、兄弟姉妹に祈ってもらうことです。ヤコブは「教会の長老たちを招き」と教えています。使徒たちを招きなさいとか、著名な伝道者を招きなさいとか言っていません。その人を一番良く知っていて、いつもその人のために祈っている、その教会の人に祈ってもらいなさいと教えているのです。自分の教会の牧師よりも、「いやしの賜物」を特別に与えられている人に祈ってもらいたいという気持ちも分かります。しかし、いやしの賜物を持った人がいやしを与えるのではありません。神は言われます。「わたしは主、あなたをいやす者である。」いやしは、神から来ます。そして、神は、いやしのチャンネルとして祈りを、教会の祈りを用いてくださるのです。
私たちの身体には、身体の各器官が互いに弱さを補いあう機能があります。からだの各器官がバランスよく働いて病気を直していくのです。教会はキリストのからだで、教会の誰かが弱くなれば、他の人たちがそれを支えます。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(コリント第一12:26-27)とある通りです。キリストのからだの一部分である私たちは、キリストのからだにつながっていることによって、キリストのからだが持っているいやしの賜物を頂いて、いやされていくのです。たとい、特別ないやしの賜物を持った人がいなくても、みんなが心を合わせて祈るなら、それぞれに与えられたちいさないやしの賜物が集められ大きな力となるのです。神は、教会の祈りを用いていやしを与えてくださいます。私は、前任の教会で、突然デプレションに襲われたひとりの人のため、毎週、祈り会で特別な祈りをささげたことがあります。みんなで祈りの輪をつくって、その人がその輪の中にいるかのようにして、神の守りといやしを求めました。その時、その人はロープを持ってガレージに行き、そこで自殺したいという衝動にかられたのですが、祈りの力を感じ、それによって押しとどめられたと、良くなってからお話ししてくれました。病気の時は祈ってもらいましょう。また、私たちも、病気の方のために祈ってあげましょう。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」とあります。このおことばを信じて祈りましょう。
ヤコブはここで、病気のいやしだけでなく、罪の赦しにも触れています。「また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」病気のすべてが罪の結果ではありません。しかし、罪から病気が出てこなくても、病気から罪が出てくる場合があります。身体が弱くなると心もしおれ、不平不満が出てきて罪を犯すことがあります。神の恵みも力も信じられなくなり、感謝を失い、希望を捨ててしまう、不信仰の罪に陥ってしまうことがあり、神よりも医者や薬に頼ってしまうこともあります。医者も、薬も、また霊的ないやしの賜物も神が用いてくださるものですが、それらはいやしのチャンネルにすぎません。それらのものにいやし主と同じように、あるいはそれ以上に頼ることを神は喜ばれません。しかし、こうした私たちの信仰の足りなさも祈りによって解決できるのです。たとい身体は病気でなくても、家族の問題に、人間関係のトラブルに巻き込まれることがあります。教会がキリストのからだとして、互いにいたわりあうことがなくなったら、キリストのからだのどこかが故障しているのです。神のいやしの力は、病気ばかりでなく、家族の問題にも、人間関係にも、教会にある弱さにも働きます。罪があれば互いに罪を言い表わしましょう。何よりも互いのために祈りあいましょう。こうして教会が健康になる時、教会は、病気の方々や傷ついている人々のためのいやしのチャンネルとなることができるのです。
三、感謝する
第三に、いやされたなら、そのことを、神に感謝しましょう。いやしの背後には、多くの人の祈りがあり、ドクターやナースの努力があったでしょう。そうした人々に感謝したい思いは当然ですが、ほんとうのいやし主である主に感謝することを忘れてはいけません。いやし主をあがめることをしっかりと心にとめましょう。
まだ病気がいやされていなくても、感謝をしましょう。熱があっても、食欲があれば、そのことを感謝しましょう。祈っても、祈っても、なかなか回復しない病気もあります。長期戦で臨まなければならないものもあるでしょう。そのような場合でも、病気の自分を支えてくれる家族がいること、ドクターにみてもらえ、必要な薬が手に入るこ、静かに休む場所が与えられていることなど、感謝できることが多くあるはずです。病気になると、ものごとを消極的、悲観的に考えてしまいがちです。そうすると、もっと病気が悪くなります。たとえ病気の時にも、神の恵みを忘れず感謝をしましょう。
いやしを求めて与えられなかったら、どうしたらいいのでしょうか。祈ったようには、いやされない時があるのは事実です。しかし、それは、神が祈りに答えてくださらなかったということではありません。期待していた通りではなくても、神は祈りに答えていてくださっているのです。たとえ、肉体の弱さは残っても、神は、それに打ち勝っていく心の強さを与えてくださいます。その弱さをカバーする助けが与えられます。いやしは、身体にだけ生じるのでなく、私たちの心や、環境にも生じるのです。一昨年サンフランシスコに来た星野富弘さんは、多くの人の祈りにもかかわらず、その全身麻痺はいやされませんでした。しかし、彼はイエスを信じて、生きる力を得ました。家族や教会の仲間のサポートを受け、すばらしい奥様を与えられました。神は、彼に、口で書いた絵と詩によって多くの人に生きる勇気を与えるという使命を与えました。身体はあいかわらず動きません。私たちにとってなんでもないことが、星野さんにとっては大きな苦痛であることが数多くあると思います。しかし、神は、星野さんに別のかたちでのいやしを与えていてくださっているのです。
使徒パウロも、いやしを別のかたちで受けています。彼も慢性の病気を持っていました。彼の病気が何であったかはわかってはいませんが、パウロはそれを「肉体のとげ」と呼んでいます。パウロはそれが取り除かれるように、いやされるように祈りました。病気が妨げになって伝道できないこともあったのでしょう。パウロは「神さま、あなたの働きのために、いやしが必要なのです。私の病気を取り去ってください。」と祈ったことでしょう。彼は「三度も主に願いました。」と言っています。「たった三度しか祈らなかったの?もっと祈れば答えられたかもしれないのに。」と考える人もいるかもしれませんが、パウロの場合の「三度」というのは、おそらくは、断食などをして特別な祈りを、三度もくりかえしたという意味でしょう。主イエスもゲツセマネの園で三度祈られましたが、それに匹敵するような、懸命な祈りだったことでしょう。そのような祈りの結果与えられた答えは、こうでした。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」パウロは、この主からのことばに、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。…なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と言って応答しています。(コリント第二12:7-10)パウロの肉体のとげは残りました。しかし、神のいやしがなかったのではありません。神のいやしの力はパウロのその弱さの中に働き続けました。肉体のとげはあっても、パウロはそれに負けない大きな働きをしました。肉体のとげはむしろ、神のいやしの力を表わすものとなったのです。私たちも、病気の中にも与えられている神のいやしの力に目を留めましょう。病気によって失うものばかりでなく、それを通して注がれている神のめぐみを感謝しましょう。
では、健康な人はどうしたらいいのでしょうか。もちろん、健康がささえられていることを大いに感謝すべきです。「私はほとんど病気をしたことがなく、いやしを体験したことがないのが残念です。」と言った人があります。なんとも、贅沢なことですね。病気がいやされることよりも、病気にならないほうがもっと素晴しいことであり、健康が守られていること自体、いやしの恵みが働いているのです。朝、元気で目が覚めた。おいしくご飯を食べることができた。そうしたひとつひとつが神のいやしの恵みから来ていることを覚えて感謝しましょう。感謝はいやしの恵みを倍増させます。
病気の時は、祈りましょう。祈ってもらいましょう。また、病気の人のために、こころに傷ついた人のために祈ってあげましょう。そして、いやし主である神に大いに感謝しましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちは健康な時は自分の力に頼り、病気の時は、頼るべきものを見失って落ち込んでしまいます。そんな私たちに、あなたは「わたしは主、あなたをいやす者である。」と語りかけてくださいました。このことばを心に刻み、病気の時はあなたに祈り、健康な時はあなたに感謝する者としてください。私たちの教会を健康なキリストのからだとし、人々に、またこの社会にいやしをもたらす信仰の祈りがささげられるところとしてください。キリストのお名前によって祈ります。
1/26/2003