4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
4:4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
4:5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。
一、教会の本質
使徒信条は、「我は聖霊を信ず」のあとに、「聖なる公同の教会…を信ず」と続けています。私たちは、使徒信条を唱えるたびに「教会を信ず」という言葉を繰り返すのですが、いったい、「教会を信ず」とはどうすることなのでしょうか。「全能の父なる神」と「聖霊」は目に見えないお方ですから、神や聖霊を「信じる」というのはよく分かります。「イエス・キリスト」は目に見えるお方で、初代の弟子たちは「見て、聞いて、手で触った」のですが、今日の私たちは、「イエス・キリストを見たことはない」し、「今見て」はいません。けれども、聖書にあるように、私たちはイエス・キリストを「愛しており、…信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(ペテロ第一1:8)信仰は、目に見えない事実を現実にし、今、ここで体験させてくれるのです。イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、この信仰の力を受けていることを、心から感謝したいと思います。
目に見えない神、キリスト、聖霊は「信じる」ものですが、教会は目に見えるものなのに、わざわざ「信じる」というのはどうしてでしょうか。教会は目に見えるものであるとともに、目に見えない面を持っているからです。教会は、そこに人が集まり、何らかの活動をし、組織や建物があるというだけのものではありません。それだけなら、他の団体と何も変わるところはありません。教会にはそれ以上のもの、もっと本質的なものがあります。それがなければ、どれだけ多くの人が集まっていても、また、盛んに活動をしていても、それは、教会とは呼べません。「教会を信じる」というのは、教会の目に見えない本質を、信仰によって知り、現実のものとするということなのです。
聖書では、教会は「神の民」、「キリストのからだ」、そして「聖霊の宮」であると呼ばれています。神は旧約時代にイスラエルを神の民として選ばれました。それは、神の救いを体験したイスラエルが、今度は他の国々に神の救いを告げ知らせるためでした。しかし、イスラエルはその使命を忘れてしまい、国々に神の救いを告げ知らせるどころか、自分たちの救いすら保てなくなってしまいました。それで神は新約時代に、あらゆる国々の中からイエス・キリストを信じる者たちを選び、彼らを神の民とし、キリストの救いを地の果てまで宣べ伝えるという使命をお与えになりました。教会は福音を伝えるという使命を与えられた新約時代の神の民です。
また、教会は「キリストのからだ」です。これは、キリストの手足となって働く「からだ」のようなものという意味ではありません。「キリストのからだ」だというのは、比喩ではありません。教会は、かしらであるキリストと命のつながりを持った、実際の「からだ」です。首を切られたからだが、もはや生きたからだでないように、キリストとの命のつながりを持たなければ、それは、生きた教会ではないのです。「キリストのからだ」と言われるときには、教会がキリストの命によって生かされ、成長し、実を結ぶものであることを言っているのです。
さらに、教会は「聖霊の宮」です。聖霊は、キリストを信じる者ひとりひとりのうちに住まわれるとともに、教会を「神殿」、「宮」、「聖所」として選び、神を礼拝し、神の栄光を現すところとされたのです。
教会が「神の民」であること、「キリストのからだ」であること、そして、「聖霊の宮」であることは、信仰によって、聖書から学ぶのでなければ、理解することができません。多く人にとって、教会は、クリスマスにはページェントを楽しみ、イースターにはエッグハントをするところ、バザーやコンサートに行くところかもしれません。クリスチャンもまた、恒例のイベントをこなしながら年月を過ごすだけで、教会の目に見えない面、つまり、教会の本質を見失っているかもしれません。
私たちは、使徒信条で「教会を信ず」と告白するたびに、教会にとって、目に見えるものがすべてではないこと、教会がたんなる人の集まりだけでなく、父なる神、キリストと聖霊のものであることに、あらためて気付かされるのです。そして、目に見えるものよりも、目に見えないものがもっと大切であることを教えられるのです。「教会を信ず。」この言葉によって、私たちは、教会が、神のもの、キリストのもの、聖霊のものであって、神からの使命を与えられ、キリストによって生かされ、聖霊によって聖別されていることを、再確認するのです。
二、教会の使命
そして、教会が「神の民」、「キリストのからだ」、「聖霊の宮」であることを信じ、それを確認するのは、教会が「神の民」として使命を果たし、「キリストのからだ」として成長し、「聖霊の宮」として、その存在を世に示すためです。「教会を信ず」というのは、たんに、「教会とはこういうものだ」ということを述べることではなく、教会を、そのようなものにしていくことなのです。
教会には「神の民」として、神の救いの恵みを告げ知らせる使命が与えられています。ペテロ第一2:9に、こうあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
初代教会は、宣教の教会でした。イエスが「あなたがたは…エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)と言われたように、使徒たちはキリストの証人となりました。ペテロはペンテコステの日に、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒2:32)と言って説教しました。弟子たちは、イエスの名によって語ることを禁じられたり、投獄されたりしても、「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です」(使徒3:15)「私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です」(使徒5:32)と言って、キリストを証しし続けました。パウロも、他の使徒たちと同じ使命を受け、キリストを証ししてきました。パウロはこう言っています。「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)そして、この使命は、使徒たちだけでなく、キリストを信じるすべての人にも、同じように与えられています。すべてのクリスチャンは、「キリストの証しびと」です。
「キリストの証人になる。」この使命は、初代教会から、21世紀の今日まで変わることがありません。一般の企業ですと、最初は駅馬車の会社であったものが銀行になったりして、ビジネスの内容が変わることがあります。けれども、教会は二千年間、「福音を伝える」という同じビジネスを続け、変わることがなかったのです。 “The same business in two thousand years.” これは教会の誇りです。そして、それはこれから後も変えてはならないものなのです。
今日、世界は狭くなりました。かつては、ヨーロッパやアメリカから宣教地に行くのに何ヶ月もかかりましたが、今では、一日、二日で、世界中どこにでも行けるようになりました。世界宣教は達成されたかのように思われていますが、共産主義やイスラムの国ではまだ福音を語ることが許されていません。かつては教会が栄え、多くの宣教師を送り出したヨーロッパは、今では、そこに行って福音を語らなければならない「宣教地」になっています。日本人のことを考えても、「キリスト教」についてはなんらかの知識はあっても、百人のうち九十九人には、まだキリストの福音が証しされていないのです。失われた一匹の羊の譬を語られましたが、日本人の場合は、百匹のうち九十九匹が失われた羊なのです。イエスは「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」(マタイ24:14)と言われました。福音はまだ全世界に宣べ伝えられていません。福音は、すべての国民に、また、それぞれの国のすべての人に証しされなければなりません。
しかし、どうやってそのことができるのでしょうか。それは、決してひとり、ふたりの宣教師や伝道者によってできるものではありません。マスメディアを使ってできるものでもありません。信仰を持つひとりひとりのキリスト者が、その置かれた場所で「キリストの証しびと」となり、身近な人々にキリストを証ししていくしかないのです。「教会を信ず」と告白するたびに、わたしたちに与えられたキリストを証しする使命を、新たにしていきたいと思います。
三、教会の一致
教会は「神の民」として、キリストを証しします。では、教会は「キリストのからだ」として何をするのでしょうか。エペソ4:13-16にこうあります。「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」
教会は「キリストのからだ」として、キリストのいのちによって育まれ、成長していくのです。教会には、外に向かって福音を宣べ伝えていくという使命とともに、自らを成長させていくという務めもあるのです。もちろん、成長させてくださるのは神ですが、キリスト者ひとりひとりにも、教会と自分自身の健全な霊的成長を目指していくためになすべきことがあります。教会は、自らが成長することなしには、出て行って福音を伝え、まわりの人々に仕える力を持つことができず、その実を結ぶことができないのです。
教会の成長にとって大切なことは、いくつもありますが、きょうの箇所には、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」(2、3)とあって、「一致」が教えられています。そして、この一致は、それぞれのローカル・チャーチの中での一致ばかりでなく、すべての教会の一致のことでもあるのです。「謙遜」、「柔和」、「寛容」、「愛」、「忍耐」、「平和」は、ひとつひとつの地域教会ばかりでなく、おひとりのキリストにつながるすべての真実な教会の間でも実現されなければならないのです。
聖書は、教会はもとより「一つ」であると教えています。日本語では「エペソの教会」、「ピリピの教会」と訳されていますが、原語では「エペソにある教会」「ピリピにある教会」です。ひとつの教会が、エペソにも、ピリピにも、そして、全世界にも散らばって存在していることを表しています。神は唯一でありひとつの神の民しかお持ちになりません。おひとりのキリストはひとつのからだしかお持ちになりません。「からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(4、5)とある通りです。この言葉は、どの国にある、どの教派の教会であれ、本物の教会は、他の教会から離れて、独立して存在しているのではないと教えています。
スポーツや、将棋や囲碁などの世界では、互いに競いあうことによって技術が成長していきます。しかし、教会の霊的な成長は、教会のメンバーが互いに競いあったり、この教会とあの教会、あの教団とこの教団が競いあってできるものではありません。エペソ4:16に「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」とある通り、私たちは、一致と愛の中ではじめて成長することができるのです。
そして、この一致が、人々にキリストの愛と恵み、救いを最も効果的に証しするのです。ピーター・ショルテス司祭によって作られた "We are one in the Spirit" という歌が、どの教会でもよく歌われるようになりました。
We are one in the Spirit, we are one in the Lord
We are one in the Spirit, we are one in the Lord
And we pray that our unity will one day be restored
And they’ll know we are Christians by our love, by our love
Yeah they’ll know we are Christians by our love
私たちは聖霊によってひとつ、主にあってひとつ。
私たちはこの一致が回復されるよう祈る。
その時、人々は私たちが主を信じる者であることを、
私たちの相互の愛によって知るだろう。
教会が「ひとつ」であることを覚え、一致を目指していくとき、私たちは、「神の民」としての使命を果たし、「キリストのからだ」として成長することができるのです。「われは教会を信ず」と告白するとき、教会の一致が現実のものとなるよう祈り、励みたいと思います。
(祈り)
父なる神さま。あなたはイエス・キリストを信じる者のただひとりの父で、私たちにひとりの救い主とひとりの聖霊をお与えくださいました。どうぞ、私たちが、おひとりの聖霊に励まされ、キリストを唯一のかしらとすることによって、一つのからだであることを証しすることができるようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
5/19/2019