6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
一、悪魔の実在
神を知ることに成長し、聖書の学びを深めていくと、霊の世界が見えてきます。神がどのようなお方か、私と神とがどのような関係にあるのか、神のみこころが何であるのかが分かってきます。世の中で起こっていること、自分の身の回りに起こっていることの意味や目的を知ることができるようになります。地上の目に見える世界だけがすべてではなく、目には見えなくても、霊の世界、天の世界があることが分かり、世界が広がっていきます。「主の祈り」で「天にまします、われらの父よ。」と祈りますが、神がおられる天が身近かに感じられるようになり、神が私の父であり、私が神のこどもであることに深い感動を覚えるようになります。そして、それと共に、神に逆らう力、悪魔や悪霊たちのことについても分かるようになってきます。
悪魔や悪霊というと、それは、知識の乏しかった古代の人々が考え出したものであり、中世の時代の迷信にすぎないと、多くの人は思っています。悪魔や悪霊というのは、この世の悪を人格化したもので、それは、悪の象徴だと考えています。つまり、"Evil"(悪)はあっても、"Devil"、悪魔はいないと言うのです。私も、神を信じ、聖書を学ぶまではそう思っていました。しかし、神が、生きた人格であることがはっきりと分かり、聖霊が、自分にとってリアルなお方になってきた時、悪魔や悪霊もまた人格の存在であることが分かってきました。
日本で実際にあったことですが、ある教会でウェディング・ケーキに「神は愛なり」という文字を入れてくださいと頼んたのですが、配達されてきたケーキには「愛は神なり」と書かれていたそうです。「神は愛なり」も「愛は神なり」もどちらも同じことではないかと一般には考えられるかもしれませんが、「神は愛なり」と「愛は神なり」ではまったく意味が違います。聖書が「神は愛である。」と言う時、それは神が、ご自分のひとり子を私たちに与えてくださったほどに、罪びとを愛してくださったということを言っています。神は、私たちを愛してくださる、愛にあふれたお方であるという意味です。ところが、「愛は神である。」というと、神は愛を人格化したもの、愛の象徴であり、神は結局のところ、「愛」という概念であるという意味になってしまいます。神はたんなる概念ではありません。知性を持ち、意志を持ち、感情を持った人格です。同じように、「神は善である。」というのも、神がたんに「善」の象徴だというのではなく、善にして善を行われる人格であるということです。そのように悪魔も悪の象徴ではなく、ひとりの人格です。人格である神を信じることができたとき、悪魔や悪霊という人格の存在が見えてくるのです。
C.S.ルイスは『悪魔の手紙』という、一風変わったフィクションを書いています。そこには、地獄の長官スクリューテープが、地上に派遣された新米の悪魔ワームウッドに、クリスチャンになったばかりの人をどうやったら神から引き離し、自分たちの手に取り戻すかを教える31通の手紙が収められています。スクリューテープはクリスチャンのことを「患者」と呼んで、こう言っています。「親愛なるワームウッド君。患者に君自身の存在を知らせずにおくのが必要欠くべからざることかどうかと君は私にたずねるのか。その質問は、少なくとも闘争の現段階では至上命令によって答が出されている。われわれの方策は差し当って自分たちをかくしておくことである。もちろん、今までいつもそうだったわけではない。本当にわれわれは無情なディレンマに直面しているのだ。人間どもがわれわれの存在を信じなければ、われわれは直接的暴力主義の喜ばしい結果を全部喪失し、魔法使いを造ることができない。これに反して、彼らがわれわれの存在を信ずるなら、彼らを唯物主義者や懐疑主義者にすることができない。…患者を暗中模索の状態においておくことは、大して難しいことではあるまい。現代人の想像では、『悪魔』はきわだって滑稽なものであるということは君にとっては重宝であろう。もし彼の心に、君の存在について少しでも疑念が湧いたら、赤い肉じゅばんを着た者の絵を彼にほのめかし、それがしんじられない以上(彼らをまごつかせる昔の教科書的方法だが)君が信じられるはずがないと思いこませなさい。」(第七信)ここで著者が言いたいことは、「悪魔などいないのだ」と思い込ませること、悪魔がいたとしても、角が生えていて、尻尾があり、ときどきいたずらをする程度のものと思い込ませることが、実に悪魔の策略なのだということです。ですから悪魔が最も嫌うのは、悪魔の実在をはっきりと書いている聖書です。それで、悪魔は聖書のそうした部分を合理的に解釈させようとして、あの手、この手を使ってくるのですが、聖書を信じるクリスチャンは、その手に乗ってはいけません。罪が赦されるためには、自分の罪を認めなければならないように、悪魔に勝つためには悪魔の実在を認めることから始めなければならないのです。
二、悪魔の起源
聖書には悪魔や悪霊のことが創世記のはじめから黙示録の最後にいたるまで記されています。アダムとエバを誘惑して人類を罪に引き込んだのは悪魔です。悪魔は、人類の救いのために来られた救い主、イエス・キリストに挑戦し、キリストを十字架に追いやりましたが、キリストの復活によって手痛い打撃を被りました。しかし、悪魔はなおもキリストに従う者を信仰から遠ざけようとして、誘惑したり苦しめたりしてきます。世の終わりには、一時的にですが悪魔の王国が打ち立てられます。しかし、主イエスの再臨によって悪魔の王国は滅ぼされるでしょう。悪魔や悪霊のことに触れると、そういうことはあまり聞きたくないと耳を塞ごうとする人もいれば、たんに興味本位に悪魔や悪霊のことを詮索する人もいます。そのどちらも正しくはありません。聖書では悪魔や悪霊のことはキリストの救いのみわざの中で語られているのですから、死と悪魔に勝利されたイエス・キリストの敵として悪魔のことを理解していなければなりません。悪魔に勝利されたイエス・キリストを信じることなしに、悪魔のことを考えるなら、私たちは絶えず悪魔におびえ、神経を擦り減らし、不安の中に閉じ込めれてしまうからです。悪魔を軽く考えていけませんが、イエス・キリストを見失っては、悪魔に打ち勝って勝利の喜びに至るという信仰の歩みができなくなってしまいます。
今朝は悪魔についてすべてのことを話す時間がありませんので、悪魔がどこから来たのかということだけに触れておきましょう。悪魔の起源についは、イザヤ14:12-17にその鍵があります。そこには「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。」とあります。これは、直接的にはバビロン帝国を指しているのですが、同時に、サタンをも指しています。「明けの明星」は、ラテン語の聖書では悪魔を指す「ルシファー」という言葉が使われています。ルシファーは、もとは天使の中で高い位にあり、大きな力を持っていました。その名前のとおり、神の栄光で輝く存在だったのです。しかし、彼は、自分の力におごり、神の支配から離れてみずからが神になろうとしました。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」とイザヤ書にあるように、彼は他の天使たちを自分の味方につけて、神の支配にさからい、もうひとりの神になろうとしました。このようにして、明けの明星、ルシファーは、地におち、神の敵、サタンとなり、彼に従った天使たちも、ちいさなサタン、悪霊となりました。これが悪魔の起源です。
テモテ第一に教会の監督についての条件が書かれており、そこに「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(テモテ第一3:6)とあります。このことばは、悪魔が造られたものにすぎないのに、自らが神になろうとしたことを指しています。悪魔はどう言ってエバを誘惑したでしょうか。悪魔は「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言って神のことばを疑わせました。エバが「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」と、神のことばに対してあやふやな答えをすると、サタンはすかさず「あなたがたは決して死にません。」と言って神のことばを否定しました。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、アダムとエバに「神になる」ことを勧めています。「あなたがた人間は、素晴らしい知恵と力を持っている。なぜ、いつまでも善悪を神に決めてもらう必要があるのか。自分たちで善悪を決めればよいではないか。神の支配から独立し、自由になりなさい。あなたがたがこの世界の神となれば良いのだ。」とそそのかしたのです。人間を持ち上げて神に逆らわせ、人間を神から引き離す、実に巧みな誘惑です。同じ誘惑は、今にいたるまで続いています。人を神から引き離そうとする教えはみな、「人間ほど素晴らしい者はない。人間がこの世界の支配者だ。」「あなたほど素晴らしい者はない。あなたがあなたの人生の主なのだ。」と、人間を高慢にするものばかりです。悪魔は自分が神になろうとしたのと同じ罪を人間に犯させ、人間を称賛しながら、実は人間を自分の支配の下に置いてきたのです。悪魔は、高慢のゆえに神の敵、サタンになりした。高慢はすべての罪の根です。悪魔の起源を思うとき、私たちも、悪魔と同じように神に逆らい、神の敵となる「高慢」の罪を警戒しなければならないと身を引き締められる思いがします。たえず神の前に悔い改め、へりくだって歩んでいきたいと思います。
三、悪魔の策略
明けの明星、ルシファーは地に落ちました。しかし、サタンはなおその力を蓄えており、「この世の神」(コリント第二4:4)として君臨し、悪霊たちは今も、「不従順の子ら」の中に働いています(エペソ2:2)。エペソ6:12に「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあるように、サタンは暗やみの世界の支配者として、自分の王国を作っています。私たちは、自分では気がついてはいませんでしたが、キリストを信じるまではサタンの陣営にいたのです。キリストを信じた時、サタンから解放され神のものとなりました。暗やみから光へと生まれ変わったのです。サタンは、神のもとへ立ち帰った者をとりもどそうと誘惑してきます。誘惑に乗らず、神の側に立っていると、今度は攻撃をしかけてきます。クリスチャンはキリストを信じたその時から、サタンの攻撃に遭っています。サタンとの戦いが始まったのです。
かつて、神がイスラエルをエジプトから救い出された時、神はイスラエルの十二部族を十二の軍団として組織されました。イスラエルは、荒野で訓練を受け、やがて約束の地に入って、そこを戦いによって勝ち取りました。イスラエルの歴史は、クリスチャンに対する霊的な教えです。すべてのクリスチャンは、キリストの兵士として召されていること、信仰は戦いであることを教えています。使徒パウロは「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(テモテ第一6:12)と教え、ペテロは「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(ペテロ第一5:9)と教えています。私たちは、信仰とは、戦いのないものだと思い込んできました。たしかに信仰は私たちに平安を与えてくれます。しかし、この平安は戦いの中で勝ち取るものであって、戦いのない永遠の平安は、天にしかないのです。天の教会は勝利の教会、安息の教会ですが、地上の教会は戦いの教会です。たんに楽しく、楽にというわけにはいかないのです。私たちは自分の罪との戦い、悪魔との戦い、この世との戦いに召されています。
悪魔との戦いに勝利するにはどうしたら良いのでしょうか。エペソ人への手紙は11節で「悪魔の策略」ということばを使って、まず、悪魔の策略を知るようにと教えています。最初に言いましたように、悪魔は自分を隠して行動します。Verginia Tech の銃撃事件のような残忍な事件が起こると、それは悪魔のしわざだろうかと誰もが思うのですが、悪魔はかならずしも凶悪なものだけに働くとは限りません。人間の目に良いと思えることの中にも悪魔の働きがあるのです。悪魔の狙いは私たちから神への愛を取り去ること、私たちの目を神に向けさせないようにすることにあります。そのために悪魔は、人間をこの世の楽しみにひきずり込もうとします。しかし、それがあまりにも露骨であると人々はかえってそれに警戒しますので、悪魔は、多くの場合、人の目に価値があると見えるものを使って、人々の心を神から引き離そうとするのです。
私が日本にいたころ、それまで両親といっしょに教会にきていた男の子が中学生になってからピタッと教会に来なくなったことがありました。どうしたのかと思っていましたら、母親が、子どもを日曜日に塾に行かせるようにしたのです。母親は、自分の子どもが日曜日も勉強して、成績が上がったことを喜んでいました。子どもが勉強することは良いことです。しかし、日曜日に塾に行かせることによって子どもから神のことばを学ぶ機会を奪っていることを、彼女はその時、気付いていなかったのです。塾だけでなく、スポーツや音楽などいろんなことが日曜日にあります。スポーツも音楽も良いことです。そうしたグループに入ることによって友だちも増え、いろんなことを学ぶでしょう。しかし、その「良いこと」によって、神のことばを聞くという「より良いこと」、ただひとつの「なくてならぬもの」がないがしろにされることがあるのです。こうしたところに悪魔の策略があります。
教会は人が集まるところです。みんなが楽しく、仲良くできるようにと、いろいろなイベントを計画し、さまざまな活動をします。何か問題がおこったら、組織を変えてみたり、コミュニケーションを改善したり、また専門家を招いてセミナーをしてもらったりします。教会には、まじわりを豊かなものにするためのさまざまな工夫が必要でしょうし、そうしたことは、良いことです。しかし、自分の罪を認めて悔い改めたり、みことばを学んで信仰を成長させたりすることを後回しにして、人間的な方法だけに頼ると、本当の問題が隠されてしまい、表面では仲良く、活発に見えても、ほんとうには愛し合うことができず、霊的な喜びのないまじわりになってしまいます。聖書に「サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(コリント第二11:14)とあります。教会もまた「良い」と見えることにまどわされることなく、「より良いもの」を目指していきましょう。
英国のウエストミンスターチャペルの牧師だったマルチン・ロイドジョーンズ博士はエペソ人への手紙の説教を遺しており、全8巻の本になっています。ロイドジョーンズ博士は、6:10-20の、たった11節だけを、一年かけて52回説教しています。この箇所は、それほどに大切な箇所なのです。この説教の中でロイドジョーンズ博士は、サタンの働きとして、異端、カルト、偽の福音、誘惑、落胆、不安、自己愛、世的な生活などをあげていますが、同時に人間的な「熱心」も、悪魔の策略のひとつだと言っています。熱心であることは良いことです。しかし、聖霊による熱心、神に対する熱心ではなく、人間的な熱心、自己実現のための熱心は、かえって人を神から遠ざけるのです。これは明治時代のお話ですが、そのころのタクシーは、お客さんを座席に乗せて、人間がそれを引っ張って走る「人力車」でした。人力車を引っ張る人は車屋と言われました。ひとりの車屋がものすごい速度で道を走ってきました。この車屋を知っている人はみな、「おい、車屋さん、そんなに急いでどこへ行くんだい。」と声をかけました。そのたびに車屋は「へい、後ろに乗っている旦那さんが行く先を知っていますよ。」と答えました。道行く人は、まだ何か言いたそうだったのですが、車屋は、とにかく先を急いでいるので、その声が耳にはいりません。やがて道は右と左に分かれていきます。どちらに曲がるのでしょうか。車屋はやっと速度をおとして、「旦那さん、右ですか、左ですか。」と聞きましたが、返事がありません。振り返ってみると座席は空っぽでした。この車屋はあまり急ぎすぎてお客さんを乗せないまま走っていたのです。これは落語のような話ですが、私たちも同じ事をしてしまうことがあります。いったい私はどこへ行くのか。教会はどこへ向かっていくのか。それは、私たちとともにおられる主が答えを持っておられます。ところが、私たちは個人としても、教会としても、主を心に迎え、教会に迎えないまま、突っ走ってしまうのです。主との親しいまじわりを保っていないとそうなってしまいます。主を恐れ尊んで、主の導きに従って生きるのではなく、罪を本気で悔い改めることをしないまま、自分が思う通りに生きていると、聖なる主は私たちから去ってしまわれます。主がすでに去っておられるのにそのことに気がつかないというほど不幸なことはありません。私たちはいつもへりくだって、主を心に迎え入れていたいものです。
悪魔は人間よりもずっと賢こく、霊の世界のことは何でも知っています。私たちも、聖書をしっかり学んでいないと簡単に悪魔の策略に乗せられてしまいます。聖書によって霊の世界のことを学び、悪魔の策略を見破り、悪魔に打ち勝ちましょう。悪魔には知識はあっても愛はありません。聖書を学び、主を知ればしるほど、もっと主を愛しましょう。主への愛で、悪魔に勝つことができるのです。聖書は言います。「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」主を知る者、主を愛する者は、主の大能の力によって悪魔に打ち勝つのです。
(祈り)
万軍の主よ、あなたは、私たちをキリストの兵士とし、サタンとの戦いに召してくださいました。そのことに無頓着で、この戦いに勝つための訓練を怠り、あなたの命令に服すことを避けてきた罪を赦してください。もういちど、私たちをキリストの兵士として訓練し、悪魔に勝つ者としてください。勝利の主キリストのお名前で祈ります。
6/10/2007