6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
きょうの箇所に書かれているのは、古代ローマ兵士の姿です。パウロはこの手紙を書いたとき、裁判を待つ2年の間、軟禁状態にありました。ローマ兵士が四六時中彼を見張っていました。パウロはそうしたローマ兵士の姿にヒントを得て、この箇所を書いたと思われます。
一、兵士の身支度
最初に兵士の身支度を見ましょう。消防士は英語で “Firefighter” と言いますが、燃え盛る火と戦い、炎の中に取り残された人を救い出すのに、まさかアロハシャツにショーツ、ビーチサンダルという姿で出動できるわけがありません。身を守るためのさまざまなものを身に着けます。同じように、信仰の戦いに臨むキリスト者や人生の戦いの中にある人々には、ふさわしい身支度が必要です。それは14、15節に書かれれています。
まず第一に「腰には真理の帯」です。「腰」は「月(からだ)の要(かなめ)」と書くように、運動機能の中心部分です。そこに「真理」の帯を巻くというのは、私たちの行動の基準が真理に基づき、真理に導かれるものであるようにということです。
「真理」はしばしば隠されることがあります。権力者たちがメディアを使って、自分たちに都合のよいことだけを広め、都合の悪い事柄を隠そうとします。同じようなことは、社会だけでなく、私たちの心の中でも起こります。「神がおられ、神を求める者に報いてくださる」(ヘブル11:6)という真理が見えなくなってしまうことがあります。突然、思ってもみないことが起こったり、ものごとが思い通りに行かないことに、私たちは出会います。それがたった一つや二つのこと、一回や二回だけであっても、これから先、何もかもがうまくいかないと思い込んでしまうことがあります。そして、失望、落胆し、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう」(詩篇50:15)との神の言葉を忘れてしまうのです。「真理」が隠されたら、また、それが見えなくなったら、私たちは行動の基準を失い、人生の勝利を得ることができません。
次は「胸には正義の胸当て」です。「胸当て」は大切な心臓と肺臓を守ります。また心臓は “Heart” と言って「心」を表します。心に「正義」がなければ、とりわけ、神を恐れるその人の人生の戦いには、本当の勝利はありません。
第三は「足には平和の福音の備え」です。兵士にはさまざまな役割があります。皆が武器をとって戦うわけではありません。「伝令」も兵士の大切な務めで、通信手段の乏しかった古代にはとくにそうでした。伝令は遠くの戦場で起こったことを本営に伝えました。紀元前450年、ギリシャのマラトンでアテネ軍がペルシャの遠征軍を退けました。このときフィディピディスという兵士が、マラトンからアテネまで42.195 Km の道を駆け抜け、「我勝てり」と告げました。ここから「マラソン」という陸上競技が生まれました。アテネの伝令が伝えた「我勝てり」という勝利の宣言は「エウアンゲリオン」(良い知らせ)と言われますが、聖書のこの箇所では「福音」と訳されています。しかも、それは「平和の福音」です。伝令が伝えるメッセージには「勝利」と「敗北」と「和睦」の三つがありました。聖書が伝える福音は、神が、神に敵対していた私たちと和解してくださり、平和をもたらしてくださったという「和睦」・「和解」の知らせです。「足には平和の福音の備えをはきなさい」とは、いつでも、福音を語り、証しできるよう準備をしておきなさいということなのです。
二、兵士の防具
次に二つの防具を見ましょう。まずは、「信仰の大盾」です。ギリシャ語の「大盾」という言葉は「ドア」という言葉から出たものです。当時の大盾は幅2フィート半(30インチ)、高さが4フィート(48インチ)で、実際のドアより低いですが、その高さでも、身体をかがめれば十分に出入りできます。日本の茶室の「躙り口」(にじりぐち)よりは大きくできています。この大盾は木材を何枚もの薄い板にし、それを組み合わせ、表面を動物の革で覆ったものでした。実際に使う時には、大盾を水に浸して革に水分を含ませます。重くはなりますが、それによって敵が打ち込んでくる火の矢を防いだのです。
当時の火矢は、鏃(やじり)にタールを付け、それを燃やしたものです。火矢によって相手を傷つけるだけでなく、火傷を負わせることができる強力なものでした。とりわけ、闇夜に飛び交う火の矢は相手に大きな恐怖心を与える効果もありました。この矢は兵士が身に着けている胸当てでは防ぎきれません。それで大盾によって全身をカバーしなければならなかったのです。
これが「信仰の大盾」と言われているのは、神がより頼む者の「盾」であり、私たちが神により頼むとき、敵の火矢から守られるからです。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」(詩篇18:30)「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」(詩篇84:11)「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」(詩篇91:4)このような言葉は聖書に何度も繰り返されています。「信仰の大盾」を受け取るとは、神に信頼して、神のもとに身を寄せることなのです。
もう一つの防具は「救いのかぶと」です。大盾は身体をすっぽり覆ってくれますが、前を見るために少し首を伸ばすと、頭をやられてしまいます。「かぶと」は頭を守るのになくてならないものです。また、ローマ軍の「かぶと」のてっぺんには房がついていますが、その形によって兵士の所属や階級を表しました。「軍隊の「かぶと」は、王室の「王冠」に相当し、それをかぶる者の地位や身分を表したのです。
王は冠をかぶり、王族は勲章を身につけ、女性であればティアラという髪飾りをつけます。古代では、一般庶民は、王族のような衣服を身につけることを禁じられていましたが、例外がありました。それは婚礼です。婚礼の時だけは、花婿も花嫁も身を飾ることを許されたのです。それで、イザヤ61:10にこうあります。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」神は、ご自分の御子イエス・キリストを信じる者を救い、ご自分の子どもとしてくださいました。言うならば「王子」、「王女」にし、その頭に栄冠をかぶせてくださいました。信仰の戦い、人生の戦いに備えて神から受け取る「救いのかぶと」とは、神が信じる者にお与えくださった神の子どもとしての身分です。神は、その敵に、「これはわたしの子どもだ。おまえたちは手を触れてはならない。わたしが彼らを守る」と言って、神の子どもたちを守ってくださるのです。
三、御霊の剣
今まで5つの武具を見てきました。腰には「真理の帯」、胸には「正義の胸当て」、足には「平和の福音の備え」、全身には「信仰の大盾」、そして、頭には「救いのかぶと」でした。これらはみな、「守り」のための身支度であり、武具でした。最後の6つ目は攻撃用の武具で、それは「御霊の剣」、すなわち「神のことば」です。「神のことば」は “The Word” ですが、“WORD” に “S” をつけると “SWORD”(剣)になりますから、「御霊の剣」は「神のことば」、「神のことば」は「御霊の剣」と覚えるとよいでしょう。
ローマ兵士が身に着けていたのは「両刃の剣」でした。それはとても鋭いものでしたが、神のことばは、この「両刃の剣」よりも、さらに鋭いものです。ヘブル4:12に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とある通りです。神のことばは人の行動だけでなく、その動機、心の中に隠されたものまでも明らかにします。神のことばの前には、誰も自分を隠すことができません。そう言うと、恐ろしいもののように聞こえますが、実際は私たちを傷つけるものではなく、癒やすものなのです。外科医が使うナイフが身体の組織を傷つけないようにして、悪い部分を取り除くように、神のことばも、私たちの内面にあるものを切り分け、良いものを残し、悪いものを取り除いてくれるのです。ですから、私たちは神のことばを愛し、慕います。神の言葉の前に自分をさらけ出します。
「御霊の…」と言われているのは、人間に神のことばを示されたのが聖霊だからです。ペテロ第二1:21に「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」とある通りです。この神のことばが後の時代までも保存され、すべての人に届くために文字とし、書物としてくださったのも聖霊です。そして、私たちが聖書を読み、学ぶとき、それを神のことばとして理解することができるのも聖霊によるのです。
「御霊の剣」、神のことばは、6つの武具のうち唯一の攻撃の武具です。イエスも神のことばによって誘惑を斥け悪魔に勝利されたことからも分かります。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」との誘惑に、イエスは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある」(マタイ4:4)と言われ、聖書の引用によってそれを斥けました。
すると、誘惑する者も聖書を引用してこう言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」(マタイ4:6)誘惑する者も、聖書を使うのです。ですから、私たちは聖書を正しく学んでいなくてはなりません。そうでないと間違った教えに引きずられ、間違った生活をし、勝利をなくしてしまうのです。イエスは、間違った聖書の引用に対して、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある」(マタイ4:7)と言ってそれを退けました。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」という誘惑に対しても、イエスは「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある」とおっしゃって、サタンを斥けておられます。イエスは神の御子であり、イエスご自身の言葉も神のことばなのですから、ご自分の言葉で誘惑を退けることもできたでしょう。しかし、イエスがすべて聖書を引用して「…と書いてある」と言われたのは、私たちに誘惑を退ける方法を教えるため、つまり、御霊の剣である神のことばの使い方を教えるためであったと思います。
私たちは皆、「御霊の剣」である聖書を持ち、学んでいます。しかし、それをしっかり保ち、実行しているでしょうか。私たちのみことばの剣は、よく手入れが行き届いて、切れ味の鋭いものでしょうか。みことばの剣が、長い間使わないためさびついたり、刃が欠けたままになっているということはないでしょうか。昔、金に困った武士は、刀を売って、その代わりに竹でできた刀をさしました。それを「竹光」というのですが、みなさんの持っているみことばの剣が竹光では、信仰の戦い、人生の戦いには役に立ちません。
また、どんなに立派な刀を持っていても、それを使いこなせなければ、芸術品としての値打ちはあっても、武具としては役に立ちません。神のことばは飾り物ではありません。実際に使ってこそ意味があります。そして、その使い方を、イエスから、また聖霊から学ばなければなりません。私たちみなが、「御霊の剣」、神のことばという武具をしっかりと受け取り、信仰の戦い、人生の戦いに勝利する者となることを、神は、期待してくださっています。
(祈り)
父なる神さま、信仰の戦い、人生の戦いにおいて、あなたが私たちを、さまざまな武具で守ってくださることを感謝します。勝利があなたにあることを信じて、私たちも、それらに身を固め、「御霊の剣」、神のことばによって、勝利を収めることができますよう、助け、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/19/2022