御霊の剣

エペソ6:17

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6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

 使徒パウロはエペソ人への手紙を書いたとき、ローマにいました。彼はその時、ある場所に閉じ込められていました。訪ねてくる人たちに会うことや、差し入れを受け取ることは許されていました。もちろん、検閲はあったでしょうが、手紙のやりとりをする自由もありました。しかし、パウロは鎖でつながれ、そこから一歩も出ることは許されませんでした。ローマ兵が四六時中、パウロのそばにいました。それは未決の囚人であるパウロを監視するだけではなく、ローマの市民権を持っていたパウロを保護するためでもあったのです。それでパウロはローマの兵士が出入りするのを見ながら日々を過ごしたことでしょう。それで、パウロは、キリストの兵士としてのクリスチャンの姿を描くとき、ローマの兵士の姿になぞらえて描くよう導かれたのでしょう。パウロがあげた六つの武具は、そのどれもが、当時のローマ兵が身に着け、手にしていたものでした。最初の三つの武具は、身に着けるもので、「真理の帯」、「正義の胸当て」、そして「福音の靴」でした。残りの三つは手に取るもので「信仰の大盾」、「救いのかぶと」、そして「御霊の剣」です。

 先週は、「信仰の大盾」について学びました。その時、「当時の大盾は幅が2フィート半、高さが4フィートあった」と話しましたが、私は、そう話しながら、この講壇がちょうどそのくらいの大きさかなと思っていました。あとで寸法を測ってみましたら、この講壇は幅が3フィート、高さが3フィート4インチでした。また、講壇の後ろにしゃがんでみましたが、頭が少しはみ出しました。この講壇は、大盾よりも少し幅がひろく、高さがすこし足らないことが分かりました。そして、もうひとつ分かったことは、全身をおおってくれる大盾があったとしても、やはり頭に「かぶと」をかぶらなければならないということでした。「かぶと」がなければ、前を見ようとして少し頭を持ち上げただけで、頭に火の矢が飛んできます。聖書が、「信仰の大盾」の次に「救いのかぶと」を手にとり、それを頭にかぶるように教えていることも良くわかりました。

 一、救いのかぶと

 当時のローマ兵士のかぶとは皮でできていて、その上に金属の板を貼り付けたものでした。また、そこには飾りがついていました。その飾りは兵士の位によって違っていて、それによって誰が指揮官なのかがすぐわかるようになっていました。かぶとは頭を守るものであると同時に、それをかぶる人の地位を表わすものでした。

 クリスチャンにとっての「救いのかぶと」もそうです。イザヤ61:10に「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」とあります。古代には、服装は身分を表わすものでした。王族や貴族と平民では服装に違いがありました。王族、貴族は決して貧しい身なりをしてはならず、平民は豪華な服を身に着けることは許されませんでした。しかし、平民が身を飾ることを許されるただひとつの日がありました。それは結婚式の日です。そのとき花婿も花嫁も、まるで王族、貴族のように身を飾ることができたのです。そのなごりは、現代の結婚式にも見られます。結婚式のとき花婿はタキシードを着、花嫁はウェディングドレスに身を包みます。参列する者たちもドレスアップします。イザヤ61:10は神の救いを描いている箇所で、神は、救われた者を、結婚式の花婿、花嫁のように冠と宝石で飾ってくださると言っています。結婚式の場合はドレスを着るのは当日だけですが、神が救われたものに与えてくださる「救いの衣」は、永遠に、救われた者を包むのです。神は、救われた者を、神の子どもにしてくださいました。王の王、主の主であるお方の王子たちとし、王女たちにしてくださったのです。ですから、王子が着る服、王女が着る服を与え、その頭に王子のしるしである「栄冠」をかぶせてくださるのです。キリストの兵士に授けられる「救いのかぶと」とはこの救いの栄冠なのです。

 あなたは、この「救いのかぶと」を神から授けられているでしょうか。それを受け取っているでしょうか。自分が神の子どもとされていることを、日々感謝し、そのことに励まされて生きているでしょうか。クリスチャンもまた、さまざまなことで落ち込んだり、自信をなくしたりします。しかし、自分が神の子どもとされているということをはっきりと自覚している人は、それによってそこから立ち上がることができます。たとえ、人から見下されたとしても、自分で自分を駄目だと思うようなことがあっても、健全なセルフエスティームに立ち返ることができます。多くの人は、人に認められてようとして必死に努力し、それによってセルフエスティームを保とうとして、疲れ果てたり、自分を人の目に良く見せようとして自分を偽るようになり、平安を失っています。しかし、神の子どもとされる値打ちなど何ひとつない自分が、ただ神の恵みによって神の子どもとされたということを、確信している人は、セルフエスティームを保つための無駄な努力から解放されます。罪を悔い改め、謙虚な心で、神の子の身分をあらわす「救いのかぶと」を受け取る人はさいわいです。

 「神の救いを喜ぶこと」、これが「救いのかぶと」の第一の意味ですが、「救いのかぶと」にはもうひとつの意味があります。それは、「神の救いを待ち望む」ということです。ローマ13:11-12に「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼がちかづきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」とあります。ここには「光の武具を着けて近づいている神の救いを待ち望みなさい」と教えられています。「救いが近づいている」というのは、イエス・キリストの再臨のことです。救いには、「過去・現在・未来」の三つの面があります。自分の罪を悔い改めてキリストを信じた者はすでに罪のさばきから救われました。これが救いの過去です。この世にはなお罪と悪とがありますから、罪赦された者も、その罪と戦わなくてはなりません。そして、キリストを信じる信仰は、私たちを罪の力から日々救うのです。これが救いの現在です。神の救いは、過去と現在に働くものですが、それだけで終わりません。神は、やがてすべての悪を滅ぼし、私たちとこの世界を罪の存在そのものから救い出してくださるのです。クリスチャンは過去に救われただけでなく、今も救われ続けており、やがて将来に完全に救われるのです。

 ですからクリスチャンの信仰の生活は、ジョン・バニヤンが『天路歴程』(Pirgrims Progress)に書いたように、滅びの町から出て天国に向かう旅なのです。キリストを信じた者は救われています。しかし、救われてしまって何もすることがないのではありません。まことのクリスチャンの国籍はすでに天にあります。しかし、クリスチャンはまだ天にたどりついていません。クリスチャンは神の民です。しかし、地上では旅人であり、寄留者です。クリスチャンは上にあるもの、つまり天のふるさとを目指す旅人なのです。クリスチャンはやがて来るものを待ち望んで、今の苦しみに耐え、困難を乗り越えていきます。「救いのかぶと」は、このように将来の救いの完成を待ち望むことを意味します。

 「待ち望む」といってもぼんやりと、ただ時が来るのを待っているとうのではありません。救いの完成にあずかることができるために、自分の罪を悔い改め、身を慎み、地上のものを離れ、自らをきよめていくのです。やがて、顔と顔とを合わせて聖なるお方に会う日がやってきます。その日のために備えるのです。テサロニケ第一5:8に「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」とあります。聖書は「救いのかぶと」とは、神の最終的な救いを待ち望むことであると教えています。私たちは誰も、希望なしに生きることはできません。救いの完成の希望を持たないでクリスチャンとして生きることはできません。あなたはクリスチャンとして、この希望に生きていますか。「救いのかぶと」を手にしていますか。

 二、御霊の剣

 さて、六番目の武具、「御霊の剣」に進みましょう。エペソ6:17に「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」とあるとおり、「御霊の剣」とは「神のことば」のことです。ヘブル4:12に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。また、ヨハネの黙示録では、イエス・キリストはその口から鋭い両刃の剣が出ているお方として描かれています(黙示録4:12)。聖書研究のソフトウェアに SWORD というのがあります。「みことば」(WORD)に "S" をつけると "SWORD"(剣) になることから、名づけられたものです。 "WORD"(神のことば)が "SWORD"(御霊の剣)になるというのは、英語だけに通用する語呂合わせですが、なかなかおもしろく、覚えやすいので、皆さんもそのように覚えると良いと思います。

 私たちはこの御霊の剣をどのように使えば良いのでしょうか。主イエスご自身が神のことばを御霊の剣として使っておられる箇所がありますので、そこから学びましょう。それはマタイの福音書4章です。イエスは、ヨハネからバプテスマを受けたあと、四十日間、荒野で断食し、公の働きのための準備をしておられました。四十日が終わろうとした時、悪魔がイエスに近づきました。聖書を読むと、悪魔はイエスに対して敵意をむき出しにしてやってきたとは書かれていません。イエスが世に出ようとするのを助けてあげよう、その働きにアドバイスを与えてあげようといわんばかりに、いかにも親切ぶってイエスに近づいています。ユダヤの国では年長者は尊敬されましたので、まだ三十代の若いイエスの指南役を買って出た親切な知恵深い年長者のような姿でサタンは現れています。しかし、サタンの狙いはイエスのみわざを間違った方向に曲げてしまおうとすることだったのです。

 四十日の断食を終えて空腹を感じたイエスに、悪魔は「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言いました。これは、「パンを得てまず自分の空腹を満たしなさい。そして、人々にパンを与えて、人々の空腹を満たしてあげなさい。世界には飢えた人々が大勢いる。まず彼らの胃袋を満たしてあげなければ、あなたがどんなに神の国のことを語っても人々は耳を傾けはしない。まず人々の必要を満たすことが先決なのではないか。神の子としての力をそのために使ったらどうか。」という誘惑でした。これに対してイエスは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と答えました。イエスは肉体のいのちをささえる糧ではなく、永遠のいのちを与える糧を優先されました。人々の表面の必要を満たすことではなく、たましいの奥深い必要を満たすことを目指されたのです。もちろんイエスは、食べるものがなく、飢えている人々がそのままでいて良いとは言ってはおられません。四十日の断食で極度の空腹を体験されたイエスが飢えた人の必要を知らないわけがありません。イエスご自身が五千人もの群集にパンを与えておられますし、必要な人々に食べ物を分け与えるようにと弟子たちに教え、教会はそのことに励んできました。今も多くのクリスチャンの慈善団体がそのことに取り組んでいます。けれども、イエスは人々がパンのためだけにご自分のもとに来ることを嫌われました。その時には、姿を隠してしまわれました。パンのために神のことばがないがしろにされることをイエスはよく知っておられたので、この誘惑を退けられたのです。しかも、イエスは、それを聖書のことばによって退けました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」「…と書いてある。」というのは、最終的、決定的な答でした。

 第二の誘惑は、センセーショナルなことをして、人々をあっと言わせたらどうかというものです。悪魔は、イエスを神殿の頂に立たせ、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」とそそのかしました。この時、悪魔も聖書を引用して、「『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」と言いました。しかし、この聖書の引用のしかたは正しくはありません。「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。」というのは、詩篇91:11-12にある言葉ですが、そこには「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」とあります。ここで「すべての道で」とある「道」は詩篇1:1にあるように「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない」こと、神に従う歩みを意味します。神から離れてとんでもないわき道にそれたり、道も何もない空中に身を投げるようにとは、聖書は教えていないのです。それで、イエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」と答えてこの誘惑をも退けました。

 第三に、悪魔はイエスに、この世のすべての国々とその栄華を見せ、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言ってイエスを誘惑しました。「世の中はきれいごとだけでは動かない。悪だって必要な時がある。神のことばだけで何ができるというのか、小さなユダヤではなく、ローマで、エジプトで、インドで、中国で、世界を相手に活躍したらどうか。私と手を組めばそのことができるのだ。」というのが、サタンの誘いでした。これに対するイエスの答えも、神のことばによるものでした。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」マタイの福音書は、「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」(マタイ4:11)と書いています。神のことばは剣です。みことばの剣には、クリスチャンを守り、サタンを退ける力があるのです。

 みなさんは、このみことばの剣を持っていますか。それは、よく手入れが行き届いて、切れ味の鋭いものでしょうか。みことばの剣が、長い間使わないためさびついたり、歯が欠けたままになっているということはないでしょうか。昔、金に困った武士は、刀を売って、その代わりに竹でできた刀をさしました。それを「竹光」というのですが、みなさんの持っているみことばの剣が竹光では、霊の戦いには役に立ちません。あなたは、聖書を神のことばと信じ、確信していますか。本物の剣を持っていますか。

 また、どんなに立派な刀を持っていても、それを使いこなせなければ、芸術品としての値打ちはあっても、武具としては役にたちません。私たちはみな聖書を持っています。一冊ばかりでなく、何冊も持っているでしょう。しかし、この聖書を、自分の信仰の成長のために、また、他の人の信仰を助けるために、自在に使いこなすことができるでしょうか。神のことばは飾り物ではありません。実際に使ってこそ意味があります。

 では、どのようにしてみことばの剣を使うのでしょうか。それを学ぶのが教会です。礼拝でみことばのメッセージを聞くことによって、クラスで学ぶことによって、また、互いにみことばの体験をあかししあうことによって、私たちは、みことばの剣道を身につけていきます。教会という道場で、基礎から一歩一歩積み重ね、「聖霊流みことばの太刀」を学んでいきましょう。サタンも聖書を使いますから、それにあざむかれないように聖書を正しく学びましょう。イエスが聖書を引用して「…と書いてある。」と言われたように、私たちも、聖書を絶対のものとして受け入れましょう。それがみことばを御霊の剣とする第一歩です。みことばの権威を信じ、御霊の剣を手にとりましょう。それによって私たちは信仰の戦いを戦い抜き、霊の戦いに勝利を得ることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、みことばによってサタンに勝利された主イエスのように、私たちも、みことばによって、何が真実であり、何が見せかけであるかを見分けることができるよう導いてください。そして、誘惑を退け、霊の戦いに勝利することができるよう助けてください。今週も、信仰の戦いを戦う私たちに、「救いのかぶと」と「御霊の剣」を授けてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/8/2007