5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
一、服従の教え
今朝の聖書の箇所は結婚式できまって読まれる箇所です。「結婚式の聖書」としてあまりにも有名なので、結婚のこと、夫婦の関係のことが主題だと思われ、この箇所は結婚している人には意味があっても、まだ結婚していない人や再び独身に戻った人には、あまり関係がないと思われがちです。しかしここをよく読んでみますと、結婚のことだけを教えているのでないことがわかります。エペソ5:22に続く部分には、夫と妻、親と子、主人と奴隷のことが書かれていますが、どれも「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」(エペソ5:21)という教えと関連しています。「キリストを恐れ、互いに従う」というのは、クリスチャンとキリストとの関係、クリスチャンと他のクリスチャンとの関係とを要約したもので、まさに信仰生活のすべてを言い表わしたことばです。エペソ5:22〜6:9は、「キリストを恐れ、互いに従う」ことを夫婦の関係、親子の関係、そして主人と奴隷との関係にあてはめるとどうなるかということを教えているのです。
エペソ5:22は「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」と訳されていますが、ギリシャ語の原文では「従いなさい」という動詞が省略されていて、「妻たちよ。あなたがたは、主に対するように自分の夫に対しなさい。」と書かれています。エペソ5:22は、エペソ5:21に「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」とある「従う」ということばを補って読むように書かれているのです。このことは、ここに夫婦、親子、主従という具体的な関係が書かれてはいても、その主題は「キリストを恐れ、互いに従う」ことであることを示しています。夫婦、親子、主従の関係についての教えは、「キリストを恐れ、互いに従う」ということの具体例としてあげられているのです。ですから、たとえ、結婚していなくても、子どもがいなくても、またすでに退職していたとしても、誰もが、この箇所を通して、「キリストを恐れ、互いに従う」ことを学ばなくてはいけないし、また、学ぶことができるのです。
神は、昔も今も、神を信じる者に、従うことを求めておられます。キリストは弟子たちに「わたしに従え。」と命じておられます。信仰とは「従うこと」です。「弟子」とは「従う者」です。しかし、現代は、子どもが親に従わない時代、おとながルールに従わない時代です。好き勝手にすることが「自由」だと思われ、「従う」ことに価値が置かれなくなりました。家庭でも、社会でも「従う」ことを学ぶことができなくなりました。残念ながら、クリスチャンの間でも、「従う」などというのは古くさい教えだと考えられるようになってきました。しかし、聖書は一貫して「信じることは従うこと」だと教えています。神のことばを信じるクリスチャンは、現代の風潮に流されないためにも、このことをいつも確認しながら歩み、信仰の大切な基本を失わないようにしたいものです。日々に、今日も神に従うのだと確認しましょう。毎週の礼拝で、この週もキリストの弟子として生きるのだということを確認しましょう。
アダムとエバを「あなたがたも神のようになるのだ。」と言って誘惑して以来、サタンは絶えず「従うことはつまらないことだ。自分のことは自分で決めればよい。あなたが人生の主人なのだ。」と人間を誘惑し続けてきました。サタンは「神に服従する必要はない。人間は、神のことばなどなくても、自分の知恵と知識で正しい判断ができるのだ。神から独立し、自由を手にせよ。」と言います。しかし、神から離れては本当の自由も、独立もありません。アメリカのお金には "IN GOD WE TRUST" という四文字が刻まれています。神に頼ることが本当の独立であり、神に従うことが本当の自由であることを、建国の父祖たちは知っていたのです。
信仰生活とは、じつに、神に従うことを学ぶことです。そして、神に従うことを学ぶのに、もっとも良い場所が結婚生活です。結婚生活からキリストに従うことについて、どんなことを学ぶことができるでしょうか。聖書に聞きましょう。
二、服従の理由
エペソ5:22に「妻たちよ。…自分の夫に従いなさい。」と教えられています。なぜ、妻は夫に従わなければならないのでしょうか。それは、女性が男性より劣っているからでしょうか。古代にはそういう考えもありました。日本で「女性は子どもを産む機械である。」などと言った政治家がありましたが、この政治家は、おそらく古代からタイムマシンで現代の日本に来たのでしょう。聖書の書かれた時代には、夫の妻に対する権威は絶対でした。妻の夫に対する義務は定められていても、夫の妻に対する義務はありませんでした。また、父親には子どもの命を奪うことさえできる権限が与えられていました。上流家庭では子どもの教育は家庭教師にまかせられ、母親の果たす役割はほとんど評価されませんでした。女性は男性より劣っているのだから、女性は男性に絶対服従しなければならないとされてきました。
しかし、聖書は、男性も女性も神のかたちに造られ、優劣はないと教えています。最初の男性アダムは土のちりから造られましたが、最初の女性エバは、アダムのあばら骨のひとつから造られました。なぜ、あばら骨からだったのでしょうか。このことについてクリスソストモスという古代の説教者はこう言っています。「もし、エバがアダムの足の骨からとられたら、アダムはエバを卑しめただろう。もし、エバがアダムの頭の骨からとられたなら、こんどはエバがアダムを蔑んだだろう。エバがアダムのハートの側にある骨からとられたのは、アダムがエバを片時も忘れず、そのふところに抱いて愛するためである。」とても美しいことばです。
聖書は「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」(箴言1:8)と言って、母親の役割を父親と対等のものとして高く評価しています。みなさんがよく御存じのように、「しっかりした妻」をほめたたえる歌もあります(箴言31:10-31)。ユダヤには女性の指導者や預言者もいました。聖書は決して女性を低くは見ていません。聖書が「夫に従いなさい。」と言う時、それは、夫が妻に対して好き勝手なことができるということを意味しているのではありません。このことばを使って家庭内暴力を正当化しようとするなら、それはとんでもないことです。聖書は、夫に対して「自分の妻を愛しなさい。」と命じており、しかも、その愛は、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように」というほどの大きく深いものです。夫の妻に対する愛というのは、たんに結婚記念日を忘れずに薔薇の花を贈るとか、家事を手伝うとか、リップサービスをするとかいう以上の、もっと真剣なものでなければならないのです。今から二千年も前に、こんな高い基準を定めたものは聖書以外にはありません。聖書は古代の書物で、その時代の道徳を教えているにすぎないというのは、聖書を知らない人が言うことばです。聖書はその時代の道徳基準を超えた真理を教えています。ですから、21世紀の今日も、私たちは聖書に聞き、聖書に従うのです。
では、妻が夫に従うのはなぜでしょうか。それは、23節に「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」とあるとおり、神が夫を家庭のかしらと定めたからです。妻のほうが夫より収入が良かったり、社会的地位が高い場合もあるでしょう。また、妻のほうが能力的にすぐれている場合もすくなくありません。しかし、妻のほうが収入が多く、能力的にすぐれていたとしても、だからといって、夫が家庭のかしらでなくなるわけではありません。収入や能力が家庭のかしらを決めるのではありません。それを決めるのは人間ではなく神です。神が、キリストを教会のかしらと定められたように、夫を妻のかしらと定められたのです。エペソ1:22に「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」とあるように、キリストを教会のかしらとされたのは、神ご自身です。ですから、夫が妻のかしらであるということをくつがえそうとすることは、キリストを教会のかしらからひきおろすことになるのです。夫が家庭のかしらである必要はなく、どちらか能力のあるほうが家庭をリードすれば良いのだとい考え方は、まったく人間的な考えで、聖書の教えではありません。
24節に「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」と言われています。これは21節で使われていたのと同じ言葉です。じつは、ここで使われている「従う」という動詞は、6章で「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」あるいは「奴隷たちよ。…主人に従いなさい。」というのは別の言葉です。子どもが両親に従う、奴隷が主人に従うという場合、英語で言えば "obey" という言葉が使われていますが、妻が夫に従うという場合は、英語の "submit" にあたる言葉が使われています。この言葉は、もともとは軍隊の用語で、「命令に従う」という意味があります。軍隊には "chain of command"(指揮系統)があり、なりよりも、"order"(命令、秩序)が重んじられます。"Submit" には、このように、神が立てられた秩序に従うという意味があるのです。妻は夫に従うのは神の立てられた秩序に従うためです。
妻が夫に従うというのは「亭主関白」を許すことではありませんし、夫が妻を愛するというのは「かかあ天下」になるということでもありません。夫は、自分は「かしら」だからといって妻と相談無しに大事なことを決めてはいけませんし、妻は、夫に家庭のかしらとして足らないところがあれば、それを補うような働きをしなければならないでしょう。それぞれの家庭では、具体的な夫婦の役割分担は違うでしょう。ものごとを決める時のやりかたも違うでしょう。しかし、どんな場合でも、夫が妻のかしらであるということが守られなければなりません。この神の定めた秩序が守られるなら、それによって、かならず、その家庭は守られるのです。
最近、日本の新聞で読んだのですが、日本では「子育て」ならぬ「夫育て」というのが話題になっているようです。「妻が夫に従う」など、とんでもないことで、夫が妻に従うほうが家庭がうまくいくのだとも書いてありました。そのことを聞いたあるアメリカの女性が、目を丸くして驚き、「ほんとうなんですか。進んで従うことができる夫を持っていないなんて、妻にとって一番の不幸ですね。夫を卑しめることは自分を卑しめることになりますよ。」と言ったそうです。私もまったく同感です。聖書に書かれていることは、今から二千年前の教えで、今ではもう通用しないのでしょうか。そうではありません。聖書の教えは、二千年たとうが、三千年たとうが変わることはありません。聖書はいつの時代にも、どの国の人々にも真実な神のことばです。時代とともに人々の生活のスタイルは変わっていきます。しかし、人間の基本的なあり方は変わりません。もし、それが変われば、もはや人間は人間でなくなるからです。人間の外面は変わっても、人間の内面は変わりません。人間のたましいは何千年前も今も、神によってしか満たされることはないのです。人間のほんとうの幸いは、どんなに時代が変わっても、神のことばに従うことによってしか得られることはないのです。みなさんはそのことを信じていますか。
三、服従の力
エペソ人5:22-24は「服従」を教えています。そこには、妻が夫に従うのは、他のどんな理由によってでもなく、神の定められたことだからであるということが教えられていました。なぜ服従が求められているかはわかりました。では、どのようにして服従することができるのでしょうか。聖書は、その答えをきわめて簡潔に、「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」また「教会がキリストに従うように」と教えています。しかし、「主に従うように」とはどうすることなのでしょうか。
ある中年の女性が「私の主人は、若いころ素敵だったのですが、年をとってからはだらしなくなるし、しつこくなる。ほとほとあいそがつきました。」と言って牧師に相談しました。牧師は「ご主人がイエスさまだと思って仕えなさい。」と教えました。しばらくして同じ女性が牧師のところに戻ってきて言いました。「先生が言ったとおりやって見ました。最初の三日は、主人もイエスさまのように見えたのですが、四日目からダメでした。やっぱり主人は主人で、イエスさまではありません。」
「主に従うように」というのは、「ダメな夫であっても、あたかもイエスさまであるかのようにして従う」ということではありません。「主に従うように」というのは、「まず自分が主イエスに従うことによって」という意味です。夫が自分にとって難しい人であればあるほど、もっとイエスを仰ぎ見、イエスに頼るのです。夫が冷たくすればするほど、イエスの愛を思い見るのです。自分の力で夫を変えようとしてもできません。すぐ忍耐をなくしてしまったり、落ち込んでしまったりする自分の無力を主イエスにささげるのです。信仰によって「主に従う」のです。夫に従うことができるために、まずキリストに従うのです。その時、主ご自身が働いて、夫に従う力をくださいます。夫に従うことがすこしできるようになったからといって、すぐに、夫か変わってくれるわけではありません。なお、忍耐が求められるでしょう。しかし、夫に従うことによって、キリストに従うことを学ぶことができます。「主婦」にありがちなわがままからきよめられていきます。そして、さらに夫に従うことができるようになるのです。「主に従うように」というのは、キリストに従うことによって夫に従う力を得る。夫に従うことによって、キリストに従うことを学ぶということです。
このことは、難しい妻を持っている夫、妻を愛さなければならないと分かっていながらそれができないでいる夫にとっても同じです。困難があればあるほど、「主に従う」ことを学ぼうではありませんか。主は、困難によってキリストに従うことを、私たちに教えようとしておられるのかもしれません。
あなたが、シングルでも、シングル・アゲインでも、クリスチャンであるなら、あなたは、キリストのからだの一部です。教会のメンバーです。キリストは教会のかしら、すべてのクリスチャンのかしらです。キリストがかしらであるなら、キリストに従おうではありませんか。キリストは教会の花婿、すべてのクリスチャンの真実な夫です。キリストがご自分を私たちに与えるほど私たちを愛しておられるなら、私たちも、このお方に私たちの忠誠を尽くそうではありませんか。この箇所は、夫婦に対する教えだけで終わっていません。今はくわしく触れることはできませんが、「キリストと教会」という奥義が組み込まれています。キリストのからだの一部として、教会のメンバーとして、キリストを愛し、キリストに仕え、キリストに従うことを、もっともっと学ぼうではありませんか。
イエスはすべての人の救い主です。イエスはすべての人をご自分の救いに招いておられます。まだ、キリストを心に受け入れていない人がありましたら、今日から、キリストをあなたの人生の主として迎え入れ、この方に従いはじめてみませんか。キリストはあなたに家庭の問題に取り組む知恵と力を与え、あなたの家庭を祝福してくださることでしょう。
最後に、"Submission"(服従)という本郷さんが作った歌を紹介します。エペソ5:22〜33より作られた歌で、たんなるラブソングではなく、キリストへの愛を歌っています。
I submit myself to you.この歌のように、私たちが互いに従い、そして、ともにキリストに従うものとなりますように。
My husband, I submit myself to you,
In everything I do, I do,
To give my all to you.
And I will do the same.
My precious wife in Jesus holy name.
I vow to pledge my love, my life,
And give my all to you.I submit myself to you.
As we who are the church
And now with the Lord
As the Head of our home, we live in unity,
Committing myself, submitting myself to Jesus.
Together we'll stand
As is radiant church holy and sanctified
By Jesus, our Lord.
Submit ourselves to Jesus Christ, our Head.
So I submit my all to you
In everything I do.
And as Jesus loved His church
And gave himself and washed her with the Word
So I give myself to you
in everything I do.I submit myself to you.
From "Our Best To You" http://www.rghongo.com/ourbest.asp ©2002 Chirstian Vission
And now with the Lord
As the Head of our home, we live in unity,
Committing myself, submitting myself to Jesus.
Together we'll stand
As is radiant church holy and sanctified
By Jesus, our Lord.
We'll live for Jesus,
Submitting Jesus, our Lord.
(祈り)
父なる神さま、私たちは、従うことよりも支配することを、仕えることよりも治めることに傾きやすい者です。そのために互いに仕え合うべき、夫婦の関係、家族の関係において、問題を作り出し、困難を抱えるようになってしまいました。私たちにキリストに従うことを教えてください。そして、キリストに従うことによって、問題を解決し、困難を乗り越えることを教えてください。教会のかしら、私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/22/2007