第一の戒め

エペソ6:1-4

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6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

 一、母親の役割

 Happy Mother's Day!

 今日は「母の日」ですので、聖書から母親への教えを学んでみたいと思います。今日の箇所はエペソ6:1〜4ですが、ここには「子どもたちよ。」「父たちよ。」という言葉はあっても、「母たちよ。」という言葉はありません。どこに母親への教えがあるのかと思った人もいたかもしれませんが、じつは「父たちよ。」という呼びかけに、「母親」も含まれているのです。

 聖書が書かれたローマの時代には、父親には子どもの命を左右できるほどの権限がありました。今なら、「こどもの虐待」でたちまち逮捕されてしまいますが、当時は父親が子どもを思いのままに懲らしめることができ、そのために死なせたとしても、それは罪に問われませんでした。そのことは、聖書にも書かれています。たとえば、へブル12:9-10には、「私たちには父がいて、私たちを懲らしめたが、しかも私たちは彼らを敬った。父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる。」とあります。父親の女の子に対する権限は特に強く、娘をいつ、誰と結婚させるかは、すべて父親が決めました。聖書にも、「自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしている。」(コリント第一7:38)とあります。今のアメリカや日本では、そんなことをしたら、たちまち「ティーン・エージャの反逆」に会ってしまうでしょうが、当時は、娘を結婚させるかさせないかは、父親が決めることだったのです。

 聖書は、このように父親の権限が強かった時代に書かれたので、「父たちよ。」という言葉を使ってはいますが、母親の役割を無視しているわけではありません。十戒には「あなたの父と母を敬え。」とありますし、箴言にも、「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」(箴言1:8)と教えられています。新約聖書にも「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」(エペソ6:1)と教えられています。新約聖書が書かれた二千年前ばかりでなく、十戒が与えられた三千数百年も前から、聖書は、母親の役割を大切なものとして認めているのです。子どもが父親ばかりではなく、母親にも従わなくてはならないとしたら、「子どもを、主の教育と訓戒によって育てる。」という責任は、父親だけにではなく、母親にも与えられていることになります。ですから、「父たちよ。」という呼びかけの中には、母親も含まれているのです。それは、聖書で「兄弟たちよ。」という呼びかけがあるとき、それが男性の信徒にだけ宛てられたものではなく、そこに女性も含んでいるのと同じです。

 二、母親の態度

 聖書は、「主の教育と訓戒によって育てなさい。」と言うまえに「子どもをおこらせてはいけません。」との指示を与えています。まず、「子どもをおこらせてはいけません。」ということがどんなことなのかを考えてみましょう。

 これが、子どもを甘やかすということでないことは、どなたも分かりますね。子どもがわがままを言って泣いたり、わめいたりするので、親がその要求を呑んで、子どものいいなりになるということが見られますが、これは、一番悪い教育のしかたです。最近は日本でもドラッグが簡単に手に入るようになってきたようで、子どもがドラッグをしているのを知りながら、親がそれを買うためのお金を渡していたということを日本のニュースで聞きました。「ドラッグに使うとわかっていてもお金を渡さなかったら、子どもが身体を売ったり、盗みを働いたりするから、…」というのがその言い分ですが、どこか間違っていると思いませんか。「子どもをおこらせてはいけません。」というのは、子どもを甘やかし、子どもが求めるものは何でも与えて、子どもをまるで王様、女王様のようにして、親がその前にひれ伏すことではないのです。子どもが間違ったことをしていたなら、子どもをきちんと叱るのは当然のことです。

 では、逆に、父親や母親は、いつも子どもに厳しくして、どんな無理な要求でも押し付けてよいのかというと、そうではありません。ここで使われている「おこらせてはいけません。」という言葉には、「いらだたせる」「失望させる」「恨みを抱かせる」などという意味があります。さきほど、へブル12:9-10に触れましたが、もう一度、そこを読んでみましょう。「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」ここには、地上の父親と天の父、この世の訓練と、神の訓練とが比較して教えられています。地上の父親は「自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる」とありますが、それが当時、一般的なことでした。そして、親が子どもの特性や能力、限界を考えないで、親の要求や、期待、願望だけを子どもに押し付けてしまうことは、昔も今も変わっていないかもしれません。

 子どもが悪いことをして叱る時、なぜそれが悪いことなのかを教えてあげることは良いことですが、小さいこどもに、一時間以上も理由を説明したらどうなるでしょうか。子どもは、「お母さん、ぼく、やっと分かったよ。一時間以上も、お母さんの育児理念を説明してくれて、ほんとうにありがとう。」と言うでしょうか。そんなことはありませんね。くどくどと小言を言うことを "over-reasoning" と言いますが、それは、子どもにフラストレーションを与えるだけで、何の効果もありません。

 私が児童心理学を習った時、とても印象に残ったことがあります。それは「子どもは小さなおとなではない。」ということです。子どもには子どもの世界があります。子どもには豊かな想像力があります。子どもが紙飛行機を手にして部屋中を走り回わるのは、まるで自分がパイロットになって世界の空を駆け巡っているように感じるからです。人形を手にした女の子がそれに語りかけたりするのは、自分がヨーロッパのお城に住むお姫様になったように感じているからかもしれません。しばしば夢の世界と現実の世界とが区別がつかなくなり、おとなから見たらとんでもないことをしてしまうことがあります。いたずらをしたり、おしゃべりをしたり、ぼんやりしたりしてしまうのです。おとなの目から見て困ったことに見えても、そんな子どもの想像力と夢を育ててあげたいと願っています。子どもにルールを教えることは大切ですが、だからと言って、それで子どもの想像力や夢を摘みとってしまって良いとは思いません。子どもは子どもの世界を満喫してはじめておとなに成長していくことができるからです。今の子どもたちは、早くから「小さいおとな」になるようにプレッシャーをかけられています。お行儀が良くて、勉強も、スポーツも、習い事もこなしてという、親の要求に耐えています。ある子どもに「春休みに、どこかに遊びに行くの?」と聞いたら、「お父さんやお母さんは、連れていってやるって言うんだけど、本当は、ぼく、どこにも行きたくないんだ。疲れているから休みたいんだ。」と言ったそうです。子どもの口から「疲れた」ということばが出るのは悲しいことです。

 かつては、父親が子どもに厳しい要求をしました。母親は、それを和らげ、子どもを励ます役割をしました。でも、今は、母親のほうが子どもに過剰な期待をかけ、厳しい要求をつきつけているかもしれません。子どもに要求ばかりを与えて、子どもを温かく包んであげることをしないと、子どもにフラストレーションを与え、子どもの心に怒りを植え付けることになってしまいます。子ども時代に子どもらしく過ごすことができなかった人はおとなになってからも、心に苦いものを残したままでいることが多いのです。精神的な障害、人格的な欠陥のほとんどが、子どものころの体験から来ていると言われます。不幸な子ども時代を過ごした人は、自分の子どもには同じ思いをさせたくないと願うものですが、心の傷を癒されていないと、知らず知らずのうちに、自分が扱われたように自分の子どもを扱ってしまうのです。聖書は、罪がアダム以来全人類に世代から世代へと伝わっていると言っていますが、まさにその通りです。罪から贖われたクリスチャンの両親は、この罪の遺伝を断ち切らなくてはいけませんし、キリストによってそれができるのです。

 「子どもをおこらせてはいけません。」子どもに向かって「小さなおとなになりなさい。」と要求するのが、良い父親、母親、また教師ではありません。子どもの世界を壊さないでください。それを大切にしてあげてください。ときには父親、母親も、教師も、子どもの世界に入って子どもの心で、子どもと一緒に遊んであげて欲しいのです。子どもの教育はそこから始まります。

 三、母親の教え

 では、「主の教育と訓戒によって育てなさい。」ということを考えてみましょう。

 ここには、まず第一に、クリスチャンの父親や母親は、自分の考えでも、この世の価値観でもなく、主の教えによって子どもを育てるべきことが教えられています。ここに「子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とありますが、エペソ人への手紙には「〜してはならない。むしろ、〜しなさい。」という言い方が良く出てきます。「暗やみのわざに仲間入りをしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」(エペソ5:11)「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい。」(エペソ5:12)「酒に酔ってはいけません。…むしろ、聖霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)とありました。こうしたことばはすべて、クリスチャンの生活は、今までの生活を向上させるというのではなく、今までの生き方を捨てて新しい生き方をする、少しは良い人間になるというのではなく、キリストにあって全く新しい人になるということを教えています。古着に継ぎをあてて着るのでなく、きっぱりと古いものを脱ぎ捨てて、新しいものを着るのです。

 それは、子どもの教育についても同じです。子育ての情報をたくさん得て、できるかぎりのことをすれば良い教育ができるというのではありません。クリスチャンの子育てには、その出発点や基礎に、「主を知ること」「主を恐れること」がしっかりと据えられなければならないのです。5:22〜6:9で夫と妻、親と子、主人としもべについて教えられていますが、このどれもが、それは、エペソ5:21に「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」とあることの実例として挙げられているのです。そのどれもが、キリストを恐れ尊び、互いに従うことを教えているのです。ですから、親と子について教えるこの箇所も、子どもだけではなく、父親や母親にも、キリストを主とあがめ、愛し、従うことが基礎になっています。子どもとともに、主を愛し、主に従うことが、ここには教えられているのです。

 どんなに理想的な子育てができたとしても、子どもに主を恐れ、主を愛することを教えることがなかったら、クリスチャンの子育てとしては重大な欠陥があります。日本の教育再生会議というところでは「子守歌を歌い、おっぱいをあげ、赤ちゃんの瞳をのぞいてください。」「授乳中や食事中はテレビをつけないように。」「乳児期には一緒に歌を歌ったり、本の読み聞かせを行い、小学生時代には今日の出来事を話しましょう。」などといった提言をまとめているそうです。どれも、もっともなことですが、こういうことは国がわざわざお金と時間をかけてすることではないような気がします。ともかく、みなさんはいろいろな機会に子育てについて、さまざまに学ぶことでしょう。しかし、あまりにも多くの情報がありすぎて、かえって戸惑ってしまうことが多いのではありませんか。どんなに多くのことを学んでも、実行に移せなければ意味がありません。主を恐れ、主を愛すること、このひとつのことを、クリスチャンの父親、母親は追い求めていきましょう。

 「主の教育と訓戒によって育てる」とは、第二に、神のことばで子どもを教育することです。エペソ6:1に「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」とありますが、ここで使われている「従う」という言葉には「聞く」という意味があります。「聞き従う」とでも訳したら良いかもしれません。そして聖書で「聞く」という言葉は神のことばに聞くことをさしています。では、子どもは神のことばを誰から最も多く聞くのでしょうか。それは両親からです。子どもと接する時間がいちばん多い母親から、最も多く聞くことでしょう。聖書が、子どもに神のことばに「聞く」ことを命じていますが、それはとりもなおさず、母親に、神のことばを「語る」よう命じているのです。みなさんは、この命令に答えているでしょうか。

 「主の教育と訓戒によって育てる」というのは第三に、主の助けをいただいて、子どもを教育することを教えています。エペソ6:2では「あなたの父と母を敬え。」は「第一の戒め」であると言っています。「父と母を敬え。」は十戒の第何番目の戒めでしょうか。「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」「自分のために、偶像を作ってはならない。」「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とあってから「あなたの父と母を敬え。」とありますから、これは第五番目の戒めです。なのに、なぜ「父と母を敬え」が「第一の戒め」と言われているのでしょうか。それは、このいましめが後に続く「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」「偽りの証言をしてはならない。」「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」という人への義務と愛を教えている戒めの第一番目のものだからです。十戒の第一戒から第四戒は、神に対する義務と愛を、第五戒から第十戒は隣人に対する義務と愛を教えているのです。「父と母を敬え」という戒めは、とても大切で、十戒のかなめのようなものです。子どもは、父と母を敬うことによって、第一戒から第四戒に命じられている神への愛を学び、第六戒から第十戒にある人への愛を学ぶのです。もし私たちが「父と母を敬え」を文字どおり「第一の戒め」として大切にするなら、多くの問題が解決するかもしれません。

 聖書によれば、父親と母親は子どもにとっては神の代理人です。子どもは両親から神を愛することを学ぶのです。また、両親は、子どもがはじめて出会う隣人です。子どもは親との愛の関係の中で、他の人を愛することを学びます。親子の関係がうまくいっていない人は、他の人とも良い関係を持つことができません。親の責任はなんと重いことでしょうか。このような責任は誰一人、完全に果たすことはできません。だからこそ、私たちには、「主の教育」、「主がしてくださる教育」が必要です。子どもの教育を主にに任せ、主ご自身が子どもたちを教え、導いてくださることを祈り求めるのです。もちろん、主に任せるといっても、親が何もしなくて良いということではありません。主イエスに主任教師になっていただいたとしても、私たちは、その助手となって、その指示に従わなければなりません。しかし、主を第一に置くなら、必ず、知恵と力が、なによりも、子どもへの愛が、主から与えられるのです。

 小さい子どもにとって父親、母親は何でもできる神のような存在です。私も子どものころ、父親、母親は完璧な存在に見えました。でも、自分が親の年齢に達した時、なんて自分は未熟なのだろうと思いました。私は、子どもから見れば立派に親のつとめを果たしているように見えたかもしれません。しかし実際は無力な者で、絶えず父なる神の助けを必要としていました。立派な親でなくても良い、自分が父なる神の真実な子どもであれば、それを見て、子どもは育っていくのだということを、私は、その時学びました。父親、母親が真剣に祈る姿を見て、子どもは「なんでもできるはずの父親、母親がひざをかがめているお方がおられる。神様は父親、母親より偉大なお方なのだ。」ということを学ぶのです。自分の考えやこの世の教えによってではなく、主の教えによって、また、主のことばを語ることによって、そして、主ご自身の臨在と力によって、父親、母親のつとめを果たしていきましょう。

 今朝の礼拝には、子どもを持っていない人、子育てを終えた人が多くいます。そうした人たちも、あなたの近くにいる子どもたちのために、良い模範になり、子どもを導き、子どもを守ってあげることができます。私たちのまわりから子どもがいなくなることはありませんから、子どもたちのために愛をもって祈り続ける私たちでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが私たちの父でいてくださることを心から感謝します。私たちはあなたの息子、娘となり、あなたから愛されることによってはじめて、子どもを愛する愛が何であるかを知り、子どもを愛する力を与えられました。自分の子どもであれ、他の人の子どもであれ、子どもたちを、あなたの愛で理解し、育て、あなたのもとに導いてあげられるよう、私たちを助けてください。そのために、私たちも、霊の父に聞き従い、その教育と訓戒を受けることができるよう、導いてください。あなたを父として愛することを、私たちの生涯の第一の戒めとしてください。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/13/2007