聖霊の満たし

エペソ5:18-21

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5:18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。

 一、ペンテコステと聖霊の満たし

 イエスが天にお帰りになってから、イエスの弟子たちはエルサレムでひとつところに集まり、心を合わせて祈っていました。9日が過ぎて、10日目、日曜日の朝に、突然、激しい風の響きが起こり、炎のような分かれた舌が、弟子たちひとりひとりの上にとどまりました。イエスが約束されたように、聖霊が下ったのです。この日は「初穂の祭」の日でしたので、さまざまな国々に住む人たちがエルサレムに集まっていました。使徒2:9-11には、「パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、ローマ人、ユダヤ人、クレテ人、アラビヤ人」などの民族、また、「メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポント、アジヤ、フルギヤ、パンフリヤ、エジプト、リビヤ」などの地域の人々がそこにいたとあります。弟子たちは、こうした人々に、その人々の言葉で神のみわざを語りました。弟子たちは、ある程度、外国語を知っていたでしょうが、このとき、神のみわざを、現地の人たちが驚くほどに流暢に語ることができました。それは「聖霊の満たし」によるものでした。イエスは弟子たちに、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)、また、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と言われました。ペンテコステの日、弟子たちが様々な国の言葉を語ったのは、福音が聖霊の力によって全世界に広まっていくことを示すものでした。

 弟子たちはペンテコステの日だけでなく、そののちも、くりかえし聖霊に満たされました。ペンテコステは歴史の中で一度かぎりの出来事ですが、「聖霊の満たし」はその後、何度も繰り返されています。そして、弟子たちは「聖霊の満たし」を繰り返すことによって、ペンテコステの日に下られ、信じる者のうちに宿っておられる聖霊に、より深く信頼するようになっていったのです。「聖霊の満たし」は「小さなペンテコステ」と言ってよいもので、弟子たちはそれによって、ペンテコステの恵みに立ち返り、その力を受けました。

 使徒2:38に「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」とあります。この御言葉によると、私たちは、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたとき、バプテスマとともに聖霊をいただいたことが分かります。私たちの受けたバプテスマは、たんなる「水のバプテスマ」ではなく、「聖霊のバプテスマ」でした。聖霊はバプテスマとともに働いて私たちを生まれ変わらせ、神の子どもにしてくださいました。神が天地を創造されたとき、「神の霊は水の上を動いていた」(創世記1:2)とあるように、聖霊は、バプテスマの水と共に働いて、私たちをキリストにある新しい人として、再創造してくださったのです。イエスがバプテスマをお受けになったとき、聖霊がイエスに下りました。そのように、私たちもバプテスマを受けたとき、聖霊を受けたのです。

 けれども、バプテスマを受けたとき、自分が聖霊を受けたことが分かった人はほとんどいないでしょう。ほとんどの人はバプテスマを受けて、一定の時期が過ぎてからそのことが分かるようになります。すでに聖霊によって生まれ変わり、聖霊によって生かされ、導かれていても、「私のうちに聖霊がおられる」ということが、ほんとうに分かるまでには、聖書から教えられる必要があるからです。聖書から聖霊について正しく教えられ、早く分かるようになる人は幸いだと思います。

 けれども、聖霊が自分の内におられることが分かるのは、たんなる知識によるのでなく、「聖霊の満たし」によるのです。最初の弟子たちが聖霊を直接体験したように、私たちも、「聖霊の満たし」によって、聖霊を身近なお方として体験したいと思います。イエスが「もうひとりの助け主」と呼ばれた聖霊を、そのようなお方として知りたいと思います。信じる者に聖霊が下り、聖霊が信仰者を満たしてくださったことは、今から2000年も前の遠い昔のことではありません。聖霊は、今も変わらず、私たちを生かし、力を与え、導き、守ってくださっています。そのことを体験として知りたいと思います。

 二、宣教と聖霊の満たし

 「聖霊の満たし」は、「使徒の働き」では、宣教、伝道、証しと結びつけて語られています。ペンテコステの当日、弟子たちは神のみわざを語り(使徒2:4)、ペテロは人々にイエスの復活を証ししました(同2:22-40)。ペテロとヨハネが神殿で捕まえられ、最高法院で尋問を受けたとき、ペテロは「聖霊に満たされて」弁明し、また、大胆にイエスを証ししました(同4:8)。「聖霊の満たし」は、私たちに信仰を言い表し、イエスを証しする力を与えるものです。

 聖書が、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(コリント第一12:3)と教えているように、聖霊は、私たちに、イエスへの信仰を言い表すのを助けてくださるお方です。教会の中でさえ、信仰を言い表すのには勇気がいります。まして、信仰を持たない人たちや信仰に反対する人たちに対して信仰を言い表し、イエスを証しするのは、自分の力だけでできることではありません。聖霊に助けられてはじめてできることです。

 そして、こうした聖霊の助けは、私たちが願い求めるなら、必ず与えられるのです。ペテロとヨハネは、最高法院から「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と脅された上で釈放されました。そのことを聞いた弟子たちは、「ああ、困った。どうしょう」などと言いませんでした。こう祈ったのです。「主よ。…あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」(使徒4:29)すると、弟子たちは「聖霊に満たされ」、もっと大胆にイエスの名によって語り、教えるようになりました。聖書は、「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」(同4:31)と言っています。心から願うときに、祈り求める人に、「聖霊の満たし」が与えられるのです。

 また、聖霊の満たしは、教会での奉仕のために必要なものです。エルサレム教会で選ばれた七人の人々はみな「信仰と聖霊とに満ちた人」たちでした(使徒6:3,5)。

 三、日常と聖霊の満たし

 では、「聖霊の満たし」は、伝道する人、奉仕する人のためだけのものでしょうか。「聖霊の満たし」は、信仰を持つすべての人のためのもの、誰もが日常の生活の中で必要なものなのです。

 エペソ人への手紙では、「聖霊の満たし」は、キリスト者としての信仰の歩みに必要なものとして教えられています。エペソ5:18の「御霊に満たされなさい」という命令は、ここで突然語られているのではなく、じつは、エペソ4:1から始まっています。そこには「あなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」とあります。そして、5:8には「光の子どもらしく歩みなさい」と言われています。聖書が「歩み」というとき、それは日常の生活を意味します。エペソ人への手紙では、すべてのキリスト者は、聖なる神に仕える「神の民」として召されたのだから、それにふさわしく日々を送りなさい、また、この世の闇から救われ、光となったのだから、「光の子ども」らしく生活しなさいと教えられています。

 そして、「聖霊に満たされなさい」という命令の直前には、「賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し」(エペソ5:15)とあり、「酒に酔ってはいけません」(同5:18)と戒められています。酒に酔っ払ったら、フラフラしてとてもちゃんと歩くことはできません。そんな歩みでなく、神のみこころを悟り知って、しっかりと歩きなさい。健全で堅実な生活をしなさいというのです。しかし、今日、世の中の闇がどんどん深くなっていく中で、神のみこころを悟り知るのは、以前よりももっと難しくなっています。信仰者を誘惑し、その心を捕らえて酔わせようとする「酒」のようなものに、私たちは取り囲まれています。奉仕や伝道以前に、キリスト者として歩むことを妨げているものが、あまりにも多いのです。そんなこの世を、正しく歩むためには、どうしても「聖霊に満たされる」必要があるのです。

 エペソ人への手紙では、「聖霊に満たされなさい」という命令に続いて、「賛美しなさい」、「感謝しなさい」、また「互いに従い合いなさい」と教えられています。私たちが心から神を礼拝し、互いに仕えあうなら、さまざまな問題は解決し、毎日が幸せな日々になります。キリスト者なら、誰も、そのことが分かっています。分かってはいるのですが、へりくだって他の人に仕えることが実行できないでいるのです。神に感謝するより不平や不満が起こってきます。他の人に仕えるより、自分のことを主張してしまいます。それは、聖霊に信頼して、聖霊の助けを求めないからです。つまり、「聖霊の満たし」を願わないからです。どんな小さいことでも、「聖霊の満たし」なしにはできません。「聖霊の満たし」は、じつに、私たちの日常の生活のために必要なのです。「聖霊の満たし」がいらないほど小さなこと、たやすいことは何もありません。どんなに小さいと思えること、自分の力でなんとかなると思うことでも、「助け主」聖霊を求めましょう。また、信じる者には、聖霊の助けによって出来ないことはありません。聖霊に満たされて行うとき、不可能は可能になるのです。

 このように「聖霊の満たし」が日常のものであるなら、生涯の中で何度か、あるいは年に一度、特別な集会で「聖霊の満たし」を体験すればそれでよいということにはなりません。「聖霊の満たし」は、毎日毎日、必要なものです。エペソ5:18の「聖霊に満たされなさい」という言葉は現在形で書かれています。それには「聖霊に満たされ続けなさい」という意味があります。私たちの生活は日々変化し、私たち自身もキリストにあって日々成長しています。育ちざかりの子どもが、食べても、食べても、お腹が空くように、キリストにあって成長しているクリスチャンは、成長するにしたがって、さらに聖霊に満たされる必要があるのです。聖霊に満たされて成長し、成長すればさらに満たされる必要が生じるのです。ですから、私たちは、「満たされ続け」なければならないのです。

 旧約の時代、預言者エリシャが、ひとりのやもめを、神の力によって助けたことがあります。彼女は夫がのこしていった借金のかたにふたりの子どもを奴隷にとられようとしていました。エリシャは彼女に、近所の人たちからできるかぎりたくさんの器を借りてきなさいと言いました。彼女の家にはたったひとつ、小さな油のつぼしか残っていませんでしたが、エリシャは、そのつぼから、借りてきた器に油を注ぎなさいと言いました。小さな油のつぼから大きな器に油を注げば、油はたちまちなくなるはずです。ところが、いくら油を注いでも、つぼから油がどんどん出てくるのです。彼女は子どもたちに次々と器を持ってこさせましたが、そのどれも油でいっぱいになりました。彼女が子どもに「もっと器を持ってきなさい」と言いましたが、子どもが「もうありません」と言ったとき、つぼから出る油が止まりました。彼女はその油を売って、借金を返し、子どもたちを救いました(列王記第二4:1-7)。

 この物語は「聖霊の満たし」について、私にヒントを与えてくれました。それは、私たちの内面が神の前に空っぽになるなら、それを聖霊が満たしてくださるということです。聖霊に助けていただく領域が大きければきいほど、また、求めが深ければ深いほど、神は、私たちを豊かに聖霊で満たしてくださるのです。もし、私たちが「これで十分です」と言って、信仰の求めをストップしてしまうなら、そこで天からの油そそぎもまた止まってしまうのです。

 「御霊に満たされなさい。」今から二千年前、天から下ってこられた聖霊は、今も、変わりなく、私たちと共にいて、求める者を満たしてくださいます。そのことを信じて、きょうからの一日、一日を「聖霊の満たし」を願いながら過ごしたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、聖霊が私たちの日々の生活の中に働いてくださることを教えていただきありがとうございます。御言葉が教えるように、生活のどのことがらにおいても「聖霊の満たし」を求め、それを体験することができますよう導いてください。そして、聖霊に満たされた日々の生活を土台として、キリストを証しする者となることができますよう助けてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/5/2022