6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
一、霊の戦い
クリスチャンは信仰の戦いを戦っています。自分の不信仰や不従順と戦い、人間の欲望や悪の力が支配するこの世と戦っています。ヤコブの手紙に「世を愛することは神に敵することである。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としている。」(ヤコブ4:4)とありますが、クリスチャンは、神を愛するのか、それともこの世を愛するのかという選択をせまられています。信仰を成長させたいと願えば願うほど、神に対して真実でありたいと願えば願うほど、自分の不信仰や、世のものに対する執着との戦いをより多く経験します。そして、そうした戦いを通して信仰は成長していくのです。クリスチャンの生活は、決して戦いも心配事もない、毎日がヴァケーションのような、いわゆる「平安な生活」ではありません。
では、毎日が、不安でたまらない生活かというとそうではありません。神はクリスチャンに「平安」を約束しておられます。それは低いところで安穏としていることではなく、より高いものを求め、そこに引き上げられて得られる平安です。信仰の戦いを避けていては、こうした神からの「平安」は与えられません。信仰の戦いを戦っていない人はそれを味わうことができないのです。
クリスチャンは信仰の戦いとともに霊の戦いを戦っています。霊の戦いは、自分の不信仰や不従順との戦い以上のものです。クリスチャンは、神に近づこうとすればするほど、自分を神から引き離そうとする力を感じます。クリスチャンを失望、落胆させたり、疑いの中に投げ込んだり、神に従う勇気をくじいたり、霊的に怠け者にしたりするなどの誘惑を体験します。神の敵であるサタンとの戦いを実感するようになります。
とりわけ、伝道しようとすると、霊的な戦いをより強く感じます。「神が人間を愛し、イエス・キリストを罪からの救い主として遣わしてくださった。自分の罪を悔い改め、キリストを信じるなら、人は救われる。」というのは、「四つの法則」という小さなパンフレットに書き表わすことができるほど単純な真理です。キリストの十字架と復活ほど、多くの人に知られていることはありません。それは歴史の事実であり、数々の証拠によって証明された真理です。ほとんどの人は、説明すれば理解し、納得してくれます。しかし、多くの人は、このグッド・ニュースを聞いた後も、まるで、そんな事実がなかったかのように生活し、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを信じようとはしません。なぜなのでしょう。様々な理由がありますが、神の敵、信仰の敵であるサタンが人々の心を固くしているからなのです。伝道は、たんにメッセージを伝えるだけのものではなく、聞く人の心を固くしているものとの霊的な戦いでもあるのです。
使徒パウロはコリント人への手紙第一に「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。」(コリント第一15:31-32)と書いています。パウロは二年三ヶ月にわたってエペソで伝道しましたが(使徒19:9-10)、そのエペソで「獣と戦った」と言っています。ここでいう「獣」はライオンや狼などといった実際の動物のことではなく、悪魔や悪霊のことです。エペソの町にはアルテミスの大神殿があり、そこは「悪霊の住処」と呼ばれていました。エペソでは、パウロは多くの人々から悪霊を追い出しています。エペソの町に大勢いた魔法使いもパウロの伝道によって、キリストを信じるようになり、魔術の本を持ち出してそれを焼き捨てました。アルテミス大神殿の門前町でこのような伝道がなされ、人々がキリストを信じるようになるためには、どんなにか激しい悪霊との戦いがあったことか容易に想像できます。パウロはこの伝道の戦い、霊の戦いを「エペソで獣と戦った」ということばで描写したのです。
パウロがエペソで伝道したのは紀元56から58年にかけてであり、ローマに幽閉された紀元61年あるいは62年ですから、エペソ人への手紙が書かれたのは、パウロのエペソでの伝道から三、四年しか経っていない時でした。パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)と書いたのは、たんなる言葉だけのことではありませんでした。パウロは実際に血みどろになって、取っ組み合いの格闘をしました。彼はその生々しい体験からこのことばを書いたのです。このことばは、アルテミス大神殿のおひざもとにいて霊の戦いのただ中にいたエペソのクリスチャンのためになくてならないものでした。「霊の戦い」の教えは、決して現代に通用しない教えではありません。今日の私たちも、実際は、エペソのクリスチャンと変わらない霊的な戦いの中にあるのです。今は、まだ良く理解できなくても、実感が湧かなくても、信仰の成長を求め、本気で伝道していくなら、かならず、そうした戦いを目の当たりにする時がやってきます。ここで教えられていることをしっかりと学んでおきましょう。兵士は、平和な時もドリルを欠かしません。そのように、私たちも、霊の戦い、信仰の戦いに備えていましょう。
二、霊の戦いの備え
聖書は、霊の戦いへの備えを六つの武具で表わしています。六つの武具についてはすでに学びましたので繰り返しませんが、これらの武具について、覚えおきたいことが二つあります。
それは、この神の武具は、敵に立ち向かうときはじめて役に立つということです。六つの武具をよく観察してみると、どれも、正面を守るものばかりで、背後を守るものはありません。胸当てはあっても「背当て」はありませんから敵に背を向けたら、たちまち火の矢が背中にささります。大盾は、正面に構えるものであって、敵から逃げ出したなら、大きなものだけに、邪魔になるだけで、何の役にも立ちません。これらの武具はすべて、しっかりと敵に向かう時だけ力を発揮します。ですから聖書は言います。「ですから神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ2:7)
悪魔は、私たちの弱さを知り、私たちよりも大きな力を持っていますから、自分の力で彼に立ち向かおうとしても、悪魔にあざ笑われるだけです。悪魔は大きな力を持っていますから、私たちは自分の力で彼に立ち向かうことはできません。しかし、悪魔は全知全能ではありません。神の武具には彼の知らない大きな力があるのです。悪魔は、私たちが彼に立ち向かう姿を見て、最初は私たちをあざ笑うでしょう。しかし、私たちが身に着けている武具、手にして武具を見るとき、それが神の武具であることを知って、逃げ出すのです。私たち自身は弱くても、神の武具には力があります。自分の力ではなく、神の武具の力に寄り頼み、悪魔に立ち向かうなら、彼は尻尾をまいて逃げ出すのです。神の武具を受け取ったなら、それを悪魔に向かって押し立て、振りかざしましょう。悪魔に背を向けてはいけません。悪魔に立ち向かうのです。「そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去」るのです。
もうひとつのことは、この六つの武具は、すべて身につけ、手にする必要があるということです。エペソ6:13に「神のすべての武具をとりなさい。」とあります。「すべての武具」と言われているように、霊の戦いには六つの武具すべてが必要なのです。神の武具は六つでワンセットになっています。真理の帯はつけたけれど、正義の胸当てはつけない、福音の備えはあるが信仰の大盾はない、救いのかぶとは持っているが、御霊の剣は持っていないということがないでしょうか。私たちは、「神のすべての武具」を身につけ、手にしているでしょうか。どこか欠けているところがあると、サタンはそこを狙ってきます。身につけていないものはないだろうか、取り忘れている武具がないだろうかと、もう一度、自分を点検しみましょう。
三、霊の戦いの戦場
では、神の武具を身に着け、手にした兵士は次に何をするのでしょうか。18節に「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」とあるように、祈るのです。では、クリスチャンは祈るだけで、せっかく手にした信仰の大盾を使わないのでしょうか。救いのかぶとや御霊の剣も脇においておくだけなのでしょうか。いいえ、そうではありません。六つの武具は祈りの中で使うのです。エペソ人への手紙6章は、10−12節で「霊の戦い」を教え、13−17節で「霊の戦いのための備え」を教えていましたが、18節では「霊の戦いの戦場」を教えています。霊の戦いが行われるのは「祈り」においてであるというのです。クリスチャンは祈りの中で霊の戦いを戦い、祈りの中でサタンに立ち向かいます。六つの武具は祈りのための身支度でもあり、祈りのための武具でもあるのです。「祈る」ことが霊の戦いを戦うことであり、クリスチャンは祈ることによってサタンに立ち向かうのです。主イエスは、荒野での断食の祈りの中で、またゲツセマネの園での血の汗を流しての祈りによってサタンと戦い、勝利を収められました。使徒パウロが経験したエペソでの悪霊との戦いもまた、祈りによるものだったことでしょう。歴史を見ますと、多くの聖徒たちは祈りの中で霊の戦いをし、そして、勝利してきました。
では、霊の戦いの祈りとはどんな祈りなのでしょうか。それは普段の祈りと違っているのでしょうか。18節を読む限りにおいては、そこには、断食して祈るとか、夜を徹して祈るとか、あるいは、大声で祈るとか、大勢で祈るなどいった特別な指示はありません。むしろ、「絶えず…祈りなさい。」とあって、日々の祈りの大切さが強調されています。時と場合によって、私たちには断食の祈りや、日常から離れて時間をかけて祈ることなどが必要になってきます。そういう祈りを信仰の生涯の中で一度も体験したことがないというのは、残念なことです。しかし、そうした特別な祈りが力となるのは、普段の祈りが積み重ねられていればこそです。そうでないと、特別な祈りの時に何をどう祈ってよいかわからず、それを無駄にしてしまうことがあります。「絶えず…祈りなさい。」日々の祈りを大切にしましょう。
つぎに、18節には、「御霊によって祈りなさい。」とあります。聖書にあるように、御霊は、私たちがどう祈って良いか分からないときも、私たちの祈りを導いてくださるお方です。あまりにつらいことに出会うとき、祈らなければならないと分かっていても祈れないというないという体験をすることがあります。そのような時にこそ、聖霊が助けてくださいますから、とにかく、口を開いて、神を呼ぶことです。「神さま、私は、祈れません。」というのも、立派な祈りです。不思議なことに、後は、聖霊が祈りを導いてくださるのです。
また、「御霊によって祈る」ことによって、私たちは習慣的な、決まりきった祈りから、さらに深い祈りへと導かれます。日々の祈りが習慣になることは良いことです。多くのクリスチャンが毎日、同じ時間に、同じ場所で祈る習慣を持っています。そのように祈りが生活の一部になることは勧められこそすれ、決して悪いことではありません。しかし、祈りの中身が習慣的なものになるのは、良いことではありません。神の恵みは日々新しく、また、毎日読む聖書の箇所も、それぞれに違っていて、新しく教えられることでしょう。神は私たちにあるときは賛美を、あるときは悔い改めを、あるときは信頼を、あるときは献身を要求されます。なのに、毎日、「家内安全」、「無病息災」、「商売繁盛」などといった決まりきったことを習慣的に繰り返すだけというのは、決して「御霊によって」祈っているとは言えません。御霊は私たちの心の奥深いところに触れてくださるお方ですから、御霊に導かれる祈りは、心からの祈りとなるのです。私は、たとえ、義務的に祈りはじめたとしても、聖霊が働いて、思っても見なかった神への悔い改めのことばや、賛美のことばが自分の口から出てくるのを体験することが多くあります。
私たちは、祈るとき、必ずといってよいほど、「天のお父さま」「父なる神さま」と呼びかけ、「主イエスのお名前で祈ります。」と祈りを結びます。祈りを聞いてくださる「父なる神」を思うこと、私たちの祈りを父なる神に届けてくださる「主イエス」を覚えることは、祈りにおいて無くてならないことです。しかし、もう一人のお方を忘れてはなります。私たちに祈る力を与え、私たちの祈りを導いてくださる聖霊です。祈るとき、聖霊を覚えましょう。私たちは「聖霊によって、父なる神に、主イエスのお名前を通して祈る」のです。そのような祈りが、そのような祈りだけが、霊の戦いに勝利を得させる祈りなのです。
最後に、「すべての聖徒のために」ということばを心に留めておきましょう。「すべての聖徒のために」ということばは、霊の戦いが決して、一対一の戦いではなく、すべての聖徒たちが共に、悪魔の軍勢に立ち向かうべきものであることを教えています。ですから、クリスチャンは、心をひとつにして祈るのです。使徒ペテロが捕まえられ、牢に閉じ込められたとき、教会は心をひとつにして祈りました。その祈りは神に届き、ペテロは天使によって牢から救い出されました。迫害の中にあった初代教会のクリスチャンは、互いに互いの祈りを必要とし、それを実行してきました。
教会の全員のために祈ることができなくても、すくなくても、自分のかかわりのあるグループのメンバーのためには日々祈りましょう。各グループのリーダは、自分たちの集会の企画や運営のために心を砕いてくれていると思いますが、それとともに、メンバーのために祈ってください。リーダの第一のつとめは祈りです。
共に集まって祈ることが理想ですが、たとえ共に集まることができなくても、互いのために祈り合うなら、それは大きな力になります。連鎖祈祷で同じ日に祈りを集中することは、大変大事なことです。霊的な世界では、それは大きな力となるのです。霊の戦い、祈りの戦いはひとりでは戦い抜くことができません。他のクリスチャンから祈られ、また、戦いのただ中にある他の人々のために祈り、共に、この戦いを戦い抜きましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、聖書によって霊の戦いが現実のものであることを私たちに示してくださいました。私たちは、この戦いを避けようとする臆病な者たちですので、どうぞ、あなたの勝利を示し、私たちを励ましてください。あなたが備えてくださった武具によって私たちをお守りください。そして、お互いがこの戦いをともに戦い抜く者たちであることを覚え、もっとお互いのために祈る者としてください。御霊により、あなたと共に栄光のうちにおられる主イエスのお名前で祈ります。
7/15/2007