5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。ペンテコステは、聖霊が弟子たちに降りエルサレムで教会が始まった日で、とても大切な日ですが、アメリカでは、この日はあまり祝われることがありませんでした。世界中でクリスマスが祝われ、キリストがこの世に来てくださったことを覚えるのに、聖霊が来てくださったことが祝われず、あまり覚えられないのは残念ですね。アメリカでは誕生日が大切にされ、また国の誕生日である July 4th が大きく祝われるのですから、教会の誕生日であるこの日も、おおいに祝って良いと思います。
さて、このペンテコステの七週前弟子たちは、イエスが十字架にかけられ死なれたために、まったく失望落胆し、またユダヤ人を恐れて逃げ隠れしていました。やがて弟子たちはイエスが復活されたことを知り、信仰と希望を取り戻しました。しかし、彼らは、キリストの復活の後すぐに「イエスはよみがえられた、キリストは生きておられる。」と、伝道をはじめたわけではありません。弟子たちには、まだそれだけの力がありませんでした。よみがえられたキリストに出会っていても、まだ、復活の事実とその意味を良く理解することができなかったのです。けれども、ペンテコステの後、弟子たちは別人のように変わりました。弟子たちは、キリストの復活の意味を聖書にもとづいて理解し、このキリストを、確信をもって、大胆に宣べ伝えました。迫害にもへこたれることはありませんでした。それは弟子たちが聖霊に満たされていたからでした。
今日のアメリカに住む多くの人たちは、物質的には満たされた生活をしています。ここでは教育の機会に恵まれ、言論の自由が保証されていて、知識や情報に欠けることはありませんし、精神的なケアを受ける機会もどの国にもまさっています。なにより、アメリカではどこの町にも教会があって、聖書やクリスチャンの本がグロッサリストアでも売っており、テレビでもラジオでも私たちは、二十四時間、聖書のメッセージを聞くことができます。しかし、このように恵まれた環境の中にあっても、すべてのクリスチャンが、クリスチャンであることを本当に幸いであると実感し、魂の奥底から、平安や喜び、力や愛で満たされているわけではありません。信仰の自由のない国、迫害のある国、極端に貧しいい国のクリスチャンのほうが、もっと喜びに満たされているということがあるのです。私たちは、どのようにしたら、霊的に満たされることができるのでしょうか。初代のクリスチャンのように、力に満たされた歩みができるのでしょうか。ペンテコステのこの日、ご一緒に、私たちに必要な聖霊の満たしについて考えてみましょう。
一、聖霊の満たしは何でないか
聖霊の満たしは、聖書の多くの個所にしるされています。使徒の働き2章は、ペンテコステの日に弟子たちが聖霊に満たされ、大胆にキリストを宣べ伝えたことが書かれています。ペンテコステの出来事は、歴史の中で一度かぎりの出来事ですが、その時に弟子たちが聖霊に満たされた、その聖霊の満たしは、クリスチャンの生活の中で繰り返されるものです。エペソ人への手紙5:15-21は、私たちの日常生活の中での聖霊の満たしを教えており、今日の私たちにとって関わりの深い個所ですので、今朝は、この個所から聖霊の満たしについて学びましょう。この個所は、まず「聖霊の満たしは何でないか」ということをまず、語っています。聖霊の満たしがこういうことであると言う前に、聖霊の満たしがこういうことではないということです。18節に「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて」とあり、聖霊の満たしと酒に酔うことが比較されています。ある人は、ここでは聖霊にみたされることは、酒に酔った時のように、いい気分になること、この世のことを忘れてしまって夢見ここちになること、陶酔してしまうことだと言うでしょう。たしかに、聖霊に満たされた状態が、酒に酔ったような状態に見える場合もあるでしょう。実際、ペンテコステの日に聖霊に満たされた弟子たちを見た人々は、弟子たちをあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ。」(使徒2:14)と言いました。しかし、ペテロは立ちあがって、「この人たちは、あなたがたが思っているように酒に酔っているのではない。」(使徒2:15)と語っています。
聖霊に満たされることと、酒に酔うこととを同じようなものと考えるのは、聖霊の満たしを知らないこの世の人の考え方です。エペソ5:18は「酒に酔ってはいけない。…むしろ御霊に満たされて」と言っています。英語では、"not be drunk with wine, but be filled with the Spirit" と訳されています。"not ... but" という言葉遣いから分かるように、「酒に酔うことではなく、御霊に満たされることですよ。」と、酒に酔うことと、御霊に満たされることとが、同類のものとして並べられているのではなく、正反対のものとして対比されているのです。
酒に酔った人は、大声でわきまえのないことをしゃべったり、あちらにふらふら、こちらによろよろと人にぶつかったりして、本人は気分がいいのかもしれませんが、周りの人にはとんだ迷惑なものです。御霊に満たされることが霊的に酔いしれることに取り替えてしまう人がいますが、そういう人は、自分はいい気分でいるかもしれませんが、酒に酔った人と同じように、周りの人に迷惑なことをしてしっているかもしれません。5:15〜17に「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」とあります。聖霊に満たされた歩みは、神のみこころにしたがってまっすぐ歩む歩みであって、決して何かに酔った、ふらふらした歩みではありません。
もし私が「御霊に満たされた」と言って、あと何時間も延々と説教したらどうなるでしょうか。皆さんが疲れ果ててしまって、みことばの恵みがどこかに飛んでいってしまうことでしょう。特別な例外は、むろんありますが、神は秩序の神であって、毎週、毎週そんなふうにはお導きにならないのです。酔っ払った人が他の人のことを考えられないように、霊的に酔っているだけの人は、決して神をあがめているのでなく、独り善がりなことをしているだけで終わってしまうかもしれません。
以前もお話ししましたが、Bryan Jeffery Leech という人がこんなふうに祈っています。「父よ、私があまりに敬虔になりすぎて、実際生活の中からあなたを締め出すことのないようにしてください。」("Father, keep me from being so pious that I keep You out of the practical areas of life.") 考えさせられますね。信仰深そうなことを口にし、言葉巧みに聖書を論じることができたとしても、実生活の具体的なことがらにいいかげんであったり、だらしなかったり、自分勝手であったら、それが本当に霊的なことでしょうか。聖霊に満たされるということは、日常のことを超越してしまうことではありません。むしろ、日常の義務を、聖霊の助けを頂いて、忠実に、また、喜んで果たしていくということです。聖霊ご自身は、目に見えないお方、隠れて働かれるお方ですが、聖霊は常に、目に見えるもの、形あるものを、私たちのうちに生み出してくださるお方です。私たちは御霊に満たされて、私たちの生活と人生の中に、神の恵みや真実を目に見える形であらわしていくのです。
二、聖霊の満たしは何であるか
では、聖霊の満たしとは何なのでしょう。エペソ5:19-21に「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」とあります。実は、ここに出てくる「語り」「歌い」「賛美し」「感謝し」「従う」という五つの言葉は皆、分詞の形、英語では、"speaking" "singing" "making melody" "giving thanks" "submitting to" となっています。分詞、"〜ing" がつくことばは、原因を表わしたり、状況をあらわしたり、結果を表わしたりしますが、ここでは結果を表わしていると考えられます。つまり、御霊に満たされたなら、「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合う」「主にむかって心から歌う、賛美する」「父なる神に感謝する」「互に仕え合う」という結果が生まれるのです。
18節で「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。」とありましたが、酒に酔うことから出てくるものは、「乱行」つまり、自分の欲望を満たすだけの罪深い行いです。しかし、御霊に満たされたことから出てくるものは、互いに徳を高めあうこと、主イエス・キリストを賛美すること、神に感謝すること、そして、互いに仕えあうということ、つまり、神と人への愛の実践です。ガラテヤ5:19-23に「肉の働き」と「御霊の実」が比較されています。肉の働き、つまり、人間の罪深さから出てくるものは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」です。いやなものばかりですね。「泥酔、宴楽」というのは、「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。」という言葉にぴったり一致します。しかし、御霊の実、つまり、聖霊が生み出してくださるものは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」です。すばらしいものばかりです。ガラテヤ人への手紙が肉の働きと御霊の実を比較対照しているように、エペソ人への手紙も、酒に酔うことと、聖霊に満たされることとを、両者がが生み出すものを比べることによって比較しています。
21節の「互いに仕え合う」ということは、その後、5:22-33の「夫と妻の関係」、6:1-4の「両親とこどもの関係」、6:5-9の「主人としもべの関係」において、もっと具体的に論じられています。聖霊に満たされること、御霊の満たしとは、このように、神への礼拝、教会の交わりの中だけのものではなく、家族の関係の中にも、職場での人間関係の中でも働くものなのです。聖霊の満たしは、私たちの感情の満たし以上のものであること、日々の生活に密着したものであることが分かります。
三、どうしたら聖霊に満たされるか
では、どうしたら、聖霊に満たされるのでしょうか。聖霊の満たしを考える前に、私たちは、まず、神を信じ、イエス・キリストを信じているかどうかを確かめておかなくてはなりません。聖霊の満たしは、イエス・キリストを信じて、すでに聖霊を受けている人に与えられるものだからです。コリント第一12:2-3に「ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」とあります。聖霊は、私たちを満たす前に、私たちを、イエス・キリストを信じるという信仰告白に導きます。私たちを新しく生まれ変わらせて、私たちの内に住んでくださいます。聖霊の満たしは、その後に続くもの、聖霊に導かれてクリスチャンになった人に与えられるものなのです。あなたは、主イエス・キリストを信じ、イエス・キリストによって救われている、聖霊が私のうちに住んでいてくださるということを確認できたでしょうか。
このことが確認できたなら、次に進みましょう。18節の「聖霊に満たされなさい」という言葉をくわしく見てみますと、まず第一に、この言葉は、「満たしなさい」ではなく「満たされなさい」と、受身形になっています。自分で満たすのではなく、聖霊に満たしていただくのです。聖霊に満たされるというのは、ご馳走をいっぱい食べて、満腹感を楽しむというのとは違います。また、聖霊の満たしとは、お金があって、健康で、何のトラブルもないという状態のことではありません。むしろ、トラブルの中で、神から来る平安に満たされること、クリスチャンであるからというので、つらくあたる人がいても、そうした人々を愛し仕えていくこと、そうしたことが聖霊に満たされるということなのです。聖霊に満たされるとは、自分の願いどおりの状況を願い求めることではなく、神のみこころに、神のなさることに対して受身になること、つまり、自分を明け渡すことなのです。聖霊がすでにあなたの心にいてくださるのなら、その聖霊に自分の心を、生き方を支配していただくことなのです。
第二に、「御霊に満たされなさい」という言葉は、命令形になっています。満たされるというのは、受身なのだから、ただ待っていればいいというのではありません。これは命令形ですから、私たちの側で、何かすべきことがあるのです。それは、満たしを求めることです。イエスは言われました。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイ5:6)飢え渇きなしに、満たしはありません。私たちは自分で自分を満たすことはできません。私たちを満たしてくださるのは聖霊です。しかし、私たちに出来ること、しなければならないことがあるのです。それは、満たしを求めることです。ルカ11:9-13でイエスはこう言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。…あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。…天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」愛の神、真実な神は求めるものを、聖霊で満たしてくださるのです。
第三に、「御霊に満たされなさい」という言葉は、進行形になっています。「満たされ続けなさい」ということです。「一度満たされたからもういい。」というものではないのです。私たちの環境は刻一刻と変化しています。対処しなければならないことは次々と起こってきます。失望したり、落胆したり、迷ってしまったり、怒りが込み上げてきたりということが繰り返されるのが私たちの人生です。私たちは、日々刻々、「満たされつづけている」必要があります。
そして、神が私たちに何かを命令される時、神はかならず、その命令を行う力を与えてくださるということも覚えていましょう。神の命令は、神の約束でもあるのです。「聖霊に満たされなさい。」という命令は、同時に「わたしはあなたを聖霊で満たす。」という神の約束です。この約束を信じましょう。そして、聖霊に満たされたら、こんなふうにするであろうことを、やり始めてみましょう。さきほど、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という個所にある五つの言葉は分詞の形で、聖霊に満たされた結果を表わすとお話ししました。聖霊に満たされているなら、私たちは喧嘩や論争でなく、人々と平和のうちに語り、賛美の歌を歌い、神に感謝し、キリストと他の人に喜んで仕えることでしょう。そうなら、今ここで、まず賛美を始めてみましょう。感謝してみましょう。自分を主張し続けるのでなく、人に仕えてみましょう。私たちが聖霊の満たしを信じて一歩踏み出すと、そこに聖霊が働いてくださり、そこから私たちは満たされるていくのです。ペンテコステのこの日、私たちの日々の生活の中に、今も聖霊の満たしがあることを信じ、それを求め続けていきましょう。
(祈り)
求める者に聖霊をお与えくださる父なる神様、あなたは、キリストを信じる者に聖霊をお与えくださり、あなたを「父よ」と呼ぶことができるものにしてくださいました。聖霊をいただき、聖霊に生かされ、聖霊に導かれている私たちですが、それでも、私たちは、自分の力の足らなさを感じることがしばしばです。あなたは、そのような私たちのために、聖霊の満たしをも約束してくださいました。「御霊に満たされなさい」この命令は、あなたの約束でもあります。あなたの約束に信頼して、あなたのご命令に従います。私たちをあなたの御霊で満たしてください。御霊の満たしが、教会ばかりでなく、家庭の中に、職場の中に、日々の生活の隅々に現われ、あなたの御名があがめられるものとなりますように。私たちに聖霊を送ってくださった主イエス・キリストの御名で祈ります。
5/19/2002