キリストの愛

エペソ3:17-21

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3:17 また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

 クリスチャンになって、おおくの人がとまどうのは、「何をどう祈ったらよいか。」ということではないかと思います。私はクリスチャンになる前から聖書を読んでいましたので、聖書を読むことについては苦労はしませんでした。教会に行くようになってたくさんの賛美歌や聖歌を覚え、賛美を歌うことも問題ありませんでした。けれども、自分の心の中にあることを、どんなことばで、どう祈ったらよいのか、すぐには分かりませんでした。そのうち、教会で他のクリスチャンと一緒に祈ることによって、何をどう祈ったらよいのか分かるようになってきました。それでも、みんなの前で「中尾さん、お祈りしてください。」と言われるとドキッとしてしてしまい、自分でも何を祈っているのか分からないようなこともありました。それで、祈りを学びたいと思い、祈りの本を何冊か買ってきました。そのうちの一冊、アンドリュー・マーレーの祈りの手引きは、私に宣教師のためにも祈ることを教えてくれ、祈りの範囲が広がったような気がしました。礼拝に行く前にはこう祈りましょう、病気の時にはこう祈りましょうという、祈りのお手本のような本も読んで、そこにある通りに祈ってみたこともありました。後に、礼拝でみんなが声をそろえて祈るために作られた「祈祷書」も読みました。私は、著名なクリスチャンの祈りを集めた本を持っていて、時々それを読みます。そうした祈りに触れることによって、私の祈りも少しは深められてきたように思います。しかし、最近思うことは、聖書に私たちがそのまま祈ることができる祈りがいくつもあるということです。主イエスが弟子たちにこう祈りなさいと教えた「主の祈り」はその代表的なものですし、150篇の詩篇のすべてが祈りです。また、パウロの手紙には彼の祈りが、そこかしこに書き残されています。聖書は、私たちに祈りについて教える書物であるばかりでなく、それ自体が祈りの書物なのです。聖書は祈りの書物として読むことができ、聖書の祈りをそのまま祈ることができる、聖書を祈るのです。先週、エペソ3:14〜17の祈りをそのまま祈ってみましたが、それはみなさんにとってはじめてのことだったでしょうか。今日は、その続きを学びますが、そののち、その祈りを一緒に祈ってみたいと思います。これを通して、みなさんも「聖書を祈る」ことへと導かれますよう、願っています。

 一、愛の基礎

 エペソ3:17〜19で使徒パウロはこう祈っています。「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」ここに愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」とありますが、この愛とはどんな愛でしょうか。それは、一般的な「愛」ではなく、神の愛、もっと厳密に言えば「キリストの愛」です。一般に、「キリスト教は愛の宗教である。」と言われます。「キリストは敵をも愛せよ。」と説き、使徒パウロは「最も大いなるものは愛である。」と教えたからだというのです。それで、多くの人がキリスト教で一番たいせつなのは愛であり、博愛の行いであると考えるようになりました。愛と真理は決して矛盾するものではないのですが、愛があれば真理はどうでもよい、愛があれば間違ったことも正当化されるというように、いつしか考えられるようになりました。聖書の愛が神の愛でなくなり、キリストの愛でなくなってしまったのです。これは、日本でのことですが、ある教会で、結婚式があって、ケーキに「神は愛なり」と書いてくださいとケーキ屋さんに頼んだのですが、届けられてケーキには「愛は神なり」と書かれていたそうのです。「愛はすばらしい。一番すばらしいものが神なら、愛こそ神だ。」と考えたのでしょう。しかし、「神は愛なり」と「愛は神なり」では大違いですね。聖書は、神こそが愛であり、すべての愛は神から出ていると教えています。

 そして、神の愛は、キリストによって私たちに示されています。聖書は「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:8-9)と言っています。私たちが「神の愛」を信じるというのは、たんに「博愛」を信じるということではなく、キリストが罪ある者を愛して、十字架で死んでくださった、あの愛、イエス・キリストの十字架の愛を信じるということなのです。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」というのは、このキリストの愛、十字架の愛を受け入れ、キリストの愛によって救われた人たちのことです。けっして、誰とでも仲良くできる人や慈善に励んでいる人という意味ではありません。誰とでも仲良くできれば、それにこしたことはないでしょうし、慈善に励むことも良いことでしょう。父の愛、母の愛、家族の愛、また、友情や隣人愛などすべてすばらしいものです。しかし、イエス・キリストの愛を知り、そこに根ざすのでなければ、キリストの愛を基礎にして家族の愛や友情、また教会での兄弟姉妹の愛を築きあげていくのでなければ、人間の愛はその供給源を失い、基盤を失ってしまいます。聖書は、博愛主義の愛ではなく、キリストの愛の上に自分自身を築きあげていくようにと教えています。聖歌227で

罪深き わが身に代わり、キリストは 十字架につき
命さえ 惜しまず捨てて、贖いを 成し遂げたまえり
と歌ったように、キリストが私の罪のために十字架で死んでくださった、その愛を私たちの人生の基礎にし、この愛に根ざして私たちの神への愛と、互いへの愛を育んでいこうではありませんか。

 二、愛の次元

 さて、聖書は、このキリストの愛について、それには「広さ、長さ、高さ、深さ」という四つの要素がある、キリストの愛は「四次元の愛」だと言っています。一次元の世界というのは、「線」の世界です。点Aと点Bとを結ぶと一本の線ができますが、それだけでは「長さ」はあっても広さはありません。AやBの他にCという点やDという点があって、AとBとC、あるいはAとBとCとDが結ばれて三角や四角ができます。広がりが加えられます。これが二次元の世界です。しかし、二次元の世界にはひろがりはあっても、奥行きはありません。そこに奥行きが加わったのが三次元の世界です。平面から立体になったもの、それが三次元です。最近は、コンピュータ・グラフィックスの技術が進み、3Dと呼ばれる、三次元の映像がつくられるようになりましたが、それは、正確に言えば三次元のように「見える」だけのもので、実際に三次元のものを作るわけではありません。コンピュータの画面や映画のスクリーンは相変わらず平面のままです。映像の世界は平面の世界ですが、現実の世界は立体の世界です。現実の世界は三次元の世界だと言っても良いのですが、実際は四次元の世界で、もうひとつの要素によって成り立っています。それは、「時間」という要素です。現実の世界は、時間という要素によって時々刻々変化していきます。ひとつとして同じものはありません。私のオフィスには、私たちがアメリカに来たばかりのころの家族の写真がありますが、こどもたちもまだ小さく、私もまだ髪の毛がもっとあってとても若く見えます。私の家のダイニングに、私と家内の婚約時代の写真があるのですが、これを見た人が「これが、中尾先生ですか。今と全然違いますね。」とおどろいていました。写真の中の私は何十年経っても変わりませんが、現実の私はずいぶん変わりました。写真の世界は二次元の世界で第四次元がないのですが、現実の世界は、四次元の世界で一瞬一瞬変化していく世界です。

 そんなことを考えながら、キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」という箇所を読んで、私は、キリストの愛が四次元の愛として描かれているのは、キリストの愛が四次元の世界に住む私たちのためではないだろうかと思うようになりました。聖書の時代の世界観と、現代の世界観は違ってはいますが、聖書の時代の人々も、自分たちの住む世界が、果てしもなく大きなものであることを知っていました。古代の人たちも、私たちと同じように、宇宙が果てしなく広大なものであり、この地球上には、自分たちの知らない多くの国々があり、そこには数多くの人々が住んでいることを知っていました。また、この世界が時々刻々変わっていく世界であることも知っていました。それを知った上で、聖書は、「キリストの愛の広さ」という言葉で、キリストの愛は、この世界よりも広く、キリストの愛はこの世界を包み込んでいると言っているのです。「キリストの愛の長さ」という言葉で、移り変わる時の流れの中に翻弄されている私たちをしっかりと支える、キリストの変わらない愛、永遠の愛の力強さを言い表しているのです。聖書の世界観には、広がりのある世界、時の流れの中に移り変わる世界とともに、神の高さ、聖さと罪と悪の深さ、暗さという世界があります。高い世界と深い世界です。現代の世界観には、神聖な世界の高さという概念も、罪と悪の世界の底深さという概念が欠け、それが忘れられていますが、神の高さ、聖さと罪と悪の深さ、暗さは現実のものとしてあります。「キリストの愛の深さ」という言葉は、キリストが罪の深みにいた私たちのために、その命を投げ出してくださった、深い愛を表し、「キリストの愛の高さ」は、私たちの罪を赦し、神のこどもとし、さらにきよめて、神のもとに近づけてくださる、聖い愛を表しています。キリストは「広さ」と「長さ」、「高さ」と「深さ」の四つの要素を持つ世界に生きている私たちを、この世界よりもより広く、より長く、より高く、より深い愛で包み込み、その愛で私たちを救い、導いてくださるのです。

 三、愛の理解

 この祈りは、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように」と祈っていますが、これは矛盾した祈りだと思いませんか。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」と祈っていますが、「人知を越えたもの」とは「知ることができないもの」なのに、それを知ることができるようにというのですから。しかし、考えてみれば、祈りというものは、多くの場合、矛盾したこと、目に見える状況に反したことを願うことではないでしょうか。目に見えるところは問題だらけで、解決の糸口さえ見つからない時でさえ、いいえ、そうした時だからこそ、私たちは神に解決を祈り求めるのです。どんなに計算しても新しい会堂を建てるだけの資金が無いときでも、神が与えてくださると信じて祈り求めるのです。人間の頭脳で理解できないものを、信仰によって理解させてください、体験によって知ることができるようにしてくださいというのが、祈りです。

 ピリピ4:14に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあります。この教えも、ある意味で矛盾した教えです。思い煩っている人に、「思い煩うな」と言うのは、墓に納められた死人に「出てこい」と言い、全身麻痺した人に「立て」というのと同じくらい無茶なことです。しかし、イエス・キリストは死んだ人に「墓から出てきなさい。」と言い、全身が麻痺した人に「立ちなさい」と命令され、そのとおりにされたお方です。キリストのことば、神のことば、聖書のことばにはそうした力があるのです。ですから、聖書は恐れている人に「恐れるな」と命じ、また、思い煩っている人に「思い煩うな」と命じるのです。この聖書のことばに聞き従って祈る時、不思議なことに思い煩いに代わって神への信頼が生まれてきます。状況は何も変わっていないのに、平安が心にやってくるのです。思い煩っている心からは絶対に平安は出てこないのに、それが心にわき起こってくるのです。それは、自分の心から出たものではなく、神が私たちに与えてくださる平安だからです。この平安は、理論で説明できるものではありません。聖書が言うように「人のすべての考えにまさる」平安です。みなさんは、こうした神からの平安を何度も体験していること思います。

 キリストの愛を知ることも、これと同じです。キリストの愛は人知で量り知ることができるような小さなものではありません。しかし、それは、人知では知ることができなくても、信仰によって理解することができます。理論では説明できなくても、キリストの愛が心に注がれ、キリストの愛に満たされる体験によって知ることができます。人の思い、考え、知識にまさるものを神は、祈りを通して知らせてくださるのです。

 キリストによって救われた者はみな、キリストの愛を知っています。けれども、私たちが知っているのは、キリストの愛のごく一部分にすぎません。キリストの愛はもっと広く、長く、より高く、さらに深いのです。それで、パウロは、私たちがキリストの愛を少しばかり知っただけで満足することなく、さらにキリストの愛を知るように、そして、その愛によって成長して、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされるように。」と祈っているのです。これはじつに、「大きな祈り」です。私たちの神は大きなお方なのですから、私たちの祈りも大きな祈りであるべきです。また、これは、じつに「貪欲な祈り」です。私たちは、霊的なことにはもっと「貪欲」であっていいのではないでしょうか。神は、私たちが、初歩の状態にとどまることなく、霊的なことにおいてより高いもの、より深いものを求めることを願っておられるのです。そして、それを願い求めるものだけが、それを得るのです。習慣としての祈りではなく、本気で祈ってみようではありませんか。誰か人のために祈るのではなく、自分自身のために祈ってみてください。キリストの愛をまだすこししか知らないということを正直に告白して、へりくだって祈りましょう。そのように祈る時、「人知をはるかに越えたものを知る」ことが矛盾でなくなり、私たちは「人知をはるかに越えたもの」を知ることができるようになるのです。

 エペソ3:20-21は「頌栄」です。神の栄光をほめたたえる祈りです。この「頌栄」の中で神は、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」と呼ばれています。ここでも、神のなさることは、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えていると言われています。祈った以上のことを、祈らなかったことまでも、神がかなえてくださっていることに気付くことがあります。神は私たちが祈らなかったことまでも答えてくださるのなら、祈らなくても良いのではないかなどという声も聞こえそうですが、そうではありませんね。祈り続けることによってはじめて、神が思いを越えて祈りに答えてくださることが分かるからです。祈りによって、私たちがキリストの愛をさらに深く体験できたとしても、それは私たちの祈りが立派だったからではありません。偉大な愛の神が私たちの小さな祈りさえ用いてくださったからに他ありません。キリストの愛を深く体験した時には、神に一切の栄光をお返ししましょう。

 私たちの日々の祈りが、みことばに導かれる祈りであるようにと、願いながら、「あなたがた」とあるところを「私たち」と代えて、聖書の祈りをごいっしょに祈りましょう。

 (祈り)

 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか、父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、私たちの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、私たちの信仰によって、私たちの心のうちに住んでいてくださいますように。愛に根ざし、愛に基礎を置いている私たちが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、私たちが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

6/25/2006