5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
今月は「聖霊の満たし」についてお話ししてきました。今日はその四回目です。「聖霊の満たし」については、お話ししたいことがまだまだ多くありますが、今日は「聖霊の満たしが私たちに何を与えるのか」ということをお話しして、この主題について一区切りをつけたいと思います。
聖書には、聖霊に満たされた人々のことが数多く書かれています。バプテスマのヨハネは、母の胎内にいたころから聖霊に満たされていました。ヨハネの母エリサベツも、主の母マリヤに会って聖霊に満たされています。父ザカリヤも聖霊に満たされて預言をしています。主イエスご自身が、ヨハネからバプテスマを受けて聖霊に満たされています。ペテロとイエスの弟子たちは、ペンテコステの日に聖霊に満たされ、初代教会の信徒たちも聖霊に満たされました。ステパノも殉教を前にして聖霊に満たされています。使徒パウロは、まだサウロと呼ばれていたころ、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けて、聖霊に満たされました。サウロをアンテオケ教会に導いたバルナバも聖霊に満たされた人でした。
聖霊に満たされた人々のことを調べてみますと、こうした人々が、聖霊によって、三つのもの、「知恵」と「力」と「きよさ」を与えられていたことが分かります。
一、聖霊と知恵
聖霊の満たしは、第一に、私たちに「知恵」を与えます。エルサレム教会で七人の執事を選ぶ時、使徒たちは「御霊と知恵とに満ちた…人を選びなさい。」と命じました。「聖霊」と「知恵」とは深いつながりがあります。古代から教会は「知恵、理解、導き、堅忍、知識、敬虔、主への恐れ」を「聖霊の七つの賜物」と呼んできましたが、「知恵」は「聖霊の七つの賜物」の第一のものでした。もちろん、ここでいう「知恵」は、この世の知恵のことではありません。世の中には頭の良い人が大勢いて、私たちの思いもよらないことを考え付いて、それによってお金儲けをしたり、名誉を得たりしていますが、聖霊の与える知恵はそのような知恵ではありません。それは、神を知る知恵です。どんなにこの世の知恵、知識があっても、それは、結局は消え去っていく地上のものにすぎません。聖書の言う「知恵」とは、神とそのみこころを知る知恵のことです。テモテ第一3:9に、執事を選ぶ時は「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人」を選ぶようにとの指示があります。「信仰の奥義」というのは、私たちが信じていることがらの内容のことですが、聖霊の与える知恵によって、私たちは、自分たちが信じていることをしっかりと理解し、確信することができるようになるのです。エルサレム教会の執事のひとりだったステパノは、まさに「信仰の奥義を保っている人」で、クリスチャンに反対する人たちと議論してもひるむことはありませんでした。それはステパノが「知恵と御霊によって語っていた」(使徒6:10)と聖書にあります。ステパノは聖霊に満たされ、聖霊の与える知恵によって語っていたというわけです。
聖霊の満たしと知恵との結びつきは、エペソ人への手紙にも教えられています。エペソ5:15-17に「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」とあります。ここで「機会を十分に生かして用いなさい。」というのは、どういう意味でしょうか。「時代の波に乗って、うまくやりなさい。」ということなのでしょうか。もしそうだとしたら、そのすぐあとに「悪い時代だからです。」とあることばと一致しませんし、前後の文章と噛み合いません。「機会を十分に生かして用いなさい。」というところは、原語では「時をあがなえ」と書かれています。「あがなう」というのは、「買い戻す」という意味です。これは、借金のために身を売って誰かの奴隷となった人のために、その借金を肩代りして支払い、奴隷となった人を買い戻す時に使われた言葉です。私たちは、罪を犯し、自分では決して支払うことのできない負債を負い、罪の奴隷になっていました。そんな私たちのために、神はイエス・キリストのいのちというあがないの代価を払って、私たちを買い戻してくださったのです。これが「あがない」です。ですから、「時をあがなう」というのは、神から離れ、この世のことで、この世のためにだけ生きてきた人生を、もう一度神のものとして取り戻すことを意味しています。「機会を十分に生かして用いなさい。」というのは、「時代の波に乗って、うまくやる」という意味ではなく、むしろ、それと逆に、時代に流されず、まどわされず、主のみこころをわきまえ悟り、主のみこころを実行していくことを意味しています。
聖書は、はっきりと、今の時代は「悪い時代」だと教えています。今の世は、曲がった時代だとも言っています。ピリピ2:14-16に「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」とあるとおりです。曲がった時代をまっすぐに歩こうとすると、どこかでぶつかります。本物も偽者も入り混じったような時代に、何が神のみこころかを問うて、それをみきわめていくことは並大抵のことではありません。そのような時代に「賢い人のように歩む」ことは、聖霊の満たしなしにはできません。ピリピ1:9-11に「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」との祈りがあります。聖霊に満たされるとは、何か夢心地になって現実から浮き上がってしまうことではありません。むしろ、聖霊の与える知恵によってしっかりと現実を見つめ、神のみこころにそった正しい判断をもって、歩んでいくことなのです。聖霊によって「真の知識とあらゆる識別力」を豊かに受け、「真にすぐれたものを見分ける」ことができるよう、祈り求めていきましょう。
二、聖霊と力
第二に聖霊の満たしは私たちに「力」を与えます。エペソ人への手紙では、「御霊に満たされなさい。」という命令に続いて、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」ということが教えれられています。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(19節)というのが教会の礼拝をさしていることはすぐに分かりますね。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(20節)というのは個人の祈りの生活を意味しています。そして、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」(21節)というのは、その後に「夫と妻」「親と子」「主人としもべ」についての教えが続いていることからもわかるように、家庭生活や社会生活のことを指しています。「夫と妻」「親と子」「ボスと部下」というのは「人間関係」ということばでまとめることができます。私たちの人生の大部分は人間関係で成り立っています。そして、私たちのその悩みの大部分も、人間関係から来るのです。聖霊の満たしは、神と私との深い霊的体験ですが、それは同時に、誰もが、毎日の生活で直面している「夫と妻」「親と子」「ボスと部下」などという人間関係に働くものでもあるのです。
夫婦が円満になるためにはこうしたら良い、これが子育ての秘訣だ、こうすれば世の中で成功する、などといった教えが、世の中には数え切れないほどあります。そして次から次へとそうした本が出ます。そうした本の中には参考になるものもありますが、ひとりびとりの人生はそれぞれに違っていて、すべての人にあてはまるものはありません。それに、そうした本に書かれていることは、たいていすでに知っていることばかりです。問題は、「知らなかった。」ということにあるのではなく、頭では分かっていても、それを実行できないというところにあるのです。もし、今まで書かれた人間関係の方法、子育ての秘訣、成功の法則などといったものがすべて正しければ、もう、そういう書物が新しく書かれる必要はないはずです。次から次へとそういう本が書かれるというのは、そういうものによっては、本当の解決がないことを証明していると言えないでしょうか。聖書は、人間の知恵や力によってではなく、聖霊の満たしによって、神のみこころにそった家庭生活や社会生活を送ることができる、正しい人間関係を持つことができると教えています。聖書は、生活の知恵だけではなく、それを守り行う力をも約束している唯一の書物です。表面的には家庭がうまく行き、世の中で成功しようとも、聖霊に満たされることがなければ、穴の開いたドーナツのようにその人のたましいの真中は空虚なまま残るのです。聖霊は礼拝や祈り、奉仕の時だけ、私たちを満たしてくださるというのではありません。聖霊は、家庭や職場、毎日の生活でさまざまなことに直面して、こんなときはどうしたら良いだろうかと思い悩む時に、また、しなければいけないことが分かってはいても、それをすることができないで苦しむ時に、自分の頼らず、聖霊に頼る者を満たしてくださるのです。聖霊は、クリスチャンの具体的な生活を導く力です。ですから、私たちは、どんな場合でも、何にもまさって、聖霊に満たされることを求めるのです。
現代の私たちは、どうかすると「頭でっかち」になり、いろんなことを知ってはいるのですが、知っている通りには行うことができないでいます。主の弟子たちも、復活された主から聖書の解き明かしを得て、伝道するための知識を与えられてはいました。しかし、聖霊の満たしを受けるまでは「力」がありませんでした。主は弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)と約束してくださいました。この約束の通り、弟子たちは、ペンテコステの日に聖霊に満たされました。その日から、弟子たちがどんなに力強くキリストの復活をあかししていったかは、もう話す必要がないほどです。聖霊の満たしは、神のみこころを知る「知恵」だけではなく、神のみこころに従って生きる「力」をも与えてくれるのです。
三、聖霊ときよさ
第三に、聖霊の満たしは私たちに「きよさ」をもたらします。エペソ6:18は「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」と教えています。ペンテコステの日、弟子たちがはじめて聖霊に満たされた時、人々はそれを見て「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言って嘲りました(使徒2:13)。人は酒に酔うと大胆になります。ふだんはおとなしい人も、大きな声を出したり、ひっこみ思案な人も人前で歌出したりします。クリスチャンが聖霊に満たされて大胆にキリストのことを語り出し、高らかに賛美を歌い出すと、聖霊の働きを認めたくない人々は「あれは酒に酔っているのだ。」と言って、クリスチャンを嘲ったのでしょう。ペンテコステの日に、使徒ペテロは「あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。…これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。…』」と言って、酒に酔うことと聖霊に満たされることを区別しています。
エペソ人への手紙でも、酒に酔うことと、聖霊に満たされることが区別されています。ガラテヤ5:19-21に「肉の行いは…不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」だとあり、このリストに「酩酊」、つまり酒に酔うことが入っています。それでエペソ人への手紙では、「酒に酔う」ことを「肉の行い」を代表するものとして使っているのです。「不品行、汚れ、好色」にふけることは、御霊の満たしにそむくことです。御霊の満たしを知らないから、肉欲に走るのです。「偶像礼拝や魔術」にかかわることは、きよい御霊に反することです。クリスチャンは、あからさまには、そうしたことはしないかもしれませんが、心の中に物欲や名誉欲、自己顕示欲、汚れた思いを隠したままでいるなら、それが偶像礼拝になるのです。御霊に満たされることがないと、クリスチャンもまた「敵意、争い、そねみ、憤り」に振り回されたり、「党派心、分裂、分派、ねたみ」のゆえに行動してしまうことがあります。そうしたことをしながら、自分の罪に気付いていないのです。「肉の行い」というのは、乱暴でだらしのない生活のことだけを言っているのではありません。インテリジェントで、上品そうに見えることの中にも「肉の行い」があるのです。クリスチャンは酒に酔って醜態を演じることはないかもしれませんが、聖霊以外のもの、この世の富や誉れ、権力に酔いしれて、サタンの罠に陥ることがあるのです。ですから、聖書は「酒に酔ってはいけません。…御霊に満たされなさい。」と命じているのです。
聖霊はきよいお方であり、私たちに「きよさ」をお与えになります。いつの時代にも「きよさ」は、建前としては、いちおう重んじられてはきました。しかし、実際には尊ばれてきませんでした。人々は、強くなること、豊かになること、賢くなること、人気者になることなどを求めても、きよくあることは求めてきませんでした。きよいからといっても一銭の得にもならない、かえって損をするだけだと人々は言いますが、神を信じる者もまた、同じような考えに染まってしまっています。しかし、神は「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(ペテロ第一1:15)「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」(ヘブル12:14)「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)と、くりかえし、くりかえし、神を信じる者にきよくあるよう求めておられます。そして、神は、このきよさを与えるため御霊の満たしを備えてくださいました。御霊は、クリスチャンのうちに、肉の行いにかえて御霊の実を結ぶことによって、きよさを与えてくださるのです。
聖霊はクリスチャンに聖霊の賜物と、御霊の満たしの両方を与えてくださいます。聖霊の賜物というのは、聖霊がくださる知恵や知識、特別な能力や豊かな力のことです。御霊の実は、私たちの人格をかたちづくるもので、ガラテヤ5:22-23に「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの実があげられています。聖霊の賜物は、即座に与えられることもあり、しかも、誰の目にもあきらかに見えるものです。しかし、御霊の実は、徐々につくりあげられていくもので、人目から隠れた場合が多く、自分でも、「私はほんとうに御霊の実を結んでいるのだろうか。」と思ってしまうこともあります。それで、聖霊の賜物は追い求めるが、御霊の実をないがしろにするということが多く起こっています。しかし、神は、私たちが、聖霊の賜物を使って何か特別なことができることだけを喜ばれるお方ではなく、私たちにきよくあることを求められます。業績よりも人格の実を、結果よりも動機をごらんになります。何かを上手に出来たかどうかではなく、それを、神への愛のゆえに真心からしたかどうかを、神は見てくださるのです。せっかく聖霊の賜物を受けながら、御霊の実を育てなかったために、そのたまものを無にし、神から離れてしまった人々のことが、聖書の中に数多くあります。現代もそうした実例を身近に見ることがあります。聖霊の満たしによって、私たちは、神のみこころを知る知恵を、それを行う力を、そしてきよさを与えられます。聖霊の満たしを求めましょう。聖霊による知恵を求めましょう。聖霊による力を求めましょう。そして、聖霊が「聖い霊」であり、私たちをきよめるお方であることを忘れず、聖霊のくださるきよさをも求めましょう。
(祈り)
知恵と、力とに満ち、最もきよい神さま、あなたが、神の子どもたちに、ご自分を知らせ、ご自分の力を分け与えようとしておられることを、心から感謝します。そればかりでなく、あなたが、神の子どもたちを、ご自分のきよさにあずからせようとしておられることを、心から感謝します。私たちがあなたのきよさを求めることがなければ、教会は天の光を失い、人間の集団になってしまいます。人々に、あなたを証しすることができるため、私たちを御霊に満たし、私たちのうちに御霊の実を結ばせてください。私たちに聖霊を約束してくださったイエス・キリストのお名前で祈ります。
2/25/2007