聖霊に満たされる

エペソ5:17-18

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5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。
5:18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

 聖霊と私たちの関係について、前回は「聖霊を悲しませてはいけない」と、消極的な面から学びましたが、今回は積極的な面を、「聖霊に満たされなさい」との御言葉から学びます。

 「聖霊に満たされなさい。」そう言われて、皆さんは、まず、どんなことを思い浮かべたでしょうか。私は、「聖霊の満たしは預言者や使徒たちのような特別な人たちだけのものだろうか」、「聖霊に満たされた状態とはどんなものなのか」、「聖霊に満たされるために何ができるのか」などと考えました。きょうのメッセージでは、自分の疑問に自分で答える「自問自答」のようなものになりますが、次の機会には、皆さんの質問に答えるメッセージにしたいと思っています。

 一、満たしはすべての人に

 最初に、「聖霊の満たしは特別な人だけのものなのか」について聖書を調べてみました。新約聖書で「聖霊に満たされた」と言われているのは、イエスとイエスを巡る人々、母マリア(ルカ1:35)、エリサベツと夫ザカリア(ルカ1:41、1:67)、そして、バプテスマのヨハネ(ルカ1:15)でした。

 ペンテコステの日、エルサレムに教会が生まれ、エルサレム教会に七人の人たちが立てられましたが、その人たちは「御霊と知恵に満ちた」人たちの中から選ばれました(使徒6:3)。その中の一人ステパノは「信仰と聖霊に満ちた人」と呼ばれ、最初の殉教者となりました(使徒6:5、7:55)。パウロは、かつて教会の迫害者でしたが、イエスに出会い、アナニアからバプテスマを受けたとき聖霊に満たされました(使徒9:17)。パウロと一緒に伝道したバルナバもまた「聖霊と信仰に満ちている人」でした。

 こうした箇所を読むと、「聖霊に満たされる」のは特別な人だけのように思ってしまうのですが、聖書を注意深く読むと、聖霊に満たされたのは、特別な人たちだけでないことが分かります。ペンテコステのとき、聖霊に満たされたのは、選ばれた十二使徒だけではありませんでした。使徒たちと一緒に120名の「一般の」信者が一緒にいました。聖書は、そこには母マリアをはじめとして女性の弟子たちがいたとわざわざ書いています(使徒1:14)。当時、女性は人数の中に数えられなかったのに、聖書は女性の弟子たちに触れています。聖霊の満たしに性別も、教会での役割も関係なく、それはすべての信者のものであることを教えています。また、聖霊の満たしは、人種にも関係なく、サマリア人にも(使徒8:17)、イタリア人にも(使徒10:44)、エルサレムから遠く離れた小アジアに住む全くの異邦人にも与えられています(使徒13:52)。

 エペソ5:18で「御霊に満たされなさい」と言われているのも、教会内の特別な人々に対してではなく、すべての信者に対してです。ペテロやパウロ、また、ステパノやバルナバたちが聖霊に満たされたのは、与えられた特別な使命を果たすためでしたが、聖霊の満たしは特別な努めを果たすためというよりは、私たちと神との関係が深まり、信仰生活が豊かなものなるためのものなのです。

 「聖霊に満たされなさい」との言葉に続いて、エペソ5:19-21に「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、……キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」と書かれています。そして、「互いに従い合う」ことについて、「妻たち」と「夫たち」に(エペソ5:22-33)、「子どもたち」と「父たち」に(エペソ6:1-4)、そして、「奴隷たち」と「主人たち」に(エペソ6:5-9)具体的な勧めが与えられています。これらの勧めは聖霊の満たしが前提になっています。夫と妻、親と子、主人としもべ――家庭や社会を構成しているすべての人が挙げられており、そのすべての人に対して聖霊に満たされるよう求められているのです。すべての人は聖霊に満たされる必要があり、また、誰もが聖霊の満たしを受けることができるのです。

 二、満たしは人格のすべてに

 次に、「聖霊の満たしとはどんなものなのか」を考えてみましょう。弟子たちに、最初、聖霊が降ったとき、激しい風の音や炎のような舌が一人ひとりの頭の上にとどまるなど、目に見え、耳に聞こえるしるしがありました。それは、人々を引き寄せ、福音を聞かせるためでした。ペンテコステの日に、聖霊に満たされた人々は、さまざまな国々から来ているそれぞれの人々に、それぞれの国々の言葉で神のみわざを語りました(使徒2:4)。別のときには、聖霊を受けた人たちは「異言」を語りました。それで、聖霊に満たされたなら、そうしたしるしがあるはずだ、「異言」などのしるしがなければ聖霊に満たされたとはいえないという主張も起こりました。しかし、聖書は聖霊の満たしには必ずそうしたしるしが伴わなければならないとは教えていません。聖霊に満たされた人の口から出てくることばは、なによりも、神への賛美であり、感謝の言葉です。エペソ5:19-20に「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」とある通りです。人々が不平、不満しか口にしないような状況の中でも、聖霊に満たされた信仰者は神を賛美し、神に感謝するのです。

 また、使徒の働き4章には、ペテロが釈放され戻ってきたとき、一同が心と声を一つにして祈ったことが書かれています。そして「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出し」ました(使徒4:31)。この時、人々が聖霊に満たされて語り出だしたのは「神の言葉」、イエス・キリストの福音でした。力強く福音が語られる、それは聖霊の満たしの証しの一つだと言ってよいでしょう。

 また、聖霊の満たしは、私たちの内面を聖くします。ガラテヤ5:16に「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」とあります。「御霊に満たされる」ことと「御霊によって歩む」ことはほぼ同じことを意味しています。「肉の欲望」とは私たちの心と生き方のうちに残っている罪の残骸のことです。コップの水に汚いものが混ざっていても、そうっとしておくと、それらは底に沈みますので、上のほうはきれいに見えます。ところが、何かが起こってコップが揺れると、その汚いものが浮かび上がってきます。私たちの心も同じで、ふだんは、神を喜び、信仰を口にするのですが、試練がやってきたり、誘惑にさらされたり、人間関係に躓いたりして心が揺れると、底に溜まっているものが浮き上がってきて、神への感謝が消え、希望を失い、他の人を攻撃してしまうようなことが起こるのです。心の平静は、聖霊によらなくても、努力や修練によってある程度は、保つことができるでしょう。しかし、それだけでは、根本の解決はありません。心の底に溜まっているものを取り除けないのです。岩に掘った水溜めなどは水の出口がなく、汚い水を抜き去ることができません。そこにきれいな水を注ぎ続けて汚い水がきれいな水と入れ替わるのを待たなければなりません。聖霊の満たしもそのようなものだと思います。聖霊が私たちの心に、神に喜ばれる思いや新しい性質を注ぎ込み、私たちの心を聖めてくださるのです。

 しかも、それは絶えず、注ぎ続けられなければなりません。聖霊の満たしとは、器に水が一杯入っているような「状態」を指すのでなく、常に水が注がれ続けている継続した「動作」を指します。私たちは歩くとき、足を動かし続けます。足をとめたら歩いているのでなく、立ち止まっていることになります。御霊によって歩むことが歩み続けることであるように、聖霊に満たされることも、一度「満たされた」からそれでよいといったものではなく、満たされ続けることを意味しています。心が聖い思いで満たされ、言葉が賛美と感謝で満たされ、そして、日々の歩みが聖霊の力で満たされること、それが聖霊の満たしです。

 三、満たしは信仰によって

 最後に、「どうしたら聖霊に満たされるか」を考えてみましょう。聖書は、「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」と言って、酒に酔うことと聖霊に満たされることとを比較しています。これは、聖霊に満たされると酒に酔ったようになるという意味ではありません。ペンテコステの日に、弟子たちが様々な国の言葉で神を賛美しているのを見た人たちの中には「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言う人もありましたが、ペテロは「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません」と言っています(使徒2:13, 15)。

 人は酒に酔うと知性や理性が働かなくなり、自分を失います。それは、聖霊に満たされることに反しています。聖書は「御霊に満たされなさい」と命じる前に「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」と命じています。聖霊に満たされるためには、理性や知性を十分に働かせる必要があります。信仰を持たない人は、辛いことや寂しいことから逃れるためにアルコールや、その他のさまざまなものに頼ります。その中には健全な楽しみもあるでしょうが、たとえ健全なものであっても、人を癒やすことはできません。不健全なものであれば、心も体も蝕まれます。私たちは「愚かにならないで」、何がほんとうに自分を満たしてくれるのか、幸いな人生を与えてくれるのかを知る必要があります。

 酒に酔うことと、聖霊に満たされることとは正反対のことですが、どちらも、人を支配するという点では共通しています。酒に酔うと、アルコールがその人の体や心を支配します。しかし、聖霊に満たされると聖霊がその人の心や体を支配なさるのです。「聖霊が支配する」というと、自分が失われてしまうように感じる人もいるかもしれませんが、アルコールの支配と聖霊の支配とは全く違います。聖霊の支配は、神から与えられた新しい性質を強め、それが態度や言葉、行いに現れるように導いてくれますが、アルコールの支配は、人の罪深い性質や性格の弱点に働きかけます。ふだんおとなしい人が酔うと乱暴になることがありますが、それはアルコールによって、その人の隠れていた悪いものが表面に現れた結果なのです。

 アルコールは、人がそれに縛られまいとしても、人を縛りつけます。しかし、聖霊は、私たちが、自分を聖霊にゆだねないかぎり私たちを支配されることはありません。しかも、聖霊は私たちの個性を尊重してくださいますから、聖霊に満たされたからといって、個性が失われることはありません。むしろ、一人ひとりの個性はもっと輝き、神のために用いられます。聖霊の支配は、恵み深く、私たちに幸いをもたらすものです。

 「聖霊に満たされなさい。」これは、文法的にいうと「受け身の命令形」です。それは、私たちを満たしてくださるのは聖霊ですが、満たされる側の私たちにも、「聖霊よ、私を満たしてください」と、自分を明け渡すことが必要なことを教えています。自分の力ではできないことを、聖霊がしてくださると信じてお任せする、信頼する。それが、聖霊に満たされるために、私たちがしなければならないこと、私たちにできるただ一つのことです。

 聖霊は常に、「知恵」、「力」、「命」、「信仰」、「希望」などと一緒に語られます。ですから、たとえ、「聖霊の満たし」ということがよく理解できなかったとしても、私たちが、「知恵」、「力」、「命」、「信仰」、「希望」などを求めるとき、それは「聖霊の満たし」を求めることになります。心の聖めを求め、聖霊の実である「愛」、「喜び」、「平安」、「寛容」、「親切」、「善意」、「誠実」、「柔和」、「自制」を願い求めることが聖霊の満たしを求めることになるのです。ローマ15:13に「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように」とあるように、喜び、平安、希望で満たしてくださいと祈ることから、聖霊の満たしが私たちに働くのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが私たちに聖霊をくださったのは、私たちの思いが聖められも、賛美と感謝が口から出、日々を聖霊によって歩むためです。私たちがかろうじて聖霊を保っているような状態でなく、聖霊が私たちのすべてを支配し、その恵みで私たちを満たすようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/18/2025