1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
聖書には、キリストと教会との関係がさまざまに描かれています。キリストはぶどうの木で教会はその枝です(ヨハネ15:1-8)。キリストは土台で教会はその上に立つ建物です(コリント第一3:10-11)。キリストは花婿で教会は花嫁であるとも書かれています(エペソ5:22-32)。「ぶどうの木とぶどうの枝」は、教会がキリストによって生かされていること、「土台と建物」は、教会がキリストに依存していること、「花婿と花嫁」は、教会がキリストによって愛されていることを教えています。他にも、キリストと教会の関係を表わすものがありますが、最も多いのは「かしらとからだ」という表現です。今日の聖書の箇所にも、「神は…かしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだです。」(22-23節)と言っています。キリストが教会の「かしら」であり、教会がキリストの「からだ」あるとは、どういうことなのでしょうか。
R. B. Kuiper は "The Glorious Body of Christ" という教会についての本の中で、「キリストと教会との関係は聖書に様々に描写されているが、キリストが教会のかしらであるという以上にそれを良く言い表しているものはない。キリストは教会の『契約的かしら』『有機的かしら』、そして『統治的かしら』である。」と言っています。『契約的かしら』『有機的かしら』、『統治的かしら』というと少し難しく聞こえますが、これは、キリストがかしらであることを三つの面から見ています。今朝は、R. B. Kuiper のアウトラインにしたがって、キリストのからだである教会にとって、キリストがどのような意味でかしらなのかを学ぶことにしましょう。
一、契約的かしらであるキリスト
「かしら」というと、ずいぶん古めかしい言葉に聞こえますね。時代劇に出てくる盗賊のリーダはたいてい「お頭」と呼ばれます。今でも、銀行の偉い人は「頭取」、政府の代表は「首相」、国家の代表は「元首」と呼ばれ、「かしら」という言葉が使われています。首相や元首という場合、その国のリーダという意味はもちろんありますが、今日ではその国を代表する者という意味のほうが強いように思えます。そして、首相や国家元首の主な仕事は、法律や条約に署名することで、その場合法的に政府や国家を代表しているのです。そういう役割を「契約的かしら」と言います。イエス・キリストは教会の実際の導き手ですが、同時に、契約的なかしらとしても、その役割を果たしてくださっていますので、まず、そのことからお話ししましょう。
キリストが教会の「契約的かしら」であるというのは、キリストが教会に属する者たちの代表となって、教会と教会に属する者を守っていてくださるということを表しています。企業でも、国家でも、誰が代表者であるかというのは、とても大切なことです。企業では社長がすぐれた人物で、業績をあげていれば、その会社に勤める人は、利益を受けます。ところが社長が悪事に手を染めるような人であれば、まじめな社員までも非難の的になり、会社が倒産して仕事を失うというようなことがあります。国家では元首が民主的な人であれば、国民は自由の恩恵を受けますが、独裁的な人であれば、国民は多くの束縛を受けて、絶えず不安の中にいなければなりません。会社でも国でも、大勢の人たちによって動いていますが、最終的な判断をくだす人はひとりです。家庭でも、その家族を代表する父親や主人の選択によって、家族全員が大きな影響を受けますね。私たちは、自分たちの代表者が誰であるか、何をしたかによってその結果を受け取るのです。
聖書は、私たちにはふたりの代表者、契約のかしらがいると教えています。アダムとキリストです。私たちはアダムの子として、アダムを代表者として生まれてきました。アダムから、人間に与えられた素晴らしい資質や能力を受け継いでいます。しかし、良いものと同時に、悪いものも引き継いでいます。アダムが神と神のことばに従わず、しかもすぐに悔い改めなかったことによって罪を犯しましたが、その罪と、罪の結果である死を引き継いでいるのです。ちょうど、水源地に毒を投げ込むと、そこから流れ出すすべての水が汚染されるように、すべての人はアダム以来の罪を引き継いでいるのです。こう言いますと、「アダムの罪のせいで私が罪人にされるのは納得できない。」という人もいるでしょう。では、あなたがアダムの立場だったらどうでしょうか。神と神のことばに従ったでしょうか。もしかしたらアダムよりももっとひどい罪を犯して、人類とこの世界をもっと救われ難いものにしてしまったかもしれません。しかも、アダムが源流に毒を投げ込んだばかりでなく、私たちも、心を汚し、罪を犯し続けることによって、せっせと毒を流し続けているではありませんか。社会を毒し、後の世代の人々に悪いものを与えているのは、アダムひとりではないのです。私たちは、たんにアダムの罪を論じ、人類の罪を嘆き、社会の罪を糾弾するだけでなく、自分自身の罪をしっかりと見つめなければならないのです。
罪とその起源は深い真理です。聖書はそれを単なる理論で片づけていません。理論は罪を解決しないからです。聖書は、私たちひとりびとりの内面の罪に光を当てています。使徒パウロは「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。…私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:14ー24)と告白しています。聖書の光に照らされて、自分の罪を深く認める時、私たちは、罪が何であるかが分かり、キリストによる罪の解決の素晴らしさが分かってくるでしょう。
アダムは人類の代表者として失敗しました。では、人間は永遠にアダムの失敗の中に閉じ込められてたままなのでしょうか。そうではありません。神は、アダムにかわる、もうひとりの代表者を立ててくださいました。それが、イエス・キリストです。キリストは神の御子であるのに、私たちを代表する者となるために、人間となって地上に生まれてくださいました。たいていの場合、社長の不始末は、社員がそれをかぶることになります。国家元首が国を間違った方向に導いたとしても、国民はその人への忠誠を求められ、その人を守るために犠牲を要求されます。しかし、キリストの場合は全く違います。私たちの代表者、かしらであるお方が、その下にいる私たちの罪や失敗のすべてを引き受け、罪と不従順に対する刑罰を受けてくださったのです。私たちがキリストを守るために命を捨てるのが当然なのに、キリストは私たちを救うために命を捨ててくださったのです。それが、あの十字架です。キリストは十字架の上でアダム以来の人類の罪のすべてを引き受け、私たちを神の前に正しいものとしてくださったのです。人々の上にかしらとして立つ多くの人は、自分を救うためにその下にいる人々を犠牲にするのが常ですが、私たちのまことの「かしら」であるイエス・キリストはご自分を犠牲にされた「かしら」なのです。
イエス・キリストは、栄光に輝くかしらです。しかし、同時にこのような恵み深い代表者となっていてくださるのです。アダムによる契約は「罪を犯したたましいは死ぬ。」という厳しいものです。しかし、キリストによる契約は、「信じる者に罪の赦しが与えられる」という恵みの契約です。私たちはイエス・キリストを信じるまでは、アダムをかしらとしており、罪の中にとじこめられていました。そこには罪の赦しも救いもありませんでした。しかし、イエス・キリストを信じた時、キリストは私たちのかしらとなってくださり、私たちに罪のゆるしと救いを与えてくださったのです。あなたは、まだアダムをかしらとしたままでしょうか。それとも、イエス・キリストをかしらとしているでしょうか。
二、有機的かしらであるキリスト
第二に、キリストは「有機的かしら」です。聖書は、キリストは教会の「かしら」、教会はキリストの「からだ」と言っています。「からだ」という言葉は、「共同体」や「団体」という言葉に「体」という漢字が入っているように、人間のからだでないものにも使います。それは、人間のあつまりがあたかも人間のからだのように機能するからです。「共同体」や「団体」という時、そこでは「からだ」という言葉が比喩的に使われています。しかし、聖書が「教会はキリストのからだである。」という時には、「教会はからだのようなものである。」という意味で使ってはいません。教会は実際にキリストの霊的なからだなのです。教会はキリストを信じる者たちが集まって作り出した団体や組織ではなく、かしらであるキリストから出てきたもの、キリストの一部だというのです。イエス・キリストを信じて教会に属している者は、たとえば、Santa Clara Valley Japanese Christian Church という名前のカリフォルニア州の公益団体に属しているというだけではないのです。キリストのからだに属し、かしらであるキリストご自身に、そのからだの一部分としてつながっているのです。単なる組織や団体なら、自分たちで規則を作り、お金を集め、人を集めて運営すればいいのですが、教会はそういうものではありません。まずなによりもキリストにつながり、キリストによって生かされ、キリストのみこころにしたがって動いていくのです。人間のからだが頭脳の命令によって生かされ、機能するように、からだである教会は、かしらであるキリストによって機能していくのです。
主イエスは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。ぶどうの枝がぶどうの木から送り込まれる養分によって実を結ぶように、教会もまた、キリストによって生かされて実を結ぶのです。ですから、教会にとって大切なことは、たんにファンドレイジングのために動き回ることや、次々と行事や活動をこなしていくことでも、やたらと会議を増やすことでもないのです。教会にとって大切なことは、ひとりびとりが、自分はキリストによて生かされているということがほんとうに分かって、キリストとのいのちのつながりの中に生きること、キリストを自分の人生の主として歩むことです。私たちはキリストを「主」と呼びながら、自分がキリストのしもべになっていないことがあります。相変わらず、自分が自分の主なのです。自分をキリストのしもべにしないかぎり、キリストをほんとうの意味で「主よ。」と呼ぶことはできません。キリストのからだに結びあわされた私たちが、そのようにしてキリストにつながっていることが、キリストをかしらとすることなのです。そして、私たちがほんとうの意味でキリストをかしらとする時、キリストは私たちのうちに豊かな実を結んでくださるのです。
三、統治的かしらであるキリスト
第三に、キリストは統治的かしらです。「統治的かしら」というのは、私たちを治めてくださるお方、キリストが王であるということです。キリストが王であるという場合、それは、キリストがクリスチャンだけの王であり、キリストは教会だけを治めておられるということではありません。キリストはすべてのものの王であり、万物の支配者です。エペソ1:20ー21に「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」とある通りです。ここで「神の右の座」というのは、神の最高の権威を表すところで、そこには天使たちでさえ座ることを許されていません。それは、イエス・キリストにだけ備えられた場所です。私たちのために人間となり、罪人となり、十字架の死さえも味わうほどに低くなられたイエス・キリストは、死に打ち勝って復活し、天に昇り、今、あらゆるもの上に座しておられます。「すべての支配、権威、権力、主権の上に」という表現は、キリストがその御座からすべてのものを治めておられるということを教えています。「今の世ばかりでなく、次に来る世においても」という言葉は、時代が代わり、どんな強力な王がおこり、支配者が世界に君臨するようなことがあっても、キリストの権威は決して揺らぐものではないという宣言です。
使徒パウロがエペソ人への手紙を書いたころ、ローマ皇帝は「主」と呼ばれ「神」と呼ばれていました。ローマの世界における最高の権威はローマ皇帝でした。しかし、パウロは、キリストこそ、ローマ皇帝をはじめとする、あらゆる支配、権威、権力の上におられるお方だと言っています。後に、クリスチャンは、皇帝を神としない有害な人々として迫害を受けるようになりますが、彼らは決して、「イエスは主である。」との告白を曲げることはありませんでした。そして、ついにローマ皇帝もまた、主イエス・キリストの足下に膝をかがめるようになったのです。まだ生まれたばかりの小さな教会のどこにそんな力があったのでしょうか。
それは、教会が、自分たちのかしらが、万物の主であることを良く知っていたからでした。エペソ1:22に「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」とあります。いっさいのものの上に立つお方が教会のかしらであるなら、どうして教会が他のものを恐れる必要があるでしょうか。政界や財界の有力な人を名誉会長などにしている団体が良くあります。皇族の名前を使う団体もあります。そうすることによって、自分たちの団体を権威づけたり、そうした人の人脈を利用して力を伸ばすためなのでしょう。教会も、この世の有力な人を迎えれば、強くなるのではないかなどと考える人もあるでしょう。しかし、教会は、そのようにして、自分を権威づける必要はないのです。教会にはすでに、すべてのものの支配者であるお方、最高の権威ある方がおられ、教会にはそのお方の権威が与えられているのです。主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。教会は、罪と死と悪魔に打ち勝つ権威があたえらえているのです。教会は、このキリストの権威が与えられていることを片時も忘れてはなりません。
しかも、教会は、この万物の主権者が満ち満ちていてくださるところです。エペソ1:23に「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。神は、この世界のすべてを造られました。神の栄光は、この大宇宙にも、また、肉眼では見えないような原子の世界にも満ちています。エレミヤ書23:24で神は「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。──主の御告げ。──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」と言っておられます。確かに神は、世界のすべてを満たしておられるお方であり、天にも地にも満ちておられるのですが、とりわけ教会には、満ち満ちておられるというのです。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)とある通りに、神はあらゆるものに恵みを注いでくださっています。しかし、神は教会には雨や太陽などといった一般的な恵み以上のもの、もっと特別な恵みを注いでいてくださっています。エペソ1:3に「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあるような、祝福です。罪のゆるし、永遠のいのち、神とのまじわり、義、栄光、天国の宝、などなど数え切れないほどの祝福の宝を、神は教会に与えてくださっています。その中でも、最高の祝福は、主がともにおられるということでしょう。教会には、他のところにはない主の臨在があるのです。主イエスは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束されました。キリストは、教会とともにいると言われました。キリストは、教会とともにいてくださる。教会の中に満ちていてくださるのです。そうであるのに、どうして、私たちは、すべてを満たすお方に満たされようとしなかったのだろうか、キリストのかわりに、経済や人材、組織や活動、方策やテクニックで教会を満たそうとしてきたのだろうかと悔やまれます。キリストのからだは、他のものでは満たされることはありません。かしらであるキリストによってしか満たされないのです。教会そのものに愛があり、力があり、いのちがあるというのではありません。それはみな、キリストのものです。キリストに満たされていない教会は「もぬけの殻」であって何の魅力もないものになってしまいます。そのことをしっかりと心に留め、キリストの愛に、キリストの力に、キリストのいのちに満たされ続けていく教会となっていきたいと強く願います。
キリストは教会のかしらとして、教会を守り、教会を生かし、そして、教会にいっさいの力を与えてくださっています。私たちは、このキリストのからだである教会にしっかりとつながることによって、かしらであるキリストの恵みと命と力とをさらに深く体験していきたく思います。
(祈り)
父なる神さま、今朝、私たちは、万物のかしらであるイエス・キリストを、教会のかしらとしてお与えくださったことを知らされました。教会のかしらがキリストであることを、ふだん、あまり意識することがなかったことを、また、かしらであるお方の力を信じ、このお方によって生かされること、満たされることを求めることの乏しかったことをお赦しください。私たちの教会が、あなたを本当の意味でかしらとする教会でありたいと心から願っています。あなたを主とし、みずからをしもべとして、そのことを求めさせてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/19/2006