聖霊との関係

エペソ4:29-32

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4:29 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
4:31 すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32 互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

 一、聖霊の役割

 きょうは、教会のカレンダーでは、主イエスが天にお帰りになったことを記念する日曜日、「主の昇天主日」です。主イエスはイースターの日から四十日の間、弟子たちにご自分が生きておられることを示されてから、天にお帰りになりました。主イエスが天にお帰りになることは、世界の救いのために、どうしても必要なことでしたが、弟子たちにとっては、とても心細いことでした。弟子たちはいままでのように主イエスの顔を見、声を聞くことができなくなるからです。それで、主イエスは、ご自分に代わる、もうひとりの助け主、聖霊を与えると約束されました。聖霊は、イースターから五十日目、ペンテコステの日に、弟子たちに降りました。

 御子イエス・キリストは、天から来られて、わたしたちに、天におられる父なる神を示してくださいました。主イエスが天に帰られた後は、聖霊が、イエス・キリストを示してくださるのです。主イエスは聖霊によって地上のわたしたちとも共にいてくださるのです。

 主イエスは「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。…わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:6,9)と言われました。神は「父」と呼ばれていますが、それは、神が御子イエスの父であり、御子イエスを信じる者たちの父となってくださるからです。わたしたちは、神の御子イエスを知り、信じて、はじめて、ほんとうの意味で父なる神を知ることができます。そして、イエス・キリストを正しく知ることができるためには、聖霊が必要なのです。聖書に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(コリント第一12:3)とある通りです。このことをまとめて言うなら、「わたしたちは、聖霊によって、イエス・キリストを通し、父なる神のもとに行くことができる」ということになります。

 わたしたちの人生の幸いは、神との正しい関係から来ます。わたしたちを造ってくださった神から離れては、人生の目的を知ることができませんし、たとえ知ったとしてもそれを達成する力を持つことができません。霊の父である神のもとに帰るまで、わたしたちの霊は安らぎがなく、満たされることがありません。神との正しい関係に導かれて、神から来る幸いを味わえば味わうほど、神を信じる以前の暗さ、虚しさがより分かってくるものです。そして、わたしたちを神との正しい関係へと導き入れてくださったイエス・キリストに感謝せずにはおれなくなります。イエス・キリストはわたしたちを神との関係へと導き入れてくださり、聖霊はイエス・キリストとの関係へと導いてくださいます。ですから、わたしたちは、父なる神との正しい関係、イエス・キリストとの信頼の関係とともに、どうしたら、聖霊との親しい関係を持つことができるかを知っている必要があるのです。きょうは、聖霊との関係について、「このようであってはいけない」と言われていることを学んでおきましょう。

 二、聖霊に対する罪

 聖書は、わたしたちが聖霊に対して「このようであってはいけない」ということを教えるため、聖霊に対して犯す四つの罪について語っています。神に対する罪や人に対する罪というのは誰もが分かることですが、「聖霊に対する罪」については、そういうものがあることさえ知らなかったという人が、案外多くいます。そのため、聖霊に対する罪を気付かないで犯してしまうことがあります。聖霊に対する罪は決して軽いものではありません。聖書は、よく注意し、この罪を避けるように教えています。

 聖霊に対する四つの罪の第一は、「聖霊をけがす」罪です。主イエスに敵対したユダヤの指導者たちは、主イエスが聖霊によってなさった奇蹟を、サタンのしわざであると言って、それをあからさまに否定しました。「聖霊をけがす」とは、明確な聖霊の働きを否定することです。イエスは、そういう人たちにむかって「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」(マルコ3:28-29)と言われました。父なる神や主イエスに対する罪よりも、聖霊に対する罪が重いのはなぜでしょうか。わたしたちも、キリストを信じるまでは、「神なんかいらない。信仰など必要ない」と言って、神に対して頑固で反抗的な態度をとっていました。しかし、そうしたことは、よく知らないためにしたことで、聖霊が真理を知らせてくださった時、悔い改めて、赦されました。聖霊はわたしたちに悔い改めを促してくださるのですが、それさえも拒否するなら、もう赦しの道がなくなってしまうのです。父なる神に対する罪は主イエスがとりなしてくださり、主イエスに対する罪は聖霊がとりなしてくださるのですが、聖霊に対する罪は誰もとりなすことができないからです。これは非常に厳しい言葉ですが、神の御子であり、万物の主であるお方が、「アーメン、アーメン、わたしは言う」と前置きして語られた言葉です。主の言葉に、姿勢を正して向かいたいと思います。

 聖霊に対する罪の第二は、「聖霊に逆らうこと」です。ステパノは迫害を受け、ユダヤの指導者の尋問を受けましたが、それにひるむことなく、「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである」(使徒7:51)と言って、ユダヤ人の罪を責めました。ここで「聖霊に逆らう」とは、真理を知りながら、繰り返し、繰り返し、それに逆らうことを意味しています。これは神の民と呼ばれる人たちが犯す罪です。神の言葉を与えられながら、それに逆らい続けることは、神の言葉の与え主、聖霊に逆らうことになるのです。

 第三の罪は「聖霊を消す」ことです。テサロニケ第一5:19に「御霊を消してはいけない」と教えられています。聖霊は、聖書では「ともしび」や「炎」にたとえられています。「ともしび」はものごとを識別する知恵を表わします。何が神に喜ばれることで、何がそうでないかを見分ける知恵は聖霊から来るのです。また、聖書には「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕えなさい」(ローマ12:11)「神の賜物を、再び燃えたたせなさい」(テモテ第二1:6)などといった言葉があって、聖霊がわたしたちに、熱意や忍耐を与え、わたしたちの心を燃やしてくださることが教えられています。ですから、「聖霊を消す」というのは、真理を求める思いや、神に対する熱心や誠実さを失くしてしまうことを意味します。聖霊がわたしたちのうちで働き続けてくださることを願い求めていきたいと思います。

 三、聖霊の悲しみ

 第四の罪は「聖霊を悲しませる」罪です。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけません」とあります。

 「聖霊を悲しませる」という言葉は、聖霊が、決して、たんなる力や影響力ではなく、ご人格であることを教えています。聖霊が、たんなる力や影響力であれば「悲しむ」ことはありません。聖霊が悲しまれるのは、聖霊が、ご人格であり、父なる神、御子イエス・キリストと等しい、生ける神であることを教えています。そして、わたしたちと聖霊との関係は、機械的なものではなく、人格と人格との関係なのです。

 神を悲しませるもの、それは罪です。とくに、罪を悔改めようとしないことです。主イエスは「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」(ルカ15:7)と言われました。神がこんなにも悔改めを喜んでくださるということは、逆に言えば、悔改めがないことをどんなに悲しんでおられるかということになります。神は、ノアの洪水のとき、人を造ったことを「悔いて、心を痛め」た(創世記6:6)と聖書に記されています。わたしたちが「悔いる」という言葉を使うときには、何か失敗をして、それを悔やむときです。しかし、完全な神は失敗なさることも後悔なさることもありません。「悔いる」という言葉は、そのあとに続く言葉が説明しているように、人が罪に落ち込んでいくことに、神が「心を痛めた」という意味です。「悔いる」という言葉は、神の深い悲しみを表わしているのです。

 この神の「悲しみ」は主イエスが、エルサレムをご覧になって嘆かれたことの中に、見ることができます。主は言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」(ルカ13:34)主がこうおっしゃった時、主の目には涙があったことでしょう。

 父なる神が悲しみ、主イエスが悲しまれるように、聖霊も、悔改めのない心や態度を悲しまれます。聖書には「母なる神」という言葉はありませんが、神がまるで母親のような心で、私たちのことを心にかけてくださるという言葉はたくさんあります。さきほどの主イエスのお言葉にも、「めんどりが翼の下にひなを集めるように」とありました。神は「父性」だけでなく、「母性」の愛も豊かに持っておられ、聖霊はとくに、わたしたちに対して母親のように接してくださるお方です。こどもが何か悪いことをしたとき、父親はそれに対して怒り、叱りつけるかもしれませんが、母親はこどものしたことについて悲しみ、心を痛めます。わたしたちお互いは、そんなふうにしてどんなに母親を悲しませてきたでしょう。また、母親になった人の中には、そのような悲しみを味わった人、味わっているも少なくないと思います。ですから、皆さんにも、「聖霊が悲しまれる」ということが分かっていただけると思います。

 では、聖霊をけがさず、逆らわず、消さず、悲しませないために、わたしたちは、聖霊とどのような関係を保てばよいのでしょうか。聖書は「聖霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と教えています。聖霊に満たされるとは、どういうことなのか、それについてお話しする時間は、もう無くなりました。来週、ペンテコステの日にそのことをお話したいと思います。最後に、ひとつの証しを紹介して終わります。

 以前奉仕していた教会には、何人か病院で働いている医師が何人がいました。そのひとりからこんな証しを聞きました。彼はある入院患者を担当していました。ある日、最後の患者を診察し、長かった一日の仕事を終え、駐車場に向かい、車に乗り、シートベルトを締めようとしました。すると、その時、彼は、聖霊が心に語りかけるのを感じたのです。「最後に診察した患者のところに、もういちど行きなさい。」その時、彼は「主よ、どうしてですか。私はちゃんと自分の仕事を果たしました。もう疲れていて、早く家に帰って休みたいのです」とつぶやいてしまいました。けれども、聖霊の声に聞き従って、再び病室に向かいました。その患者は、ドクターが自分のところに戻ってきたので、何か悪い知らせでもあるんだろうかと驚きましたが、ドクターは「ぼくは、今、医者として来たのではありません。ひとりのクリスチャンとして、あなたのために祈りたいのですが、いいですか」と言って、患者のために祈りました。その患者は、自分の病気のことで必要以上の心配をかかえこんでいたので、まさに祈りを必要としていたのです。患者が平安に満たされたばかりか、彼もまた一日の仕事の疲れをいやしてあまりあるものを体験することができました。

 もし、彼が、聖霊の声を消してしまったら、彼も、彼の患者も自分たちを満たすものを体験できなかったでしょう。聖霊は、その導きに従おうとする者、神と人への愛に生きようと励んでいる者に働きかけてくださいます。聖霊の声を聞き分け、それに聞き従い、いつも聖霊との正しい関係を保ち続けたいと思います。きょう、聖霊はあなたに何を語りかけておられるでしょうか。悔改めて神に立ち返ることでしょうか。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けることでしょうか。神とのまじわりの時をもっと持つことでしょうか。他の人と和解することでしょうか。聖霊の声を聞きましょう。そして、聖霊の声を聞いたなら、それに応えて、一歩を踏み出しましょう。そうすれば、聖霊があなたを真理に導き、力と喜びで満たしてくださることでしょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、天にお帰りになった主イエスの代わりに、わたしたちに聖霊を送ってくださいました。御言葉を通して語りかけ、祈りを通してわたしたちのうちに働いてくださる聖霊を感謝します。聖霊を消すことなく、悲しませることなく、聖霊の語りかけに聞き、聖霊の働きを受け入れるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/8/2016