4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
今年の冬は、例年よりも寒かったように思いますが、ヴァレンタインデーを過ぎて、春のおとずれを感じるようになりました。私の家の庭先のアイリスも、茎が伸び、つぼみが膨らんで、花を咲かせようとしています。命あるものは、少しづつではあっても、かならず成長し、時がくれば花を咲かせ、実をならせるのです。子どもも、やがて成長して、親と同じくらいの背丈になり、時には、親よりも背が高くなります。小さいうちは子どもが親を見上げていたのですが、大きくなると、親が子どもを見上げなければならなくなって、子どもを叱るときには、具合が悪いですね。キリストの命で生かされている教会も成長します。成長して、エペソ4:13にあるように、「キリストの満ち満ちた身たけにまで」になるのです。人間の場合は、子どもが親の身長を越えることがありますが、教会の場合は、「キリストの身たけ」を越えることはありません。ここで、「キリストの身たけ」と言っても、それはイエスの身長のことではありません。コロサイの手紙に「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)とありますが、これは教会がキリストの愛や恵み、きよさや正しさ、また知恵や力などに満たされて、それを人々に示すことができるようになることを意味しています。教会の成長には、メンバーの数が増えたり、活動が広がっていったり、新しい教会が生み出されるなど目に見えるものもありますが、それだけではなく、教会が、キリストにあって満たされ、キリストを表わすものとなるという、目に見えない面もあるのです。そして、実は、目に見えない面のほうが、目に見えるものよりももっと大切なのです。目に見えない部分の成長があって、はじめて、それが目に見える成長となって表われるからです。では、どのようにして教会は建て上げられていくのでしょうか。どのようにしてキリストのからだは、キリストの背丈にまで成長していくのでしょうか。今朝の箇所には、聖徒たちが整えられ、真理を知り、そして愛し合うことによってであると教えられています。この三つのことを順に学びましょう。
一、整えられることによって
まず、「聖徒たちが整えられる」という部分を見ましょう。12節に「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。ここで「聖徒」というのは、誰のことでしょうか。11節には「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」といった人々が出てきますが、こういう人たちが「聖徒」なのでしょうか。使徒たちは、聖パウロ、聖ヨハネ、聖ルカなどと呼ばれますが、ここで言われている「聖徒」は「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」たちによって導かれている信徒たちのことをさしています。聖書では、キリストを信じたものすべてを聖徒と呼んでいます。キリストによって罪をきよめられたからです。神の目には佐藤さんはセイント佐藤で、山田さんは聖山田ということになります。私たちの多くは、自分の姿を見ると、聖徒と呼ばれるような者ではないと感じますが、しかし、聖徒とされているという自覚が、私たちをきよめに導いてくれるのです。本当の意味できよめを理解している人は、「私はきよめられているから、このままで大丈夫」と成長をストップさせたり、「あの人はまだきよめられていなくて駄目だ」と他の人を見下したりすることは、決してないはずです。むしろ、キリストによってきよめられたことを信じるからこそ、さらにきよめを求め、キリストの背丈に近づこうとするのです。
教会ではこの「聖徒」たちが「奉仕のわざ」をします。奉仕のわざをするのは、教会のメンバーひとりびとりです。このことは、教会の歴史の中で長い間忘れられていました。教会で奉仕をするのは、牧師や教会の役員たちというごく限られた人々だけで、教会の他の信徒たちは、その人たちの働きを支えることであると考えられてきました。礼拝でも、賛美は聖歌隊だけが歌い、他のひとたちはそれを聞くだけでした。みずから礼拝するというよりも、礼拝を眺めるだけの観客として教会に来ていたのです。しかし、今は、みんなが観客席から降りてきて、積極的に礼拝に参加するようになり、また、奉仕のわざに加わるようになりました。かっての教会を舟にたとえるなら、大勢のお客さんを乗せた船を、牧師や役員がオールをこいで進ませていたようなものです。ですから、教会はなかなか前進せず、また成長しなかったのです。しかし、今は、みんながオールを手にしてこぎます。牧師や役員の仕事は、その舵をとることなのです。それぞれに、奉仕の分野は違っても、みんなが心を合わせ、力を合わせてオールを握る時、教会はそのゴールに向かって進んでいくことができるのです。
以前、ある教会に行き、礼拝プログラムを手にしました。どの教会の礼拝プログラムにも牧師の名前はかならず印刷されているのですが、この教会では、"Everyone is minister, Equipping minister is Pastor John Smith." とありました。エペソ4:12に「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」とありますが、「整える」ということばは英語では "equip" というので、この教会では、牧師を "Equipping minister" と呼んでいるわけです。ところで、みなさんは、"equip" ということばから何を連想しますか。私は、軍艦や戦闘機の「装備」を連想します。戦争に出かける時、軍艦や戦闘機は、ミサイルなどを積んでいくわけですが、「装備」を "equipment" と言い、「装備する」という時にも "equip" ということばを使いますね。エペソ6:13に「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」とありますが、牧師の仕事のひとつは、このことばのとおり、聖徒たちを、「真理の帯、正義の胸当て、福音の靴、信仰の大盾、御霊の剣である神のことば」(エペソ6:14-17)で装備することにあるのです。
骨を折った時、今ではギブスをはめますが、昔は、添え木をして、骨がくっつくのを待ちました。エペソ4:12で「整える」「装備する」と訳されている言葉は、その添え木を表わすのに用いられたことばです。聖徒たちが「整えられる」というのは、添え木が折れた骨を元通りにするように、霊的に壊れた部分が回復し、曲がったところがまっすぐにされるということをも表わすのです。最初の弟子たちが主イエスから訓練を受けたように、今日のクリスチャンも、教会で、キリストの弟子としての訓練を受け整えられていきます。その訓練は、実際に伝道が出来る、聖書研究を導くことができる、あるいはスモール・グループや教会の委員会を運営するという実際的なことばかりでなく、みことばや祈りによって、たましいの内側から整えられ、変えられていくことも含まれます。この霊的な部分が、教会の弟子訓練と、一般の教育との違いなのですが、私たちは、そのような霊的な部分を大切にしていきたいと願っています。「聖徒たち」のひとりびとりが、進んで弟子としての訓練を受け、整えられていくことによって、キリストのからだは建て上げられていくのです。
二、真理にもとづいて
次に13-15節から、教会の成長の具体的なゴールは、キリストを知る知識に進むことです。13節に「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあります。ここで、「信仰の一致」と「神の御子に関する知識の一致」というのは、別のものではありません。「信仰の一致」とは、すなわち、「神の御子に関する知識の一致」であるというのです。「信仰の一致」を言い換えたのが「神の御子に関する知識の一致」です。ということは、「信仰」とは「神の御子に関する知識」であると言うことができます。イエスも「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言っておられます。信仰の一致とは、たんに「みんな仲良くしましょう」と言って生み出されるものではありませんし、同じような考えや境遇の人たちが集まったからと言って作りだされるものでもありません。教会の一致は、同窓会や「○○県人会」の一致とは違います。境遇も、世代も、そして人種や言葉をも越えた、信仰の一致なのです。家内と私は、日本で伝道していた時、そんな体験を何度かしました。ある年の夏、アメリカからひとりの姉妹に来ていただいて、英語教室をしたことがあります。彼女は、学校で言語障害をもった子どもの指導にあたっていた人で、まだ独身の若い方でしたが、日本のことについて多くの知識をもっており、私たちは、彼女と、はじめて会ったのに、また、私たちの英語も不十分だったのに、信仰のことはもちろん、歴史や社会のことまで深く話すことが出来ました。国が違い、文化が違い、言葉が違い、年代が違っても、キリストを神の子として知る者たちの一致を味わうことができました。
「キリストを知る知識」といっても、もちろん、それは頭だけの知識ではありません。「キリストを知る」というのは、宇宙を観察して天体の法則を知ることや、物体を分析してその構造を知ることとは違います。キリストはパーソンです。ひとりの人格を知るというのは、何かの物事を知るのとは違います。また、人を知るといっても、いろいろな知り方があります。たんに名前や顔を知っているというだけのこともあれば、その人の仕事のことや家族のこと、さらには生い立ちまで知っているということもあります。さらに、その人と言葉を交わしたり、一緒に働いたりして、「その人について」ではなく、「その人自身」を知っているという知り方もあります。聖書が「キリストを知る」という場合、それは「キリストについて」知っているというだけでなく、「キリストご自身」を知るということを言っています。キリストを信じ、心に迎え入れ、キリストと共に歩み、キリストに語りかけ、キリストのことばを聞く、そのような知り方をするように、そのような知識に進むようにと、聖書は教えているのです。
私たちは、このような意味で、キリストを知ることにおいて、成長したいと願います。14節と15節に「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とありますが、いつまでも「子ども」のようであってはならないのです。コリント第一13:11に「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」とあります。現代は、「ピータパン・シンドローム」といって、年齢ではおとなになっても、子どもの時の考え方、生き方をやめていない人が多いようです。状況の判断がきちんとできず、周囲の人々を思いやることもなく、おとなになっても、あいかわらず、幼児の時と同じように自分のわがままを通そうとする、未熟で、幼児的なおとなが増えていると言われています。しかし、キリストを信じる者はそうであってはなりません。聖書は「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(コリント第一14:20)と教えています。神の前には幼子のような純粋なこころを持ちながらも、信仰的にはおとなでありたいものです。教会には、クリスチャンの成長を助ける様々なプログラムが用意されています。みんながそうしたものに積極的に参加し、キリストを知る知識に成長していく時、教会は「子ども」の段階から「おとな」の段階に成長し、キリストの背丈に向かって成長していくことができるのです。
三、愛のうちに
では、最後に、キリストのからだが「愛のうちに」建てられることを見ておきましょう。さきほどは、キリストを知る知識を強調しましたが、もし、知識だけで愛がなければ、その知識はむなしいものになります。聖書は「たとい私が、…あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ…ていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」(コリント第一13:2)と言っています。また「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(コリント第一8:1)ともあります。愛のない知識は、役に立たないどころが、他の人を傷つけるものにさえなることがあります。しかし、逆に、知識のない愛は、盲目になります。本当の愛は、真実に目をつむって、善も悪も一緒にして、何でもかでも受け入れるといいうことではありませんね。むしろ「愛は…不正を喜ばずに真理を喜ぶ」(コリント第一13:6)のです。ピリピ人への手紙には「あなたがたの愛が真の知識とあならゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」(ピリピ1:10)との祈りがあります。知識は愛を必要とし、愛は知識を必要とするのです。愛と真理の、切っても切り離せない関係は、エペソ4:15の「愛をもって真理を語り」ということばにみごとに要約されています。しかし、これは実行するには難しいことです。人への配慮を優先させようとして、間違ったことに目をつぶったり、真理を曲げてしまうことがないともかぎりません。また、真理を守ろうとするあまりに、人をさばいてしまったりすることがあるかもしれません。「愛をもって真理を語る」というのは決して簡単なことではありません。しかし、簡単なことでないからこそ、そこに、神の助けが必要なのであり、私たちの神への信頼が必要となるのです。私たちには不可能と思えることでも、神は、愛と真理が並び立つ道を備え、私たちに、その道を歩む力を与えてくださいます。ですから、ひとつひとつの場面で、安易な妥協でもなく、ひとりよがりな主張でもなく、祈りをもって取り組んでいきましょう。
エぺソ4:16に「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」とあります。ここで言われている「備えられたあらゆる結び目」とは、人間のからだでいう関節のことです。関節があるので、私たちの骨は、それぞれにつながり、一つのからだになるのです。また、関節によってからだは、自由に動き、働くことができます。関節が無ければ、体はじっと立っているか、寝たままで、何の働きもすることができません。キリストのからだである教会で、関節の働きをするのは、愛です。ひとりの主を愛する愛がなければ、私たちは、ばらばらのままで、決してキリストのからだになることはありません。同じように教会の中に、互いを愛し合う愛がなければ、それぞれがどんなに有能で、熱心であっても、教会は、ひとつになって神のために働くことができないのです。関節のない人間のからだを考えることができないように、愛のないキリストのからだを考えることはできません。愛によってはじめて、教会はキリストのからだとなり、それを成長させることができるのです。
キリストによって整えられ、キリストを知るものとなり、キリストにあって愛しあうものとなって、キリストのからだを建てあげていきましょう。「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりは各器官なのです。」(コリント第一12:27)
(祈り)
父なる神さま、教会は、あなたのみこころの中に長い間隠されていましたが、キリストの十字架によって贖い取られ、その復活によって命を与えられ、聖霊によって、歴史の中に存在するものとなりました。あなたは、教会に必要なすべてのものを備えていてくださっており、教会がどのように建てられ、成長していくのかということについても、聖書の中にその道筋を明らかにしてくださいました。どうぞ、私たちに、あなたのご指示に従う従順な信仰を与えてください。教会がキリストのからだであり、ひとりびとりがその器官であることの自覚を与えてください。ひとりびとりが整えられ、真理を知り、愛に生きることによって、キリストのからだを建て上げさせてください。教会のかしら、主イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/22/2004