われらの父

エペソ3:14-16

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3:14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、
3:15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
3:16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

 「主の祈り」は「天にまします我らの父よ」という神への呼びかけで始まっています。これは、祈りが神との「対話」であって、決して「独語」(ひとりごと)ではないことを教えています。けれども、祈る対象がはっきりしないと、祈りは対話にはならず、独語で終わってしまいます。

 人は生まれつき手を合わせ、神に祈る心を持っています。それは他の動物にはないもので、神のかたちに造られた人間に与えられたものです。ですから、生まれて今まで心の中であれ、口に出してであれ、祈ったことのない人は誰もいないと思います。しかし、わたしたちはイエス・キリストを知るまでは、誰に、何を、どう祈ったら良いかわかりませんでした。祈る対象を知らないため、祈りがひとりごとになってしまっていました。

 しかし、主イエスは、わたしたちの祈りの対象が「天にまします我らの父」であることを示し、わたしたちに確かな祈りを教えてくださったのです。今朝は「天にまします我らの父よ」という呼びかけの中から、「我らの」という言葉の意味をご一緒に考えてみましょう。

 一、神の家族とともに

 わたしたちが神を「我らの父」と呼ぶのは、第一に、わたしたちが神を父とする他の人々とともに祈るからです。祈りはひとりぼっちでする孤独な作業でも、自分の願いだけを押し通すひとりよがりのものでもありません。神を父とする神の家族は、互いを思いやりながらともに祈りあいます。主イエスが教えてくださった祈りは、他の人とともに、また、他の人のために祈る祈りなのです。

 ともに祈る仲間は「神の家族」と呼ばれています。神が父であるなら互いは「家族」です。家庭でいちばん大切なのは、その中のどのメンバーも尊重され、愛され、また、互いが愛しあうことです。学校や会社では学力や能力によって、序列が出来上がり、競争があります。しかし、家庭ではそうではありませんし、そうであってはいけません。聖書はこう教えています。

すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。(ヨハネ第一5:1)

 先月行われた牧師会では、牧師や牧師夫人たちの奉仕によって教会の「祈り会」がリードされました。その時、「父親は自分の子どものためなら犠牲を払う。母親も反抗する子どもに我慢する。もし、他の人を自分にとって愛すべき人と考えることができたら、わたしたちは、もっと愛を実践できるのではないか」というメッセージがありました。その通りだと思います。神の子どもとされたとはいえ、わたしたちはまだ十分に神の子どもとして成長していません。そのために、神に喜ばれないことをして、互いに傷つけあってしまうことがあるでしょう。神を信じる者が善悪をあいまいにしたり、悔い改めないままでいてよいわけがありません。もし言葉や態度で相手を傷つけたり、間違ったことをしてしまったときは、神に赦しを願い、相手にお詫びしなければなりません。そして、その上で互いに赦し合い受け入れ合うことが大切です。相手を「神から生まれた者」として受け入れることができたら、神を愛する者は、神から生まれた者をも愛することができ、多くの問題がそれによって解決していくでしょう。

 牧師会の会場となった教会の掲示板に小さな鏡が貼ってありました。近づくと、自分の顔が写ります。その鏡のフレームを見るとそこに英語で "You are the one for whom Christ died." と書いてありました。これは、ローマ14:15の「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください」(新改訳)という言葉から取ったものです。自分が「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」であるというのは、なんと心強いことでしょう。もし、自分がそうなら、自分のそばにいるこの人も、あの人も同じように「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」なのです。自分だけをこの御言葉の入った鏡に写すのではなく、他の人もいっしょにその鏡に写し、互いを「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」として認め合っていきましょう。自分に向けられた神の愛は、同じように他の人にも向けられているからです。自分を大切な人間と思うなら、他の人もまた神にとって大切な人であることを知っていたいと思います。

 わたしは「主の祈り」を祈るとき、できるだけ他の人と手をつないで祈るようにしてきました。「我らの父」という呼びかけは他の人々との間にある壁を崩します。わたしたちを他の人と結びつけます。「我らの父よ」との呼びかけは、神への愛とともに、他の兄弟姉妹への愛をも育ててくださいとの祈りなのです。

 二、天の教会とともに

 神を「我らの父よ」と呼ぶことは、第二に、わたしたちを天にあるものと結びつけてくれます。わたしたちは、天にある教会とともに、父なる神を「我らの父」と呼んで祈るのです。教会は地上だけでなく、天にもあるのです。ヘブル12:1には「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」とありますが、これはすでに天に帰った聖徒たちを指しています。同じ12:23には「天に登録されている長子たちの教会」という言葉もあります。黙示録7:9には「見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた」とあって、天の教会の礼拝の姿が描かれています。エペソ3:15では神が「天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父」と呼ばれています。つまり、神は天にある教会、神の家族の父でもあり、地にある教会、神の家族の父でもあるのです。

 「教会の讃美歌」として知られている「教会の基」(新生讃美歌339)の4節には、

世にある民と  去りし民と
みたまによりて ひとつとなる
われらその日を 待ちのぞみて
主に会う恵み  与えたまえ
と、地上の教会だけでなく、天の教会のことも歌われています。

 しかし、わたしたちはふだん「天の教会」を意識することは少ないと思います。みなさんは天の教会を思って感動し、それにあこがれるということがあったでしょうか。あまりなかったと思います。わたしもそうでした。そんなわたしが天にある教会を強く意識したのは2007年のことでした。その年の1月に、ある大学のエクステンション・コースを受けました。そのときの先生が「祈りのリトリート」を主宰しているというので、その年の8月、そのリトリートにはじめて参加しました。自然に囲まれた会場と丁寧な指導、美しい賛美と礼拝に、また、参加者の真剣さにたちまち魅了されてしまいました。その時の礼拝で、「わたしたちの賛美が天の賛美に融け合いますように」と言って「聖なるかな」を歌ったとき、わたしは、数えきれない天使たち、セラフィム、ケルビムなどの天の生き物、そして、天に帰った聖徒たちが昼も夜も神をほめたたえているということを改めて意識しました。教会の礼拝は、地上だけのいとなみではなく、天につながっていることを実感しました。地上の礼拝は天の礼拝を再現するものだという思いも与えられました。

 現代の日本やアメリカでは、どうしたら教会が大きく、力を持つようになるかということに関心が持たれています。教会が大きく、強く成長していくことは、誰もが願うことであり、わたしたちもそのために祈り、励んでいます。しかし、その方法が世の中の企業と同じようにマーケティングやアドミニストレーションに頼り、結果だけを重視するようなことであったら、教会は天とのつながりを失ってしまいます。教会が天とのつながりを失ったら、人々を天と結びつけること、天に送り返すことができなくなってしまいます。地上のものは、どんなに栄えてもいつかは衰退します。天とのつながりを失った教会は、一時は栄えてもやがては消え去っていきます。わたしたちが目指すのは、天につながる教会です。

 キリストを信じる者たちにとって天はふるさとです。わたしたちは天に生まれた者、天に国籍を持つ者で、そこから天を証しするものとして地上に遣わされているのです。わたしたちの信仰の歩みは、天のふるさとに帰る旅です。神を「我らの父よ」と呼ぶとき、他の人との壁が取り除かれるだけでなく、わたしたちの上にかぶさっている屋根もとりはらわれ、天が開けます。わたしたちは、天を仰ぎ、天の礼拝に加わり、天の栄光の教会を目当てに進んでいくのです。神を「我らの父」と呼ぶたびに天を意識して祈りたいと思います。

 三、キリストとともに

 「我らの父」の「我ら」とは第一に「わたし」と「神の家族」、第二に「地上の教会」と「天の教会」でした。第三に、それは「わたし」と「キリスト」です。わたしたちはキリストとともに祈るのです。神を「我らの父」と呼ぶのです。

 神はほんらいは「イエス・キリストの父」です。ほんらいの神の御子はイエス・キリストただおひとりだからです。神は創造者でわたしたちは被造物。神は無限、永遠のお方でわたしたちは限りある者。神は、まったく聖なるお方でわたしたちは罪ある者です。ですから、主イエスだけが、神を父と呼ぶことができます。実際、新約聖書のおよそ40の箇所で、主イエスは神を「わたしの父」と呼んでおられます。けれども、主イエスを信じる者もまた神の子どもとなり、神を父とすることができるのです。主イエスはヨハネ20:17で「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」と言われ、神が主イエスの父であり、同時に、主イエスを信じる者の父でもあると言われたのです。

 マタイによる福音書でも主は神を「天にいますわたしの父」と呼ばれました。ところが、主は神を「天にいますあなたがたの父」とも呼んでおられるのです。たくさんの箇所がありますが、マタイ18:10-14を読んでみましょう。

あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。(中略)そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
これは、信仰者のまじわりの中で「小さい者」を軽んじないようにという教えですが、この中で主は神を「天にいますわたしの父」と呼ぶと同時に「天にいますあなたがたの父」とも呼んでおられます。神は主イエスの父です。しかし、同時に主イエスを信じる者の父ともなってくださったのです。神は主イエスと主を信じる者との共通の父、「我らの父」なのです。

 「主の祈り」はおそらく、主が口移しで弟子たちに教えたものと思われます。主が「天にまします我らの父よ」と祈ると、弟子たちもそのあとについて「天にまします我らの父よ」と繰り返したことでしょう。何度か繰り返すうちに、弟子たちはこの祈りを暗記し、主とともに声を揃えて祈るようになったと思います。弟子たちは主とともに「我らの父よ」と祈りました。それは、わたしたちも同じです。わたしたちもまた祈るとき、主が、「さあ、わたしとあなたの父にいっしょに祈ろう」という招きを感じます。信仰者といえども、迷います。神を見失うときがあります。何をどう祈って良いかわからないときもあるのです。そんなとき、主がともに祈ってくださるというのは、なんという慰め、励まし、力でしょう。主が祈ってくださるので、わたしも祈ることができるのです。神が主イエスとわたしとの「我らの父」であることを知る者は、いつ、どんなときでも、神に立ち返って祈ることができます。キリストによって、神はいつでも、わたしたちの父となっていてくださるからです。

 「天にまします我らの父よ。」この呼びかけのひとつひとつの意味をかみしめながら「主の祈り」を、そして、日々の祈りを祈り続けましょう。

 (祈り)

 神さま、わたしたちは「主よ、わたしたちに祈ることを教えてください」との御言葉に導かれて、祈りを学び、それを深めようとしています。わたしたちの教会から御言葉が世界に広がっていくためにも、わたしたちの教会を祈る教会としてください。この週も、わたしたちが他の兄弟姉妹と、また天の教会と、そしてなによりも、主イエスとともに祈る者となれますように。主イエスのお名前で祈ります。

4/19/2015