4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
一、救いと歩み
エペソ人への手紙の学びに三ヶ月のブランクがありましたが、今日より4章から再開しましょう。エペソ人への手紙は全部で6章ありますから、4章からはちょうど後半になります。しかし、4章から後半になるというのは、分量的にそうだからというのではありません。4章から新しい主題が始まり、内容的にも、1章から3章を第一部とすれば、4章から6章は第二部になるのです。
エペソ4:1の「さて」という言葉は、エペソ人への手紙の前半と後半、第一部と第二部とをつないでいる言葉です。小さな言葉で、見落とされがちですが、これは、ここになければならない大切な言葉なのです。エペソ4:1はギリシャ語で「私は勧める」「それゆえ」「あなたがたに」ということばで始まっています。どこかで見たことのある言葉だなと思って調べてみましたら、ローマ12:1も、ギリシャ語で、全く同じ言葉、同じ語順で始まっていました。ローマ12:1には「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」とありますが、ここでは、エペソ4:1で「さて」と訳してある言葉が「そういうわけですから」と訳されています。ローマ人への手紙では1章から11章まで神の救いの計画が説かれ、それに基づいて12章から、神の救いにあずかった者たちがどう生きるべきかを教えています。ローマ人への手紙は「そういうわけですから」という言葉を使って、神がこんなふうにあなたを救ってくださったのだから、あなたはこのように生きるべきだと教えているのです。ローマ人への手紙と同じように、エペソ人への手紙も、1章から3章で、神が私たちのために何をしてくださったかを説き、それに基づいて、救われた者が神のためにどう生きるべきかを教えているのです。ですから、エペソ人への手紙の「さて」もまた「そういうわけですから」と訳すのが良いでしょう。聖書は、救われた者に対して、たんに「このようにしなさい。あのようなことはしてはいけない。」と教えるものではありません。聖書は、私たちの生活について教える前に、神の救いについて教え、「そういうわけだから」と言って、「どのように」生活すべきかということだけではなく、「なぜ」そう生活すべきなのかを説いているのです。
私たちは教訓や倫理が好きです。「人間関係を良くする十の法則」「思い煩いから解放されるための七つの法則」などという話を好んで聞きます。そういった話のほうが、神の栄光や、天国の祝福、聖書の霊感などといった話よりも、もっと日常生活に役に立つと思われています。しかし、神を信じ、神に従う歩みは、たんなる教訓や倫理によって達成できるものではありません。表面的な生き方なら、こんな場合はこうする、あんな場合はああするということだけでできるのかもしれませんが、ほんとうに新しい生き方をしたいという時、また大きな課題や苦しみに直面させられたり、人生の危機に直面した時には、そういうものは何の役にも立たないのです。私たちの本当の歩みは、神の救いをみわざに基づいてはじめて確かなものとなります。神の救いのみわざと結びついてはじめて、そこから力を得ることができるのです。
二、恵みと歩み
最初に「さて」という言葉に目を留めましたが、次に「歩みなさい。」という言葉に目を留めましょう。ここで「歩く」というのは、日常生活のことをさします。「歩く」という言葉が、日常生活をさしている例は、聖書のさまざまな箇所に見ることができます。エペソ人への手紙にも、「愛のうちに歩みなさい。」(エペソ5:2)「光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)「賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい。」(エペソ5:15)などの表現で、「歩く」ということばが7回出てきます。この7回の最初に出てくるのが、エペソ2:2です。エペソ2:2には「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」とあって、私たちの過去の姿が描かれていました。キリストを信じる以前、私たちは、自分では気づかずにいましたが、罪の中に死に、この世の流れに流され、サタンや悪霊に従う歩みをしていたのです。救われる以前は、「愛のうちに歩く」どころか憎しみと恨みの中を歩いていました。「光の子どもらしく歩く」どころか闇の中を歩いていました。「賢い人のように歩く」ことができず愚か者のようにさまよい歩いていたのです。いや、私はそんなことはない、神を知らずとも、愛のうちを歩き、光のうちを歩き、賢い生き方をしていたと言える人はあまりいないと思います。エペソ2:1〜3によれば、キリストを信じる以前の私たちは、罪と、この世と、サタンと、そして自分の欲望という四つのものにがんじがらめになっていたのです。
そんな私たちに、いきなり「愛のうちを歩め」「光のうちを歩め」と言われてもできるものではありません。それで神は、罪の中に死んでいた私たちを生かすため、イエス・キリストを地上に遣わされました。キリストは十字架でご自分の命を捨てることによって、私たちに命を与え、死者の中から復活されることにより、私たちをサタンから解放してくださいました。キリストはよみがえられて後、天にお帰りになることによって、私たちをこの世から引き上げ、天の御国の民としてくださいました。そして、天から聖霊を遣わし、信じる者の心をきよめてくださるのです。このキリストの救いがあってはじめて、私たちは、愛のうちに、光のうちに歩くことができるようになるのです。
この死から命へ、闇から光への転換点を描いているのが、エペソ2:4〜6です。こう書かれています。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」キリストは、この世の暗闇を歩いていた者を、天に引き上げ、天の王座にご自分とともに座らせてくださったのです。旧約時代の預言者たちも、新約の使徒たちも、神の栄光の御座の幻を見ただけで、その栄光に打たれて死んだようになったのに、私たちは、こともあろうにその栄光の御座にキリストとともに座っているというのですからこれは驚きです。どうしてそんなことができるのでしょうか。それは、すべてキリストの恵みによるのです。エペソ2:5〜6は「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」と続けて言えば文章としてわかりやすいのに、わざわざ文章を中断させ、その真ん中に「――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――」ということばを入れています。なぜそうしたのでしょうか。私たちに天の御座に座るという、信じられないような栄光をもたらしたのは、神の恵み以外の何ものでもないからです。もし、キリストの恵みがなければ、神の栄光は罪ある私たちを滅ぼしてしまうだけのものでしかないでしょう。キリストの恵みがあるからこそ、私たちは、神の栄光をあがめることができ、その栄光にあずかることができるのです。
「天の御座に座」っている自分を、みなさんはどのようにして心に描いていますか。私は、キリストの恵みによって私に与えられた特権を思い見ることによって、そのことをしています。キリストによって私は罪赦されました。自由に神に近づくことができます。神の民とされ、神を礼拝し、神に仕えることができます。神の子どもとされ、神に愛され、神を愛することができます。私は、キリストによって与えられた新しい立場、身分、特権を思い見ることによって、キリストとともに天の御座に座っているということを実感しています。
エペソ2:10は「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」と教えています。私たちは決して行いによっては救われませんが、神は、救われた者たちが「良い行いに歩む」ことができるようにしてくださいました。しかし、「罪の中にあってこの世の流れに従い、不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいた」私たちが、「良い行いに歩む」ためには、まず、キリストとともに天の所に「座る」必要があるのではないでしょうか。古い歩みをやめて、キリストとともに「座る」ことによってはじめて、私たちは、新しい歩みを始めることができるのです。キリストの恵みの座に行き、そこでキリストの恵みを深く心に刻むことによって、私たちの歩みは、はじめて地についたものとなり、神に喜ばれるものとなるのです。神は、私たちに「歩め」と言われました。忙しく走り回れとはおっしゃいませんでした。あなたは、一日の歩みを始める前に、神と、神のことばの前に座しているでしょうか。立ち上がり、歩き出す前に、神の前に座り込んで、神の恵みと、恵みによって与えらた特権を思い見ているでしょうか。神の恵みによって、日々の生活の一歩を踏み出しているでしょうか。
三、召しと歩み
最後に、「召された」という言葉に目を留めましょう。「召される」という言葉は、今日では滅多に使わない言葉ですね。クリスチャンの間では、どなたかが亡くなられた時、「天に召された」と言います。しかし、エペソ4:1で使われている「召された」という言葉はそういう意味ではありません。
「召された」という言葉は、また、神によって特別な使命と職務を与えれていることを指します。使徒パウロは手紙を書くとき「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」などと名乗っていますが、この場合、「召された」というのは、パウロが使徒という職務を与えられたことを意味しています。しかし、エペソ4:1の「召された」という言葉は、その意味でもありません。もしそうなら、「召しにふさわしく歩みなさい。」というよりは「召しにふさわしく働きなさい。」と書かれたことでしょう。
ここで「召された」というのは、キリストの救いの中に招き入れられたという意味です。かつては神からさまよい出、神に逆らって生きていた者が、この世から呼び出され、神の民とされたということを言っています。「神は私たちをキリストにあるあらゆる祝福と特権に招き入れてくださった。そういわけだから、そのような者として日々の生活を送りなさい。」というのが、ここエペソ4:1が言っていることなのです。
「召しにふさわしく歩む」ために、神の召しに答えて歩むのに、大切なことは、いきなり何かをすることではなく、まず自分が、どんなところから、どんなところへ召されたのかをしっかり知ることです。神の「召し」を考える時も、「目的の四十日」で習ったように、doing ではなく being が先に来なければなりません。エペソ1:18に「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか…を知ることができますように。」とあります。みなさんは、自分がどんなところから呼び出され、何にむかっているのか、知っているでしょうか。まず、神の召しについて知ること、深く知ることから始めましょう。ペテロの手紙第二1:10に「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。」とあるように、神の召しを理解し、それに堅く立つのです。
「召す」という言葉は「呼ぶ」という言葉と同じ言葉です。神は、この世から呼び出した者たちを新しい名前で呼んでおられます。昨年11月27日の礼拝で、聖書ではキリストが120もの違った名前で呼ばれているということを話しましたが、キリストが数多くの名前で呼ばれているように、キリストを信じる者たちも、「弟子」、「信者」、「神の子」、「天国の相続者」などと、数多くの名前で呼ばれています。みなさんは、自分がどんな名で呼ばれているかご存じでしょうか。自分に与えられた新しい名前をいくつ知っているでしょうか。召された「召し」がどんなものかを知り、理解し、そしてそれを確かなものにしていく、そこから「召しにふさわしい歩み」が生まれて来るのです。
神のために何かをするとき、神が私のためにしてくださったことに立ち返って、そこから出発する。それは、少々面倒なことに見え、遠回りをしているように思えるかもしれません。しかし、教会の礼拝で、日々の個人の祈りで、「神さま、あなたが私をどんなところに召してくださったのかを知らせてください。あなたの召しがどんなに力強く、約束と祝福に満ちているかを教えてください。そして、私を召しにふさわしく歩ませてください。」と祈り求めていくなら、私たちは、神が召してくださった道を踏み外すことなく、確かな歩みを進めることができるのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちに「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と命じてくださいました。しかし、私たちはあなたの召しが何であるのか、それがどんなに栄光に富んだものであるのかを正しく理解していません。「召しのもたらした望みはひとつ」とありますのに、召された者たちに与えられた共通の望みをみんなが理解し、ひとつにはなっていません。どうぞ、ひとりびとりが、何かをなす以前に、まず、あなたたがどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったのか、そして、私たちが、あなたによってどんな者とされたのかを深く理解することができるよう、導いてください。なによりも、すすんであなたの召しに答えようとする従順な心をお与えください。私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/1/2006