5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
私たちは、父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神を信じています。洗礼を受けるまでは、おもに、父なる神と御子イエス・キリストについて学びますが、洗礼を受けてからは聖霊とそのお働きについて学びます。しかし、聖霊とそのお働きをしっかりと教えている教会も、それを理解しているクリスチャンも多くはないと思います。洗礼準備会も、洗礼後のクラスもない教会もある中で、私たちは洗礼準備会も、成人サンデースクールや水曜日の聖書の学び会もあり、たいへん恵まれていると思います。洗礼を卒業式のように考えて、洗礼を受けて一人前のクリスチャンになったから、もうクラスに出て学ぶ必要はないなどと考えないでください。洗礼は卒業式というよりは入学式です。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われた主イエスの学校に入学して、主イエスから学ぶことを誓ったのが、洗礼でしたね。洗礼の誓いをもういちど新しくして、主イエスから学び直しましょう。
聖霊とそのお働きは聖書のいたるところに、創世記から黙示録にいたるまでしるされています。創世記1:2には「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあり、世界は聖霊によって形づくられたことが書かれています。黙示録22:17には「御霊も花嫁も言う。『来てください。』」とあって、聖霊が新しい天と地をもたらしてくださることが書かれています。聖書には聖霊のお働きが明らかに示されているのですが、注意深く聖書を学ばないと、それを見逃してしまうことがあります。それで、聖霊はよく分からない。分からないから聖霊に注目しないということになってしまいます。また、聖霊のお働きをひとりよがりに解釈してしまうと、自分勝手な思い込みを「聖霊が導いておられる」などといって、自分にだけでなく、他の人にまで押しつけてしまうということがあります。聖書はおよそ1500年の長い期間に、40人以上の人々の手によって、それぞれに違った場所、違った環境で書かれた書物が集められたものです。しかし、そこには不思議な統一があり、権威があります。それは、聖霊がその背後にあり、聖書を「神のことば」として生み出してくださったからです。聖書のことばは「聖霊のことば」といってよいのです。ですから、聖霊は聖書と矛盾したことを私たちに語ったり、聖書と違った方法で私たちを導くことはありません。聖霊によって聖書を理解し、聖書によって聖霊を学ぶ、このふたつのことがどんな場合でも大切です。
今、「聖霊の満たし」について学んでいるのですが、聖霊の満たしを理解するには、聖霊の他のお働きも知っていなければなりません。今朝は、数多くある聖霊のお働きの中から「聖霊による生まれ変わり」、「聖霊による信仰告白」、そして「聖霊による救いの保証」の三つをとりあげ、「聖霊の満たし」をそうしたものとの比較の中で学んでみたいと思います。
一、聖霊の満たしと聖霊による生まれ変わり
まず、第一に、聖霊による生まれ変わりをとりあげましょう。聖霊による生まれ変わりは、とても大切なもので、天国への最初の一歩です。よく「人はそのままで神に受け入れられる。」と言われます。それは神がその人の存在を尊んでくださっているという意味では正しいのですが、人が生まれつきのまま、罪を持ったままでも天国に行けるということではありません。主イエスは誰もがそのままで天国に行けるとは言っておられません。「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と、主は言われました。「人間、みな、神の子」と教える宗教が日本にはありますが、聖書は、聖霊によって生まれ変わることによって、はじめて神の子どもとなり、天国の国民になることができると教えています。主イエスは「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:6)と言われました。「肉」というのは、人間の生まれつきの性質のことです。人間の生まれつきの性質は罪のために神に受け入れられないものになっています。人間の生まれつきの善良さは、たとえそれが、人の目には立派なものに見えたとしても、きよく、完全な神の目には、そのままでは受け入れられないもの、神の国にふさわしくないものなのです。神が、私たちをあるがままに受け入れてくださるというのは、自分の罪をカバーアップしたり、言い訳けしたりせず、あるがままに認める者をあわれんでくださるという意味です。神は、そのような悔い改めと信仰をもって神に来る者を、「そのまま」にしておかれるのでなく、その罪を赦し、その人をその罪からきよめ、新しいいのちをそのたましいに注ぎ込まれるのです。つまり、神は人を造りかえ、生まれ変わらせて、ご自分の子どもとして受け入れてくださるのです。罪を持ったままではだれも天国に入ることはできません。人は、聖霊によって生まれ変わる必要があるのです。これが聖書の教えであり、信じる者に与えられる約束です。
イエス・キリストを信じたみなさんは、この聖霊による生まれ変わりを体験していますね。おひとりびとりは、自分の人生を変えてくださった聖霊のみわざをあかしすることができると思います。では、聖霊の満たしは、聖霊による生まれ変わりのことなのでしょうか。いいえ、聖霊による生まれ変わりは、聖霊の満たしの出発点ですが、聖霊による満たしそのものではありません。聖霊による生まれ変わりは、一度限りのものですが、聖霊の満たしは繰り返されます。聖霊による生まれ変わりがあれば、聖霊の満たしはいらないのでしょうか。そうれではありません。聖霊が私たちのうちに与えてくださった新しいいのちは、自動的に成長していくものではありませんし、自分の努力で成長させることができるものでもないからです。それは聖霊の満たしを受けてはじめて成長していくものです。聖霊による生まれ変わりを体験した者は、それに続く聖霊の満たしによってはじめて、聖霊が与えてくださった新しいいのちに生きることができるようになるのです。聖霊の満たしとは、聖霊によって生まれ変わった者を、新しいいのちに生かすものなのです。
二、聖霊の満たしと聖霊による信仰告白
第二に、聖霊による信仰告白について考えてみましょう。赤ちゃんが生まれたとき、産声をあげるように、クリスチャンも、神の子として生まれた時、信仰の告白をします。信仰の告白が大切なことは、ローマ10:9-10に、はっきりと書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」心で信じるだけでは人は救われません。キリストへの信仰を口で言い表わす必要があります。では、口で言い表わすだけで良いのかというと、そうでもありません。心に信じてもいないことを口先だけでいくら唱えても意味がないのです。心で信じることと、口で告白することが結びついて人ははじめて救われるのです。そして、その信仰の告白でいちばん大切なのは、「あなたの口でイエスを主と告白し」とあるように、「イエスは主である。」ということです。
「イエスは主である。」という時の「主」という言葉には「神」という意味があります。イエスは、正真正銘の人ですが、同時に、聖霊によって処女マリヤに宿り、世に来られた神です。人となられた神です。「イエスは主である。」というのは、イエスが神であるということです。また、「主」という言葉には「支配者」という意味があります。イエスはすべてを支配しておられるお方です。イエスはその復活によって死にさえも打ち勝って、生も死も支配しておられます。イエスがすべてのものの「主」であるなら、イエスは私の人生の「主」であり、私はイエスのしもべであるはずです。
ところが、罪は人を高ぶらせ、あたかも自分を中心に世界が回っているかのように思いこませます。そして、自分のまわりの人が自分の思いどおりにならないと腹を立てたり、不満をもらしたりするのです。だれも自分をしもべにすることなしには、イエスを主と呼ぶことはできませんが、人間の生まれつきの性質、「肉」は、自分を主にしてしまうのです。イエスに出会うまで、イエスがどんな方であるかも知らず、知ろうともしなかった私たちが「イエスは主です。」と告白することができたのはどうしてでしょうか。それは、聖霊が私たちを「イエスは主です。」という告白に導いてくださったからだと、聖書は教えています。コリント第一12:2-3に「ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」とあるとおりです。
では、このように、イエスを主と告白することが聖霊の満たしなのでしょうか。聖霊の満たしは聖霊による信仰告白にもとづいてはいますが、それと同じものではありません。「イエスは主です。」という信仰告白に導かれ、救われたとしても、その時点では、イエス・キリストについてほんのわずかなことしか知っていません。広大なキリストの恵みのほんのひとしずくを味わっただけです。聖霊によってイエスを「主よ。」と呼ぶことができるようになりましたが、自分の信じるお方を知りはじめたに過ぎません。私たちが、信じているお方を知り、自分が告白している信仰の内容を理解するのは、聖霊の満たしによらなければできません。聖霊の満たしが、私たちに信仰の奥義を明らかにし、主を知る知識を授けてくれるのです。
三、聖霊の満たしと聖霊による救いの保証
第三に、聖霊による救いの保証について触れておきましょう。聖霊が、イエスを信じる者に救いの保証を与えてくださることは、エペソ1:13-14ですでに学びました。そこには「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」とあります。皆さんの聖書には、自分の名前がプリントされていますか。皮表紙の聖書などを買うと、表紙に金文字で名前を入れてもらえることがありますが、そのような聖書を持っておられますか。そうでなければ、きっと聖書に自分の名前を書いたり、スティッカーを貼ったりしているでしょう。そうすることによって「これは私のもの」だと宣言しているのです。神もまた、救われた者たちに、聖霊というシールを貼って、「あなたはわたしのものだ」と宣言してくださっているのです。
「私が神のもの」だというのは、なんと幸いなことでしょうか。しかし、聖霊が救いの保証であるというのは、「私が神のもの」であるということだけでなく、「神は私のもの」であるということでもあるのです。私が、聖霊をいただいているなら、「私が神のもの」であるということだけでなく、「神は私のもの」であるということになります。「私が神の所有物である。」というのは、分かりやすいのですが、「神が私の所有物である。」というのは、何かおそれおおい気がします。しかし、神は、キリストを信じる者に「あなたはわたしの民」と呼んでくださるだけでなく、ご自分を「わたしはあなたの神」とも呼んでくださっています。ヘブル11:16に「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。」ということばがありますが、神が、私に聖霊をくださり、私のようなものの神となっていてくださる恵みに、私はいつも感動を覚えています。
救いの保証としての聖霊をいただいているというのは、なんと素晴らしいことでしょうか。しかし、私たちが聖霊を持っているというのは、「私は、ビリー・グラハムにサインしてもらった聖書を持っている。」「私はハーレ・ディビッドソンを持っている。」というのとは違います。聖霊は生きておられるお方であって、品物のようには所有することはできません。聖霊に「そこにいてくださるだけでいいです。必要な時はこちらからお願いしますから、私に働きかけないでください。」と言うことはできないのです。聖霊に働いていただくことをしないで、聖霊をただ持っているだけというのは不可能です。ですから、救いの保証として聖霊をいただいているのだから、それ以上のものはいらない、聖霊の満たしはいらないということはできません。救いの保証は、聖霊の満たしによってもっと確かなものにしていかなければなりません。聖霊は救われた者の身分や立場を保証してくださいますが、私たちが「聖霊の満たし」を受けないかぎり、私たちはその身分や立場にふさわしく生きることはできないのです。聖霊の証印についてはエペソ4:30にも書かれていますが、そこでは、「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」とありました。クリスチャンは、聖霊の証印をいただいていても、聖霊を悲しませることがあるのです。聖霊を悲しませてばかりいるクリスチャンが、神を喜び、神に喜ばれるようになるには、聖霊の満たしが必要です。聖霊の満たしによって私たちは実際に神の子どもらしくなり、罪からきよめられていくのです。聖霊の保証をいただいていることをほんとうに確信し、感謝する者は、それに続く聖霊の満たしを求めるはずです。
クリスチャンの生活は、聖霊による生まれ変わり、聖霊による信仰告白、そして聖霊による救いの保証によって始まります。私たちは、聖霊の満たしを求める前に、聖霊による生まれ変わり、聖霊による信仰告白、そして、聖霊による救いの保証をしっかりと確認しておきましょう。こうした土台がなければ、それに続く聖霊の満たしもありません。聖霊による生まれ変わり、聖霊による信仰告白、そして聖霊による救いの保証を確認できたなら、次の段階へ、聖霊の満たしへと進みましょう。「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)とあるように、聖霊で始まった救いは、聖霊によらなければ完成することはありません。神は、私たちを神の子どもとして生んでくださいましたが、生みっぱなしにしてはおられません。私たちを愛し、世話し、育て、成長させてくださいます。神は、私たちの霊的な成長のために「聖霊の満たし」を備えてくださいました。「御霊に満たされなさい。」と命じられた主は、それを備えて待っておられます。「主よ、私を聖霊で満たしてください。」との祈りをもって主のもとに行きましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは私たちを聖霊によって生まれ変わらせ、聖霊によって信仰の告白へと導き、聖霊によって救いの保証を与えてくださいました。私たちは、これだけでももう十分だと思ってしまいがちですが、聖霊の満たしなしには、新しいいのちに生きることも、自分の信じるお方を理解することも、そして救いをより確かにすることもできないことを知りました。聖霊の満たしによって、救いのすべてを得させようと願っておられるあなたのみこころを感謝します。そのみこころに従い、聖霊の満たしの中に生きる私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
2/11/2007