過越の子羊

出エジプト記12:21-23

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12:21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
12:22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
12:23 主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。

 一、第10の災い

 神は、ファラオにイスラエルをエジプトから去らせるよう命じられましたが、ファラオは、その言葉に聞き従いませんでした。それで神はエジプトに災いを下されました。

 第1の災い「ナイル川が血に変わる」(7:14-25)

 第2の災い「蛙が大量に発生する」(8:1-15)

 第3の災い「ブヨが人にとりつく」(8:16-19)

 第4の災い「アブに襲われる」(8:20-32)

 第5の災い「家畜が疫病にかかる」(9:1-7)

 第6の災い「人に腫れ物ができる」(9:8-12)

 第7の災い「雹が降る」(9:13-25)

 第8の災い「いなごが草木を食い尽くす」(10:1-20)

 第9の災い「暗闇に覆われる」(10:21-29)

 最初は、神の言葉をあざ笑っていたファラオも、災いが厳しくなるにつれ、条件つきでイスラエルが荒野に行って祭りをしてもよいと言いましたが、災いが収まると態度を変え、心を硬くし、前言を取り消して、イスラエルを去らせようとはしませんでした。それで、最後の10番目の災いがエジプトに臨んだのです。それは、エジプト中の長子や初子が一夜のうちに撃たれて死ぬというものでした。人だけではありません。家畜の初子までもが死ぬのです。「エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ」(出エジプト11:5)とある通りです。

 今までの災いでは、エジプトの人々は大変な目に遇いましたが、ファラオは王宮で家臣たちに守られ、彼に直接の被害は及びませんでした。しかし、この災いでは、「王座に着いているファラオの長子から…」とあるように、ファラオは息子の死を体験するのです。ファラオの長子といえば、王位継承者です。それは、エジプトの王朝が途絶えることを意味しています。家臣たちも同じです。彼らはエジプトの富と権力を次の世代に引き継ぐ希望をもぎ取られました。また、一般の人々も、愛情を注いで育てた我が子の死を見て、悲しみのどん底に突き落とされました。聖書に、「そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない」(11:6)とあるとおり、こんな悲惨なことが起こったのは、エジプトの歴史の先にも後にも、この時しかありませんでした。

 さすがのファラオも、このときばかりは、イスラエルを去らせることを認めましたが、もっと早く神の言葉に従っていたら、ファラオも、ファラオの民もこの恐ろしい災いに遇わなくて済んだのです。神が与えた災いは、最初はあまり害のないもの、影響の少ないものでしたが、徐々に広範囲なもの、大きな害や恐怖をもたらすものになっています。神は、最初は小さな災いによって、もっと大きな災いに遇わないように警告しておられたのです。これは、誰に対しても、最後の決定的な災いを避けさせたいと願っておられる神のあわれみです。C・S・ルイスは、「私たちが不従順なとき、神は、最初は小さな声で囁きかけられるが、それでも、聞かないときは、はっきりとした声で叱りつけ、それでも聞かなければ、今度はメガフォンを使って大声で警告を与えられる」と言っています。神は、私たちが早い段階で神の言葉、神の声に聞き従って、災いを避け、幸いな道を選ぶよう願っておられます。しかし、ファラオは、そんな神のみこころを知ろうともせず、あわれみを感じることもなく、繰り返し、繰り返し、神の警告を無視し、次々により大きな災いを引き寄せ、最後の第10の災いまで突き進みました。

 今日の世界も同じかもしれません。世界の各地で戦争が起こり、紛争が絶えません。それなのに、指導者たちは和平への道を探ろうとするより、戦争をけしかけるようなことをしています。このぐらいの損失ならまだカバーできる、このぐらいの犠牲ならまだ国民の不満は爆発しない、ここまでだったら核戦争にならないなどと、神の警告を無視して、悪い方向に進んでいるように思えます。また、どの国でも、社会の秩序が壊れています。家庭が崩壊しています。若い人びとが希望を失くしています。また、個人のレベルでも、生きる目的や意味を見い出せないで、無気力な生き方をしている人、人を愛せなくていつも不満ばかり口にしている人、社会に貢献しようとするのでなく、怒りや恨みに支配され、社会に敵対している人、アルコールやギャンブル、また様々な欲望に支配されている人がなんと多いことでしょう。そうした人々は、決まって「自分には問題があるが、それは誰でも持っているもので、自分はまだ大丈夫だ」と言うのです。けれども、ある人が言いました。「滅びへの道は、『まだ大丈夫』という踏み石で舗装されている。」神の厳粛な裁きを思い、神の警告に聞き、最終的な裁き至る前に、いや、もっと大きな災いに遇う前に、神の言葉に聞き従いたいと思います。

 二、過越の子羊

 第10の災いも、今までの災いと同じようにエジプト全土に臨みます。ですから、イスラエルの人々は、それに対して備えなければなりません。しかし、「備える」と言っても、「雹の災い」のときのように、家畜やしもべたちを避難させるといった方法では、この災いを避けることはできません。雹の災いのときは、モーセの言葉を聞いて、人や家畜を避難させたエジプトの家臣たちも、それによって雹の被害から逃れたのですが、この最後の災いは、どんなに頑丈な家に、その奥の間に、戸を締め、鍵を掛けても、防ぐことはできませんでした。この災いは護衛に守られていた王宮の王子の寝室にも臨んだのです。人からの災いや自然環境からの災いなら、知恵を働かせ、互いに助け合い、力を尽くせば、ある程度は防ぐこともできるでしょう。しかし、神からの災いは、人間の力によっては決してできないのです。そこから逃れることのできる方法はただ一つ、神が指定した方法だけです。

 その方法とは、災いが来るその日の夕暮れに、家族ごとに一頭の子羊を屠るというものでした。子羊は、長子の身代わりに屠られるのです。そして、子羊が流した血を、ヒソプの束で、家の入り口の鴨居と左右の柱に塗ります。すると、この災いは、血が塗られた家を過ぎ越し(pass over)ます。それで、イスラエルの人々がエジプトに下った最終的な裁きから救われたことが「過越」(Passover)と呼ばれ、それを記念する祭りを「過越祭」(The Passover Feast)と呼ぶようになりました。

 血を家の入り口に塗るなどというのは、現代人の目から見ると、何か気味の悪いまじないに見えます。聖書をはじめて読む人は「何もこんなことをしなくても」と思うかもしれません。しかし、聖書を読み進んでいくと、過越の子羊が屠られ、血を流したことと、イエス・キリストが十字架で血を流されたことがつながっていることが分かります。旧約聖書と新約聖書は別々のものではありません。旧約のさまざまな出来事は、やがて新約で成就するイエス・キリストの救いを予め示す「型」、「予型」(プロトタイプ)だったのです。

 イエスは12歳のときから毎年欠かさず、過越祭にはエルサレムに上っていました。イエスはそのたびに、過越の子羊となって果たす、ご自分の使命を自覚されたことでしょう。地上での最後の過越祭のとき、イエスは過越の食事のパンを取り、「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです」と言われ、ぶどう酒の盃を取って、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」と弟子たちに言われました。過越の子羊は、ほんとうは死ぬはずの人の身代わりとなって屠られたのですが、イエスも、罪のために滅びに定められていた私たちの身代わりとなり、命を献げてくださったのです。

 イスラエルはエジプトで奴隷でした。それは、すべての人が罪を犯したため、罪と死の奴隷になっていることを表わしています。かつての奴隷は金銭で売り買いされました。ですから、奴隷を自由にするには、代価を支払って、買い戻す必要がありました。聖書の言葉では、それを「贖い」と言います。イエスは、罪と死の奴隷となっていた私たちを解放し、自由にするために、ご自分の命を「贖い」の代価とされたのです。イエスが「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)と言われた通りです。

 神の御子が罪人の身代わりとなって苦しみ、血を流し、死んでいかれる。これは、神が人を救うために定められた方法です。この他に、救いの道はありません。イスラエルがエジプトと共に神の裁きを受けないために、過越の子羊とその血が必要であったように、私たちにも、神の子羊イエスとイエスが十字架の上で流された血が必要なのです。人間のどんな方法、努力も人を神の裁きから救うことはできません。神の裁きから救われる方法は、神が定められた方法以外にはないのです。私たちのために過越の子羊となってくださったイエス・キリスト以外に救いはないのです。聖書は、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言っています。神が、イスラエルに過越の子羊を屠り、その血を塗るよう命じられたのは、イエス・キリストの十字架の救いを指し示していたのです。

 三、新約の過越

 イスラエルの人々は、過越を記念して「過越祭」を守ってきましたが、じつは、新約にも、クリスチャンが守る「過越祭」があるのです。コリント第一5:7に、「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」とあって、「私たちの過越」という言葉があります。ギリシャ語で、「パスカ」、あるいは「パスハ」と言い、それには、「過越」と「過越の子羊」の両方の意味があります。続く8節に、「ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」とありますが、この「祭り」は日曜日ごとの礼拝を指しています。

 私たちが日曜日に礼拝を捧げるのは、イエスの復活を記念してのことです。いや、もっと正確に言えば、復活され、今、生きておられるイエスに出会い、イエスをほめたたえるためです。旧約の過越の子羊は屠られたのち、焼かれました。死んだままでした。しかし、新約の過越の子羊は、十字架で死なれましたが、3日の後よみがえられました。その死によって私たちを贖い、その復活によって私たちを生かしてくださるのです。それで、イースターは「パスハ」とも呼ばれます。毎週の日曜日は「小さなイースター」ですから、この礼拝もパスハ(過越祭)なのです。「祭りをしようではありませんか」と言われているのは、過越の子羊となられ、屠られましたが、今も生きておられるイエス・キリストをあがめようということです。

 黙示録では、イエスは「屠られた子羊」(黙示録5:6, 12)と呼ばれていますが、屠られたままではなく、生きておられ、歴史をつかさどり、世界を治めておられるお方として、御父と共に天で御使いや聖徒たちによって礼拝されています。私たちの礼拝は、この天の礼拝に地上から参加するものです。旧約の過越、ユダヤの人々の過越祭には復活はありませんが、新約の過越、クリスチャンの過越祭には復活されたイエス・キリストがおられるのです。私たちの毎週の礼拝はじつは「過越祭」です。罪のうちに死んでいた私たちが、イエスによって、罪の裁きから救い出され、永遠の命で生かさている。この幸いを感謝するものです。

 旧約の過越の記事を読むとき、罪ある人間が決して逃れることの出来ない神の裁きを思って、厳粛な気持ちになります。しかし、同時に、過越の子羊が指し示すイエスによって、その裁きから救われ、死から命へと移される道があることを知って、感謝と喜びに満たされます。子羊イエスによって与えられている「私たちの過越」を、心からの感謝と喜びをもって、さらに多くの人々と共に祝いたいと、心から願います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、聖書を学ぶたびに、あなたが、早くから、私たちのために救いを備えておられたことを知ります。それによって、あなたが、どんなにか私たちの救いを願い、私たちを救いに招いておられるかを思います。父なる神、あなたの愛とあわれみのゆえに、あなたをあがめます。十字架の贖いと復活による救いによって、私たちの過越を成就してくださった子羊イエスをほめたたえます。この救いを心から受け入れ、そこに堅く立ち、それによって生かされ、歩む私たちとしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

7/14/2024