聖霊の剣

エペソ6:14-17

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6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

 明日は「メモリアル・デー」です。メモリアル・デーは「戦没将兵追悼記念日」と訳されるように、戦争で亡くなった兵士を記念するもので、もともとは、南北戦争の後、北軍の戦没兵士の墓を飾る「デコレーション・デー」から始まりました。「デコレーション・デー」は5月30日に祝われましたが、北軍から始まったものだったため、南部では浸透しませんでした。しかし、第一次世界大戦には南部の人々が多く従軍したため、この日はやがて南部でも守られるようになりました。ジョンソン大統領の時に成立し、ニクソン大統領の時に施行された「休日統一法」によって、5月30日の祝日は、5月最終月曜日となりました。

 今ではこの日は、兵役中に亡くなった人たちのためばかりでなく、故人すべてを記念する日になりました。メモリアル・デーの前日の日曜日には、その年に亡くなった人々の名前が読み上げられ、それらの人々を偲んで礼拝を持つ教会も多くあります。

 私は、カリフォルニアにいた頃、毎年、墓地で行われた日系アメリカ兵士と日系人先駆者の記念式典で役割を担ってきました。メモリアル・デーの式典では、儀仗兵が数多く見られました。この日は、兵士や退役された方々がそれぞれに服装を整えて式典に来られました。そうした姿を見るのは気持ちの良いものでした。

 一、兵士の身支度

 聖書は、クリスチャンを「キリストの兵士」(テモテ第二2:3-4)と呼んでおり、きょうの箇所では、キリストの兵士としての身支度をするよう教えられています。消防士は火災の現場に向かうとき必ず特別なスーツを着、ブーツを履きます。Tシャツにショーツ、サンダル履きでは、燃え盛る火と闘う前に自分が火傷をしてしまいます。同じように、クリスチャンも、霊的な戦いをする前に、きちんとした身支度をしていなければなりません。エペソ人への手紙を書いたとき、パウロは投獄され、ローマの兵士たちに監視されていました。パウロはそんな兵士たちの服装を観察しながら、この箇所を書いたのだろうと思います。

 兵士の身支度の第一は「真理の帯」です。ローマ兵士の帯は丈夫な革のベルトでした。そこには短剣をさしたり、兵糧や水筒をつけます。どれも、自分の命を守り支える大切なものですが、そうしたものを手に持っていたのでは、両手がふさがって戦うことができません。そうしたものはベルトにつけておくのです。ベルトは腰に巻きます。「腰」は漢字で「身体の要」と書くように、身体の動きの中心的な部分です。ですから「腰には真理の帯を締め」というのは、神の言葉に示された真理を行動の原理、原則とすることを意味します。

 身支度の第二は「正義の胸当て」です。これは、心臓や肺臓など、からだの大切な臓器を守るものです。古代から胸や腹は心や感情が宿るところとされてきました。今でも “heart” という言葉は、「心臓」と「心」の両方に使います。「胸が痛む」といえば悲しみを、「はらわたが煮えくり返る」といえば、激しい怒りを表したりします。「真理の帯」が理性にかかわるとすれば、「正義の胸当て」は、感情にかかわるものです。

 誰にとっても感情を守ることはとても大切なことです。怖れ、不安、孤独などの感情に支配されると、自分に与えられた良いものを活かせず、肯定的、積極的、前向きに生きていけなくなります。チャンスがあっても迷ってしまいそれを逃してしまいす。苦しいことがあったら、それにチャレンジしようとせず、逃げ出すことを先に考えてしまいます。頭ではそうであってはいけないと分かっていても、感情が伴わないのです。また、ねたみや憎しみ、怒りの感情に支配されてしまうと、正しい人間関係を持てなくなってしまいます。

 知性の面で優れていても、感情的に成長していない人は、自然や芸術を楽しみ、心の世界を理解することができません。IQ は “Intelligent Quotient” の略で、それが高い人ほど能力があるとされていますが、実際の生活や仕事ではそうではありません。今では、IQ よりも、EQ(Emotional Quotient)といって、自分を受け入れる能力、自分を表現する能力、人との関係を築く能力、物事を決断する能力、ストレスを処理する能力が問われるようになりました。

 「正義の胸当て」の「正義」ですが、「正」は物事の正しさを意味します。たとえば、三つの辺が同じ長さの三角形を「正三角形」というような場合です。けれども「義」のほうは人格と人格の関係が正しいことを意味します。ですから、聖書では神との正しい関係を「義」と言い、人間関係でも「義務を果たす」、「義理を通す」と言います。ですから、「正義の胸当てを着ける」とは、私たちの思い、心、感情が、まず神との関係で正しいものとなり、続いて人との関係でも正しいものになることを意味しています。

 第三の身支度は履物です。今は、兵士たちはブーツを履きますが、古代のローマ兵はサンダルを履きました。川を渡るとき、足を濡らしてもすぐに乾かせるためでした。「サンダル」とはいっても、ビーチ・サンダルのようなものではありません。丈夫な革でできており、脱げないようにしっかりと足にしばりつける紐もついています。

 この履物が「平和の福音の備え」といわれているのは、イザヤ52:7から来ています。「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」古代には、戦争のとき、人々は戦場での結果を伝える伝令が到着するのを固唾を呑んで待ちました。そして、「勝利」や「平和」を告げる伝令が走ってくると、歓声を上げて迎えました。イエスは罪と死に勝利され、神の平和がもたらされました。ですから福音は「平和の福音」と呼ばれます。クリスチャンはこの福音を伝える備えをいつでもしていなければならないのです。

 二、兵士の防具

 兵士は身支度ができたら兵器の倉庫に行って、二つの防具と一つの武具を受け取ります。まずは、「盾」です。これは、何枚もの薄い板を重ね、表面を動物の革で覆ったものです。実際に使う時には、盾を水に浸して革に水分を含ませます。重くはなりますが、それによって敵が打ち込んでくる火の矢を防ぐことができます。当時の火矢は、鏃(やじり)にタールを付け、それを燃やしたものでした。火矢は、相手を傷つけ、火傷を負わせるだけでなく、闇夜に飛び交うと相手に大きな恐怖心を与えることもできました。この矢は兵士が身に着けている胸当てでは防ぎきれません。盾で全身をカバーしなければなりませんでした。

 これが「信仰の盾」と言われているのは、神が私たちの「盾」となって私たちを守ってくださるからです。聖書には、「主はわが巌 わが砦 わが救い主/身を避けるわが岩 わが神。/わが盾 わが救いの角 わがやぐら」(詩篇18:2)といった言葉が繰り返し出てきます。詩篇94:4-5にはこうあります。「主は ご自分の羽であなたをおおい/あなたは その翼の下に身を避ける。/主の真実は大盾 また砦。あなたは恐れない。/夜襲の恐怖も 昼に飛び来る矢も。」「信仰の盾」を受け取るとは、真実な神に信頼して、神のもとに身を寄せることを意味します。

 もう一つの防具は「救いのかぶと」です。盾は身体をすっぽり覆ってくれますが、前を見るために少し首を伸ばすと、頭をやられてしまいます。「かぶと」は頭を守るのになくてならないものです。また、ローマ軍の「かぶと」のてっぺんには房がついていて、その形によって兵士の所属や階級を表しました。軍隊の「かぶと」は、王室の「王冠」に相当し、それをかぶる者の地位や身分を表したのです。

 王は冠をかぶり、王族は勲章を身につけ、女性であればティアラという髪飾りをつけます。古代では、一般庶民は、王族のような衣服を身につけることを禁じられていましたが、例外がありました。それは婚礼です。婚礼の時だけは、花婿も花嫁も身を飾ることを許されたのです。それで、イザヤ61:10にこうあります。「私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」神は、ご自分の御子イエス・キリストを信じる者を救い、ご自分の子どもとしてくださいました。いわば、天の王の王子、王女とされ、ロイヤル・ファミリーの一員とされたのです。私たちが受け取る「救いのかぶと」は、神が信じる者にお与えくださった神の子どもとしての身分です。神は、私たちの敵に対して、「これはわたしの子どもだ。おまえたちは手を触れてはならない。わたしが彼らを守る」と言って、神の子どもたちを守ってくださるのです。

 三、兵士の武具

 今まで三つの身支度、二つの防具を見てきました。腰には「真理の帯」、胸には「正義の胸当て」、足には「平和の福音の備え」、全身には「信仰の盾」、そして、頭には「救いのかぶと」でした。最後は、「御霊の剣」、つまり、「神の言葉」です。最初の五つはもっぱら身を守るものでしたが、最後の「剣」は、身を守るだけでなく、敵に向かって攻撃できるものです。イエスは、神の言葉によって、悪魔の誘惑を退け、それに勝利しておられます。私たちも神の言葉で立ち向かうとき、そこには、必ず勝利があるのです。

 しかし、「御霊の剣」がどんなに力あるものでも、それを使いこなせなかったら、役に立ちません。神の言葉である聖書は、いつも、読み、学び、実践していなければ、いざというときに役に立たないのです。どんなに立派な剣を持っていても、手入れをしないために錆びついて鞘(さや)から抜けなくなったり、ましてや、竹光(たけみつ)に替えてしまったりしては、自分の身さえ守れなくなってしまいます。

 神の言葉が「御霊の剣」と言われるのは、神が聖霊によって私たちにご自分の言葉を示されたからです。また、神の言葉が書物となって残り、今にまで伝えられ、誰もが読むことができるようにしてくださったのも聖霊だからです。さらに、聖書を分からせ、実行する力を与えてくださるのも、聖霊です。エペソ1:17-19にパウロの祈りがあります。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」私たちも聖書を開くたびに、「聖霊なる神さま、私の心の目を開いて、与えられている希望、やがて受ける栄光、また、今、働くあなたの力を、私に示してください」と祈り、聖書を理解し、信じ、そこに約束されているものを受け取りたいと思います。

 キリストの兵士としてふさわしい身支度をし、信仰と救いの防具を受け取り、人生の戦いに勝利していくために、聖霊がくださる御言葉の剣を手にし、それを用いることができる者でありたいと願います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちを「キリストの兵士」とし、「信仰の戦い」に招集してくださいました。私たちは、この戦いで、どのように自分の役割を果たし、戦えばいいのか分からないものです。主の軍勢の指揮官であるイエス・キリストに従い、聖霊によって戦い抜く者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/25/2025