6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
6:8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。
先週はペンテコステでした。ペンテコステの色は、聖霊の炎をあらわす「赤」です。ウェスト・コビナ教会のニュースレターに「ペンテコステの礼拝には、何か赤いものを一つ身につけて礼拝しましょう。」という呼びかけがありましたが、私は皆さんに、ペンテコステの前に同じように呼びかけるのを忘れていました。それでも、証をしてくれた兄弟は、ちゃんと赤いストールを身につけてくれたので、うれしく思いました。
きょうは「三位一体主日」です。ペンテコステの日に聖霊が降ったことにより、「父なる神」、「御子イエス・キリスト」、そして「聖霊」の「三位」(three persons)のすべてがあきらかになりました。私たちは、「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを受けました。「聖霊によって、御子イエスをとおして、父なる神を」礼拝しています。礼拝の最後には「父、御子、御霊の、大御神に、ときわに、たえせず、み栄えあれ!」と賛美し、「主イエスの恵み、御父の愛、聖霊のまじわり」を祝福として受けています。私たちは三位一体の神によって救われ、三位一体の神に導かれているのですが、今日は、そのことを特に覚える日です。今日の色は神の栄光をあらわす「白」ですが、白いものを身につけていてもいなくても、霊的には、主イエスの血によってきよめられた白い衣を着、しゅろの葉を持ち、天使たちとともに、「ハレルヤ!」と父と子と御霊の神をほめたたえる者とさせていただきたいと思います。
一、聖書と奴隷
今日の聖書は、奴隷たちと、その主人たちに対する教えです。「奴隷」と聞くと私たちはすぐに、アメリカの奴隷解放のことを考えます。リンカーンの偉業は歴史に残るものですが、ヨーロッパでは、その半世紀前から奴隷制度の廃止が叫ばれていました。革命後のフランスがいちはやく奴隷制度を撤廃し、続いて英国が奴隷貿易を禁止するようになりました。今年の2月、「アメージング・グレイス」という映画が公開されましたが、これは、英国を奴隷売買禁止へと導いた若き政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの生涯を描いたものです。彼の努力で奴隷貿易廃止法が成立したのが1807年でしたので、それからちょうど200年たった今年(2007年)、この映画が作られたわけです。この時代、奴隷たちは、アフリカの国々から舟底に作られた縦幅がわずか2フィート7インチの「棚」の中に押し込められ、北米や南米に売られていました。船の中で死んでいった人々、絶望のあまり自殺した人々は数多く、彼らは海に捨てられ、文字どおり海の藻屑として消えていきました。生き延びて上陸した奴隷たちは、異国の地での苛酷な労働によって痛めつけられ、苦しめられ、人間としての尊厳を奪われました。アメリカでは1863年にリンカーンが奴隷解放宣言をするまで奴隷制度は続き、アフリカ系の人々が公民権を得たのは、それから100年後の1965年でした。アメリカで奴隷制度が廃止されてまだ144年、その子孫に公民権が認められてからまだ42年しか経っていないのです。ここには四十代、五十代、六十代の人が大勢いますが、皆さんのこどものころや青年時代に、このアメリカにまだ奴隷制度の残骸が残っていたのです。奴隷制度などというのは遠い昔のもののように思われがちですが、実はそうではなく、現代でも、借金や貧困のために身を売る人は多く、そうした人は世界で2700万人いると言われています。ドラッグの奴隷、ギャンブルの奴隷、アルコールの奴隷、そして、金銭の奴隷など、形は変わっても、何かの奴隷になっている人はなんと多いことでしょう。
聖書の時代には、戦争に負けた国の人たちはみな奴隷になりました。戦争に勝った国は、敵国の人々を奴隷という身分に固定しておくことによって、その国を支配し続けようとしました。ですから、奴隷の身分の人々はとても多く、ローマ帝国では総人口の半分ぐらいはいたと思われます。とくにローマやイタリヤでは、90パーセント近くが奴隷で、自由人はほんの一握りしかいませんでした。けれども、奴隷のすべてが、苛酷な労働についたわけではありませんでした。身分は奴隷でも、身分の高い人の家庭教師になったり、学者になった人もありました。奴隷であっても賃金はもらえましたので、それを貯めて自由を獲得した人もいましたし、良い主人に恵まれた奴隷は、30歳くらいになると、奴隷から解放されることもありました。古代の奴隷制度は、近代の奴隷制度とはずいぶん違っていました。
聖書はその時代の奴隷制度を否定も、肯定もしていません。それを現実として受け入れ、その中で奴隷の身分にあるものはどうしなければならないか、奴隷を持つ主人はどうしなければならないかを教えています。しかし、その教えは、たんにその時代の制度や道徳から出たものではなく、もっと高いもの、永遠なものから語られています。聖書は言います。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)自由人と奴隷という身分制度があった時代に、「キリストにあっては奴隷も自由人もない」というのは、革命的な宣言でした。エペソ人への手紙が「奴隷たちよ。」と呼びかけ、「主人たちよ。」と呼びかけているのは、奴隷の身分の者も、自由人の身分の者も等しく教会のメンバーであったことを教えています。教会では自由人も奴隷も対等に扱われていたのです。
使徒パウロにピレモンという弟子がいました。ピレモンは裕福な人で何人かの奴隷を持っていましたが、その中のひとりオネシモが主人のもとから逃亡しました。不思議な導きにより、オネシモはパウロに出会い、キリストを信じる者となりました。当時逃亡奴隷には死をもって報いるのが慣わしでしたが、パウロは、オネシモを主にある兄弟として受け入れるようにと、ピレモンに願っています。「ピレモンへの手紙」はきわめて個人的な手紙ですが、私たちにキリストの愛を教え、愛に生きる道を教えるものなので、新約聖書の中にふくめられました。クリスチャンは政治や軍事の力で奴隷制度を変えようとはしませんでしたが、キリストを信じる信仰によって、また、信仰から生み出される愛によって、奴隷制度の実質を変えていったのです。実際、初代教会では、人々が奴隷から解放されるための贖いのお金を積み立てていたという記録があります。最初にお話したウィルバーフォースも、英国教会のメンバーでしたが、賛美歌「アメージング・グレイス」の作者、ジョン・ニュートンの導きによって福音的な信仰を持つようになりました。奴隷貿易廃止のために彼がともに働いた人々の多くは、神とのまじわりを第一にするクエーカーのクリスチャンたちでした。ウィルバーフォースは雄弁で知られた政治家ではありましたが、奴隷貿易によって富を得ていた人々の反対を押し切って、奴隷貿易を廃止へと導くことができたのは、彼の雄弁や政治手腕によってではなく、その信仰によってでした。聖書は、決してひとつの時代に縛られた教えではありません。時代を超えた永遠なものを指し示しています。神を信じる人々はそれに導かれて、社会を、たんに外側からではなく、人々の内面から変革していったのです。
二、奴隷への教え
では、聖書が奴隷に対してどう教えているかを見ましょう。エペソ6:5-9にこうあります。「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」
聖書は、奴隷たちに対して、あなたがたは「キリストのしもべ」だと教えています。「キリストのしもべ」というのは、使徒パウロが自分のことを言うときによく使った言葉です。「しもべ」と訳されている言葉は、もとの言葉では「奴隷」ですから、パウロはへりくだった気持ちで自分を「キリストの奴隷」と呼んだのですが、同時に、それは、「私は、誰の奴隷、何の奴隷でもない。私はキリストの奴隷だ。キリストだけが私の主であり、私はキリストのものだ。」という主張でもありました。聖書は、クリスチャンの奴隷たちに対して、あなたがたは人の奴隷ではない、「キリストのしもべ」、つまり「キリストの奴隷」なのだ。あなたがたが仕えているのは「地上の主人」ではなく「天上の主」イエス・キリストであると、教えているのです。それで、聖書は「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」と教えているのです。主人が見ているときには良く働くが、見ていないときには働かない。主人におべっかを使ったり、他の奴隷のことを悪く言ったりして、主人にとりいろうとする。そうしたことが、奴隷たちの間であったようですが、聖書は、クリスチャンの奴隷たちに、そうした不誠実な人々の仲間になってはいけない、主イエス・キリストに仕えるように働きなさいと教えています。
この教えは、二千年後の現代も変わりません。職場で、家庭で、教会で、「人にではなく、主に仕える」ことがどうすることなのかを学びましょう。自分の出世や利益だけを考えている人は職場で信頼されることはないでしょう。結婚している女性にとって家庭での仕事は、ほとんどがご主人のためやこどものためで、自分のために割くことができる時間はわずかしかないかもしれません。もし、主に仕えるという思いがなければ、家庭での単調な仕事に意味や喜びを見出せなくなるでしょう。教会での奉仕は、まさに人にではなく、主に仕えるものです。主イエスを信じ、主イエスを愛することなしには、ほんとうの奉仕をささげることはできません。
今月のマンスリー・レポートに M.B.A. のことを書きました。M.B.A. と言っても、Master of Business Administration のことではありません。Wendy の C.E.O.だった Dave Thomas 氏は高校を終えることができず、仕事をはじめてずいぶんたってから G.E.D.(高校卒業資格)を取ったのですが、彼は「ぼくは G.E.D.を取る以前に M.B.A.を取っていたんだよ。」とよく言っていました。彼の言う M.B.A. とは Mop Bucket Attitude のことでした。レストランのフロアーが汚れていれば、誰に言われなくても率先してモップとバケツを持ってきて掃除をする、そうした「進んで仕える姿勢」が、彼をビジネスの成功に導いたのです。職場であれ、家庭であれ、教会であれ、給料をもらっているからする、しかたがないからする、人に認められたいからするというのでは給料の奴隷、義務の奴隷、人の奴隷になってしまいます。私たちは「キリストのしもべ」なのですから、そうした「奴隷根性」を捨てましょう。たとえまわりから評価されなくても、主イエスが見ていてくださることを思い、まごころから、主イエスに仕えるように働きましょう。私たち信仰者が仕えるべき主は、キリストです。いつ、どんな場合でも、キリストが主です。
三、主人への教え
次に、主人たちへの教えは9節にあります。「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」
主人たちへの教えでも、キリストが主であるということが中心的な真理です。主人たちは「私は主人だ。自分の思いどおりのことを奴隷にして良いのだ。」と考えたことでしょう。しかし、クリスチャンの主人は、ほんとうの主人はただひとり、キリストであることを肝に銘じなければなりませんでした。聖書は、「彼らとあなたがたとの主が天におられる」と言って、主人も奴隷もともにおひとりの主の前に立つべき者だと教えています。キリストの前では、主人も奴隷も人間としての価値に変わるものはありません。この世にはさまざまな差別があります。いつの時代も弱い立場にある人が差別によって苦しめられてきました。しかし、聖書は「主は人を差別されることがない」と教えています。キリストは、主人だからといって手緩く扱うことはなく、奴隷だからといって厳しく裁かれるわけではありません。むしろ、主人たちのほうが恵まれていて力もあるわけですから、キリストは主人たちをより厳しく扱われ、奴隷たちにはあわれみをもって扱われることでしょう。公平な主が天におられることは、私たちがいつも心に留めていなければならない慰めであり、また、警告でもあるのです。
ローマ人への手紙14章は教会内の人間関係についての教えですが、そこに「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。」(ローマ14:4)ということばがあります。クリスチャンが互いにさばきあうことを戒めていることばです。それは、「あなたは、他のクリスチャンをとやかく非難しているが、あなたはその人の主人なのか。その人はあなたのしもべなのか。その人は他の人のしもべではないか。」と言おうとしたことばです。そして、「他人のしもべ」と言う場合の「他人」とは、主キリストのことなのです。その人の主はイエス・キリストです。キリストのしもべを軽々しく批判することは、その人の主であるキリストを批判することになるのです。互いにキリストのしもべとして忠告しあうことは良いことですが、自分のほうが先輩のクリスチャンだからといって、新しい人を自分のしもべのように扱ってしまうことはないでしょうか。キリストを主と信じる者たちは、主を礼拝するたびに、「彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがない」ことを心に刻みつけましょう。エペソ6:9は、そんな意味で、すべての人間関係に通じる教えです。
きょう学んだ「主人と奴隷」、その前に学んだ「親と子」、そしてその以前に学んだ「夫と妻」についての教えのすべてはエペソ5:21にある「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という教えの具体例としてあげられたものでした。「キリストを主とする。」ここに聖書の教えのすべてがあります。自分をしもべとすることなしにはキリストを主とすることはできないのですが、うわべだけではなく、本心からキリストのしもべになるためには、キリストがどれほど「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方」(黙示録5:12)かを深く知る必要があります。さらに主を知りましょう。主をあがめましょう。そして、それによって、時代が変わっても変わることのない、永遠の主の教えを実行する者となりましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたのあわれみをたたえます。御子なる主イエスさま、あなたの恵みをたたえます。聖霊なる神さま、あなたの力をたたえます。三位一体の主なる神さま、あなたをこころからあがめます。聖霊なる神さま、「イエスは主です」と告白する私たちに、さらに主の偉大さを示してください。父なる神さま、御子をあがめることによって、さらにあなたをあがめ、あなたの栄光を表わす私たちとしてください。私たちにしもべの道を示してくださった主イエスのお名前で祈ります。
6/3/2007