キリストにある成人

エペソ4:11-13

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4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 先週は、クリスチャンの信仰の成長、教会の霊的な成長のためには、真理を知り、愛に生きることがどんなに大切かということを学びました。それによって、私たちはこどものクリスチャンからおとなのクリスチャンへと成長していくのです。今朝の箇所は、私たちがそのように信仰を成長させていくために、神がお与えになった具体的な手段が書かれています。それは、教会を指導する人々です。11節に「使徒、預言者、伝道者、牧師また教師」という人々があげられていますが、神はこうした指導者を通して、教会を建てあげ、私たちを成長させようとしておられます。先週学んだ箇所には、建てあげられていく教会の姿、成長していくクリスチャンの姿が描かれていたのですが、今朝の箇所は、どうしたら、そこにいたることができるかということが書かれています。私たちは、先週、先にゴールを学び、それから、そこにいたる方法を学ぼうとしています。聖書の順序が後先になりましたが、そのほうがわかりやすいかと思い、先週、先にエペソ4:14-16節を学び、今週は、11-13節に戻って学ぶことにしました。

 一、指導者の権威

 11節には、教会の指導者の権威について書かれています。ここには「使徒、預言者、伝道者、牧師また教師」と四種類の指導者があげられていますが、その権威は、キリストご自身から与えられたものであると教えられています。ここで言う、「使徒」とは十二使徒や、パウロのような特別な使徒のことを言います。「預言者」は聖書がまだできあがっていなかった期間、神からの啓示を受けてそれを伝えた人のことです。今日では、神のことばを解き明かす特別な賜物を与えられた説教者や神学者がその役割を果たしています。「伝道者」は、ひとつの教会だけでなく、ひろく各地の教会のために働く人で、今日の宣教師が、聖書の時代の伝道者に相当するでしょう。「牧師また教師」と言われているのは別々のふたりの人ではなく、「牧師すなわち教師」という意味で、ひとつの教会で働く指導者を指します。牧師の主な仕事がみことばを教えることなので、「教師」と呼ばれているのです。多くの人は、十二使徒や使徒パウロは、キリストご自身が任命したが、預言者、伝道者、牧師は、教会が任命したものだと、考えているかもしれませんが、聖書は、預言者も、伝道者も、牧師も、「キリストご自身が…お立てになった」と教えています。パウロは使徒でもあり、預言者でもあり、また伝道者、教師でもあった人でした。使徒13:1に「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。」とあります。「サウロ」というのは、パウロのもとの名で、彼は預言者、教師のひとりであったと言われています。パウロは、コリント第一12:28で「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師…」と言い、テモテ第二1:11には「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。」と書き、使徒20:28では、教会の長老たち、つまり牧師たちに「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」と語っています。使徒ばかりでなく、牧師もまた、直接神に選ばれ、キリストに立てられ、聖霊によって任命されたのです。牧師には、神からの直接の権威が与えられいます。

 牧師たちは、この世の制度から見れば、牧師は教会に雇われていることになります。それで、サラリーをもらっている牧師がサラリーを与えている自分に従うべきで、牧師が語る神のことばに従わなくても良い、牧師は自分の言うことを聞き、自分の願う通りに動けばよいのだと考える人たちが、残念ながら、教会の中にありました。霊的な面が何一つ分からず、人間的にしかものごとを考えない人々は、現代ばかりではなく、初代教会からいました。それでパウロは、テモテ第二4:3-4で「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」と警告しています。いつの時代、どの国でも、真理から離れては、教会は成り立ちません。神は、教会が真理を保つために、牧師、教師を教会にお与えになりました。牧師は、「教会にいれば便利だが、いなくても良い」という存在ではありません。組織の上では、教会が選び、教団が任命したことになってはいますが、実際は、キリストご自身がお立てになっておられるのです。神からの召命がはっきりしないで単に職業として牧師をしている人や、神からの権威を、教会を建て上げるためではなく、自分の利益のために使うような牧師がいないわけでもありませんが、正しい信仰を持ち、忠実に教会に仕えている牧師は、有名であるか無名であるにかかわらず、また、期待する賜物があるなしにかかわらず、キリストご自身がその教会に任命してくださった牧師なのです。そのことを思って、牧師も、教会員も、おひとりのかしらであるキリストの前に、いつでも、謙虚に出るものでありたいと思います。

 二、指導者の役割

 このように、牧師にはキリストご自身からの権威が与えられていますが、それは、牧師が、個人の好みを教会に押し付けたり、他の人を支配してよいということではありません。あらゆる分野のことを牧師が決定し、教会のカーペットの色まで、牧師が決めるようになったら、それは行き過ぎです。牧師が、ある特定の教会員の財産の処分に指示を与えたり、結婚相手を強制的に決めたりといったことをするようになったら、その教会はカルトになってしまいます。アメリカでも、日本でもそうした教会の数が増えており、実際、私たちの知人もそうした教会の被害にあったと訴えていました。牧師をはじめ教会のリーダにも与えられた権威は、決して、他の人を支配する権威、人の上に立つ権限ではなく、むしろ、他の人に仕える権威、他の人を支える権限です。自分たちが何もかもをしてしまうのでなく、教会員や他の人が奉仕ができるようにサポートするのが、牧師やリーダの仕事です。このことは、12節に「それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」ということばに言い表わされています。

 ここで、「整えて」という言葉には、「装備する」という意味があります。先日、サンロレンゾ教会で牧師会をしていましたら、突然、ポリスが入ってきました。紺色の制服に身を包み、腰には拳銃を着け、襟元には警察署との連絡のためのウォーキー・トーキーがついていました。そして、胸には「オークランド・キャプテン・ポリス」というバッジが光っていました。最初、みんな、びっくりしたのですが、サングラスをとった顔をみて、安心しました。それはロッド・イー先生だったのです。彼は、オークランド警察署のキャプテン・ポリスですが、同時に牧師の資格を持っていて、警察署でもチャプレンとして働き、正式な牧師が与えられるまで、サンロレンゾ教会の臨時牧師として働いていてくださっています。イー先生は、キャプテンとして、他の警察官に、拳銃やその他の必要な「装備」を身につけ、それを使いこなすことができるよう訓練しているのですが、同時に教会では、教会のメンバーが神のための働きに必要な装備を身につけることができるように働いているのです。

 では、クリスチャンが身に着けるべき、装備とは何でしょうか。それはエペソ人への手紙6章に、「神の武具」として描かれています。私たちから信仰を奪い取ろう、教会を壊そうと狙っている悪魔に対しては、人間的なもので対抗しても効き目はありません。霊的な戦いに勝利して、信仰を成長させ、教会を建てあげていくためには、「神の武具」が必要なのです。エペソ6章には七つの神の武具があります。まず、エペソ6:14では「腰には真理の帯を締め」とあります。腰から始まっています。「腰」という漢字は「からだのかなめ」と書きますように、腰が安定してなければ、からだはうまく動きません。腰は私たちの行動の基準を表わしています。そこには「真理の帯」が必要です。私たちの行動のすべては、神のことばの真理にもとづいていなければならないのです。第二に「胸には正義の胸当て」とあります。心臓を「ハート」と言うように、胸はこころを表わします。正義の胸当てというのは、私たちが正義の神を恐れ、正しい動機、正しい物の考え方でものごとを行なうことを表わしています。第三に「足には平和の福音の備え」(エペソ6:15)とあります。これは、イザヤ52:7に「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」とあるのを思い起こさせます。「福音の備え」は、私たちが向かうどこにでも、キリストの救いの福音を知らせることができるようにということを表わしています。

 第四に「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。」(エペソ6:16)と書かれています。「信仰の大盾」に身を寄せるなら、全身が守られます。「信仰の盾」ということばから、多くの人は、自分の信仰が自分を守ると思いがちですが、実際の盾は、神ご自身です。詩篇84:11に「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」とあります。神が私たちを守ってくださるのです。私たちは、この神の守りを認め、願い、それにより頼むのです。困難に遭った時、悲しみにうちしおれる時、身も心も弱まる時、私たちは、神のもとに身を寄せます。そのことによって、自分を責めたり、他を批判したり、やけになったりすることなく、悔い改めるべきことを悔い改め、静かに神を信頼し、悪魔の放つ火の矢を消すことができるのです。第五は「救いのかぶと」(エペソ6:17)です。かぶとは、もちろん、頭を守るためのものですが、同時に、兵士の位を表わすものでもありました。日本でも、戦国時代や江戸時代は、足軽は陣笠しかかぶっていませんでしたが、武将たちは、それぞれに自分たちの紋章をつけた立派なかぶとをかぶっていました。かぶとは武将の地位を表わすものでした。聖書でも「救いのかぶと」と言う場合、それは、私たちが救われて、神の子の身分を与えられているということを意味しています。救われて神の子とされているという救いの確信、それが私たちを守るのです。この確信は、聖霊によって私たちに与えられています。エペソ1:13に「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」とあります。私たちはキリストを信じる信仰によって救われ、神の子とされたのですが、その時、聖霊が「あなたは神の子ですよ。」という確認の証印、つまり、はんこを押してくださったのです。私の信仰だけでない、聖霊の証印が私を守り、支えてくれているのです。新聖歌256に「御翼のもとに」という賛美があります。「御翼われを覆えば、嵐猛る闇夜も、イエスに頼り安きあり。われは神の子なれば。」と歌われていますが、「私は神の子とされている。」という確信ほど、私たちを、さまざまな罪や誘惑、そして失望や落胆から守るものはありません。

 第六番目の武具は「御霊の剣」です。御霊の剣とは神のことばのことです。神のことばが御霊の剣と呼ばれるのは、聖書が、聖霊によって書かれ、聖霊によって解き明かされるものだからです。今までの、五つの武具、「真理の帯」、「正義の胸当て」、「福音の備え」、「信仰の盾」、「救いのかぶと」はすべて守りの武具でしたが、第六番目の「御霊の剣」は、攻撃の武具です。ヘブル4:12に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあり、コリント第二10:4には「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」とあります。主イエスが、神のことばによってサタンの誘惑をしりぞけたように、私たちも神のことばによって悪魔に打ち勝つのです。神のことばの剣を手にし、それを使いこなせるよう、たえず訓練を受けていたいものです。間違っても、御霊の剣がさびついていたり、みことばの剣が竹光だったということがないようにしたいものです。そして、七番目の武具は祈りです。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)とあります。武具で身を固めた後に、すべきことは、祈りであり、祈りもまた力ある武具なのです。祈りの力については、改めてお話ししなければならないほどの内容がありますので、ここでは触れませんが、長い間、神学の世界では、みことばと祈りは神が私たちにその恵みを伝える「恵みの手段」として覚えられてきました。牧師の主な仕事は、みことばと祈りに関わるものであり、恵みの手段に仕えるもの、教会員が恵みの手段にあずかるようにすることであると言っても良いでしょう。牧師たちがこの役割を良く果たすことができるように祈ってください。そして、クリスチャンのひとりびとりが、神の武具を、とりわけ、みことばと祈りをしっかりと身に着け、用いることができるように励んでいきましょう。

 三、指導者の目的

 教会の指導者は、キリストの権威によって、聖徒たちを整えるのですが、それには二つの目的があります。一つは教会を建て上げること、もう一つは、ひとりびとりをおとなのクリスチャンにすることです。エペソ4:12に「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを立て上げるため」とあります。信仰が整えられてはじめて、私たちは神に喜ばれる奉仕ができ、奉仕に励むことによって、信仰が整えられていきます。私たちの教会では、多くの人がさまざまな奉仕に励んでいてくださるので、奉仕については多くを語る必要がないほどです。むしろ、もう少し活動を減らして、自由な交わりの時を持つようにしたほうがいいのではないかと思うことがあります。私が常に願っていることは、教会の奉仕が義務や重荷になったり、自分がしたいと思っていることを達成するためのもの、つまり自己実現の手段になるのではなく、奉仕がそれによってより深く神とまじわり、信仰を成長させるものになって欲しいということです。キリストのためする奉仕、神にささげる奉仕は、自分が何かできたという自信を持つことや、誰かの役に立ったという満足を得ること以上に、それによってキリストのからだが建て上げられていくことを喜ぶためにあり、それによって、自分自身の霊的な成長を追い求めていくものためにあるのだと思います。

 ひとりびとりが大人のクリスチャンになっていくことについて、使徒パウロはコロサイの手紙にこう書いています。「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ1:28-29)牧師にはさまざまな仕事が期待されていますが、牧師の本来のつとめは、ひとりびとりのクリスチャンを「キリストにある成人」として立たせることにあります。私たちのようなサイズの教会では、どの教会でもそうかと思いますが、牧師が雑用からまぬかれるのは難しいことです。私も毎火曜日にごみを出し、ミーティングのためにテーブルを椅子をセットアップし、忘れ物をあずかったり、人探しを手伝ったりしています。印刷機のトラブル・シューティングなど、いろんな依頼が教会の内外からやってきます。電話に応対し、書類を作り、原稿を書くなど、実にさまざまな仕事があります。毎日何十通と来るEメールに目を通して返事を書くのも、結構時間がとられます。Eメールは便利なものですが、便利なものがかえって、私たちを忙しくさせる場合もあります。その上、理事会、執事会、牧師会、さまざまな委員会や教団の仕事もあります。そんな中で礼拝の説教のために、まとまった時間を取り、聖書の学びのための準備をするのはたやすいことではありません。皆さんの祈りを必要としています。牧師が本来の仕事に専念できるように、これからも祈り支えてください。牧師が本来のつとめに専念することによってはじめて、教会員は信仰に成長し、教会も成長していくことができると、私は信じています。

 私たちの信仰の成長は、キリストにあって生まれ変わるところから始まります。生まれ変わりは、どんなに強調しても強調しすぎることはありません。しかし、生まれ変わりが救いのすべてではありません。その後の成長もまたキリストの救いのご計画の中にあり、赤ちゃんのクリスチャンからこどものクリスチャンへ、こどものクリスチャンからおとなのクリスチャンへと、私たちは成長していかなければなりません。私は、このつとめの目的を忘れないように働きたいと願っています。教会員のみなさんも、「キリストにある成人」に成長していくという目的を目指してください。牧師も信徒も、同じ目的に向かって、一致して前進していきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、教会を、私たちひとりびとりがキリストにある成人として成長していく場としてくださり、牧師を聖徒たちを整えるものとして立ててくださいました。しかし、多くの人々は、教会が何であるかを忘れ、教会をたんなるソーシャルの場、あるいは、アクティビティの場のように考えてきました。そして、牧師をたんなる組織のマネジャーと考え、教会や牧師に与えられたつとめの信仰的、霊的な面を見落してきました。しかし、私たちは、牧師に与えられたつとめをよく理解し、牧師を通して与えられるあなたの訓練を進んで受けたいと願っていっています。牧師も信徒も、あなたから与えられた目的に向かい、キリストの教会が建てあげられていく喜びに共にあずかることができるよう、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/26/2004