主を知るために

出エジプト記10:1-2

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10:1 主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。
10:2 また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」

 一、エジプトへの災い

 モーセがファラオに告げました。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」すると、ファラオは、「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは」と答えました(5:1-2)。「エジプトの神々なら知っているが、『主』などという神は知らない。なぜ、わたしがヘブル人の神に従わなければならないのか」というわけです。ファラオは「主」と呼ばれる神が、ただひとり、世界を治めておられるまことの神であることを認めなかったのです。

 それで神は、ファラオに、ご自分が「主」であることを示すため、モーセによってエジプトに10の災いを与えられました。出エジプト記7〜10章には、最初の9つの災いが書かれています。

 第1の災いは「ナイル川が血に変ったこと」(7:14-25)、第2は「蛙が大量に発生したこと」(8:1-15)です。インドでガンジス川が神聖なものとされているように、古代エジプトでは、ナイル川は、聖なるもの、神そのものとされていました。また、エジプトでは動物は神々を表すものとされ、メンフィスの神「ブター」やテベスの神「アモン」は雄牛で、エジプトの女神で最高位にあった「ハートール」は雌牛で表されました。知恵の神「トース」は猿、その女神「ヘカ」が蛙だったのです。ナイル川や蛙の災害は、主がエジプトの神々に勝るお方であることを示すものでした。

 偶像の神々は人間が考え出したもので実体はないのですが、そこには悪霊の力が働きます。ですから、宮廷の呪法師たちも、悪霊の力によってナイルの水を血に変えたり、蛙を出したりしました。けれども、それは、ほんの小規模なものでした。呪法師たちはナイルの水を元にもどしたり、蛙を川に戻したりはできませんでした。これらの災いが主から出たものですから、主の他誰も、災いを取り除くのはできなかったのです。第3の災害、「ブヨの災害」(8:16-19)のときには、呪法師たちは同じことができず、「これは神の指です」と言って、神の力の前に屈服しています。

 この後、第4の「アブの災害」(8:20-32)、第5の「家畜の疫病」(9:1-7)、第6の「腫れ物」(9:8-12)、第7の「雹(9:13-25)」、第8の「いなご」(10:1-20)、第9の「暗闇」(10:21-29)などでは、エジプトにはそれらの災いが下ったのに、イスラエルは災いから守られています。神は、それによって、こうした災害が自然災害ではなく、神によってなされた奇跡であることを示されました。8:10で、モーセが「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです」と言っているように、神は、主こそ神であることを、これらの奇跡によって、ファラオに示されました。それなのに、ファラオは、神を認めようとはせず、その言葉に従いませんでした。いなごがあらゆる物を食い尽くしたあと、家臣たちは音を上げ、「この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか」(10:7)と進言しましたが、それでもファラオは心を硬くし続けました。そのファラオの頑固さがエジプトの人々を苦しめたのです。

 エジプトの全土が3日間も暗闇で覆われた第9の災いは、自分を太陽神「ラー」の子であるとしていたファラオへの刑罰でした。この災いでは、太陽が暗闇となったのですから、ファラオにどんな権力があり、自らを神聖なものにしたとしても、彼もまた、所詮は塵から作られ、塵に返る被造物に過ぎないことを示しているのです。「主など知らない」と言ったファラオは、これらの災いによって主こそ神であることを「思い知らされた」のです。

 「神を知る」といっても、ファラオのように「思い知らされる」知り方ほど、不幸な知り方はありません。人が、どんなに神を否定しようとしても、それで神を消し去ることはできません。聖書は、私たちが世を去ったあと、誰もが神のさばきの座の前に立たなければならないと教えています(ヘブル9:27、ローマ14:1、コリント第二5:10、コリント第二5:10)。生きている間、「神などいるものか」と言って神を信じようとしなかった人が、世を去った後、「ああ、やはり、神はおられたのか」と、神の存在を知り、認めるようになったとしても、それはその人にとって絶望でしかありません。何度も何度も神の存在と力とを示されながら、最後の最後まで神に逆らい、自ら滅びていったファラオのようであってはならない、今、イエス・キリストによって神を知るように、「さばき主」としてでなく「救い主」として知るようにと、神は、私たちに語りかけておられるのです。

 二、神の民の守り

 エジプトには、このようなすさまじい災いが下ったのですが、イスラエルはその中で守られてきました。アブの災いについて書かれているところで、神はファラオにこう言われました。「もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。」(8:21-23)エジプト中にアブの群れが満ちても、イスラエルの人々がいるゴシェンにはアブが寄り付かないというのです。家畜が疫病で打たれたときも、「主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない」と言われ、その通り、神はイスラエルを守られました。

 このことは詩篇91:7-10を思い起こさせます。「千人が あなたの傍らに/万人が あなたの右に倒れても/それはあなたには 近づかない。あなたはただ それを目にし/悪者への報いを見るだけである。それは わが避け所 主を いと高き方を/あなたが自分の住まいとしたからである。わざわいは あなたに降りかからず/疫病も あなたの天幕に近づかない。」

 エジプトに下された災いに、イスラエルの人々も驚き、恐れたに違いありません。しかし、アブも、動物の疫病も、空から叩きつけるように降ってくる大きな雹も、ゴシェンの地の一歩手前までやってきても、決してイスラエルの人々に触れることはありませんでした。エジプト全土が暗闇で覆われたとき、「人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった」のですが、ゴシェンの地だけは違っていました。「しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」(10:23)のです。闇と光が見事に区別されています。

 現代は、ほんらい区別されなければならないものまで、「区別してはいけない。それは差別だ」と言われるようになりました。神は人を男と女とに造られました。男性と女性では持っている遺伝子が異なり、臓器も異なります。骨格の形も違います。いくらホルモン分泌を制御したり、手術で体型を変えたりしても、男性は女性になれないし、女性は男性になれません。教育の機会や職場での待遇に男女の差別があってはなりませんが、それで男性と女性の区別までいらなくなるのではありません。

 また、神は「善」と「悪」とを区別されました。聖書に「悪しき者を正しいとする者、/正しい人を悪いとする者、/主はこの両者を忌み嫌われる」(箴言17:15)とあります。善も悪も絶対的なものではなく、相対的なものだから、区別してはいけない。犯罪は病気だから罰してはいけないなどといった考えがアメリカで一気に広がりました。その結果、社会がどんなに混乱し、子どもや女性、また、善良な人々が危険にさらされているかは、毎日のようにニュースが伝える通りです。イエスは、赦しを教えられましたが、それは善悪の区別を無くすものではありません。地引網のたとえでイエスは言われました。「網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け」るのです(マタイ13:48-49)。善と悪は永遠までも区別されるのです。神は、ご自分を信じる者に、善悪を区別し、善を選びとるよう求めておられます。神は、善を選び取って生きる人々を、そうでない人たちから区別し、特別な恵みと祝福を与えてくださいます。

 だからといって、信仰者は、傲慢になってはいけません。私たちが神の民とされたのは、決して自分たちの正しさや、立派さ、功績によるのではないからです。それは恵みによるものです。神が私たちをこの世から区別してくださるのは、「恵みによる区別」です。ですから、その恵みに答えて、何が神のみこころにかなったことか、何が神に喜ばれることかを区別しながら生きることが、私たちには求められているのです。

 三、主を知る

 さて、イスラエルの人々は、エジプトへの災いと、その中での神の守りによって、主がどんなに力あるお方か、また、どんなに自分たちを愛しておられるかを知ることになりました。しかし、主を知るためには、ファラオの拒否や抵抗という大きな壁にぶつからなければなりませんでした。きょうの箇所の1節に「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである」とある通りです。ファラオとの最初の交渉が失敗に終わったとき、イスラエルの人々は、モーセがファラオを怒らせ、ファラオを頑固にさせたので、レンガを作る藁をもらえなくなったと、モーセを非難しました。ところが、ファラオを頑固にさせたのは、ほかならぬ神であると、主は言われたのです。神は、すべての人が神の前にへりくだり、悔い改めることを望んでおられ、さまざまな方法で、悔い改めの機会を与えておられます。けれども、ファラオのように、神の奇跡を何度も見ながら、なお、頑固に神に逆らう者には、その恵みを差し控えられることもあるのです。神は、ファラオがあまりにも心を硬くしょうとするので、ファラオから手を引き、彼の意志と選択に任せてしまわれました。「わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした」との言葉は、神がわざわざ彼らの心を硬くしたというよりは、「神がファラオが心を硬くするにままにされた」という意味です。

 ファラオがどんどん心を硬くしていくことは、イスラエルがどんどん窮地に追い込まれていくことでした。しかし神は、イスラエルの逆境を用いて、ご自分の力あるわざを示す機会とされました。ファラオが10度も心を硬くしたので、神は、10度も、ご自分の力を示すことになり、最後には、イスラエルのエジプト脱出という大逆転の救いを与えてくださったのです。

 このことは、私たちに困難があるからといって、神の救いあきらめてはいけないことを教えてくれます。モーセのミッションは失敗から始まりましたが、それは、人の失敗であっても、神の失敗でありませんでした。救いは苦難から始まります。困難があっても、それを打ち破っていくものが救いなのです。

 2節で、主は言われました。「また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」

 すべてが順調であったら、エジプトであのような神のわざは示されなかったでしょうし、イスラエルの人々は、世代から世代からへと語り伝えることのできる主の力も愛も知ることができなかったでしょう。私たちは、圧迫を解放に、苦難を希望に、問題を解決に導いてくださる恵み深く、力ある主に、より一層の信頼を寄せたいと思います。

 (祈り)

 主なる神さま、私たちは、暗く混乱した世界に生きています。人々は、あなたの真理から、また、愛のみこころから離れ、ますます、その心を硬くしています。主よ、かつて、あなたがエジプトの暗闇の中でもご自分の民に光を与えてくださったように、私たちに光を与えてください。今も、あなたはご自分の民を守ってくださるだけでなく、この世にあって、光としようとしておられます。主なる神さま、今の時代にも、あなたの力ある腕を伸ばし、みわざを行ってください。そして、私たちがそのみわざによって、あなたを深く知り、あなたの恵みを、救いを多くの人に知らせることができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/30/2024