聖霊の証印

エペソ1:13-14

オーディオファイルを再生できません
1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 「三位一体」という言葉そのものは、聖書にはありませんが、聖書は、いたるところで、父なる神も、御子なる神も、聖霊なる神も永遠のはじめからおられ、その栄光において等しいお方であり、父と御子と聖霊は完全にひとつであることを教えています。

 エペソ1:3-14は、そうした箇所のひとつで、3-6節は「父なる神」について、7-12節は「御子イエス・キリストについて」、13-14節は「聖霊」について書かれています。内容的には、はっきりと三つに区分されているのですが、原文では切れ目のないひとつの文章で書かれています。200以上の単語がずうとつながっています。三つの内容が一つの文章で書かれていることは、神が父、御子、聖霊の三つの位格でありながら、おひとり、一体であることを教えているように思います。

 水は常温では液体ですが、高温になると水蒸気となり、気体になります。また、低温になると氷となって個体になります。しかも、どの状態でもH2Oという本質は変わりません。「三位一体」をこれにたとえることができますが、正確ではありません。このたとえでは、お一人の神があるときは父、別のときは子、さらに別のときには聖霊の三つの姿で現れたのに過ぎないということになります。「三位一体」は自然界や人間界を超えたもので、天にも地にも同じものはありません。ですからそれは理論やたとえで理解することはできません。それは、父と御子と聖霊によって救われた者が、その救いの恵みの中ではじめて知ることができるものなのです。

 一、父なる神と子とされること

 まず、父なる神は、私たちをどのように救ってくださったのでしょうか。3-6節では、父なる神が信じる者をご自分の子どもにしてくださったことが書かれています。5節にこうあります。「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」親の保護も、愛もないままに見捨てられた子どものように生きていた私たちが神の子どもにされ、神も私たちの「父」となってくださったことを言います。これは英語では “adoption” と言われます。養子縁組のようにして、神は私たちをご自分の子どもにしてくださったのです。

 サンフランシスコ国際空港はサンフランシスコ湾の西側にありますが、その東側の湾岸にサンロレンゾという小さな町があります。その町の教会にクラーク桂子さんという人がいます。彼女は、戦後すぐ、日本でアメリカ兵と日本人女性の間に生まれましたが、両親から捨てられました。大変つらい青春時代を過ごしました。そんな中で俳優の森繁久弥さんと出会い、また、アメリカから宣教師としてして来日していたクラーク青年と出会いました。クラークさんと結婚してアメリカに行こうとした時、彼女に戸籍がなく、出国が許されませんでした。森繁さんは、彼女のために役所と掛け合ったのですが、埒があきませんでした。それで、森繁さんは、彼女を自分の養女にし、その戸籍を役所に提出したのです。「桂子はわしの娘だ。どうだ。これで文句があるかと役人に言ってやった」と、森繁さんは、ある雑誌に書いていました。

 私たちの父なる神は、イエス・キリストによって私たちを救い、私たちを、ご自分の子どもとしてくださいます。神は、私たちに「あなたはわたしの息子、娘だ」と語りかけてくださるだけでなく、天に向かっても、地に向かっても、「これは、わたしの子だ」と宣言してくださるのです。ですから、私たちは神を「父なる神さま」、「天におられる父よ」と呼ぶことができるのです。私は神を「父よ」と呼んで祈るたびに、また他の人がそう祈るのを聞いて、神の限りない愛を感じます。私たちに「父よ」と呼びかけることを許してくださる神は、「三位一体」の神の他ありません。

 二、御子イエスと贖い

 次の7-12節には、御子イエス・キリストの「贖い」が書かれています。「贖い」は、まず「罪の赦し」をもたらします。7節に「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです」とある通りです。罪ある人間は、そのままでは、聖い神に近づくことはできません。罪がどこかで解決されなければならないのです。最近、日本では「自分を赦す」ということがよく言われているようです。しかし、他の人を傷つけたものは、その人から赦してもらわないかぎり、自分で自分を赦すことはできません。まして、神に対する罪は聖なる神に対する罪ですから、神が「赦す」と言ってくださらなければ、ほんとうの「赦し」はないのです。

 この罪の赦しは、7節に「御子の血による贖い」と言われているように、イエス・キリストが十字架の上で血潮を流されたことによってのみ勝ち取られるものです。旧約時代の人々は罪の赦しを得るために動物の犠牲をささげました。しかし、それによっては、罪の赦しを確信することができませんでした。動物のいけにえは、イエス・キリストによる完全な罪のための犠牲を予告するものでしかなかったのです。キリストの血以外に私たちの罪を赦し、私たちを罪からきよめるものはありません。御子イエスの血による贖いによってはじめて、私たちは罪の赦しを受け、その喜びを知ることができるのです。私たちはこの罪の赦し受けるまでは、いつも不安です。どんなに楽しいことがあっても、それを本当に喜ぶことができません。罪の赦しの喜びを知ってはじめて、人生のさまざまな喜びを喜びとして味わうことができるのです。

 また「贖い」には「解放」という意味があります。かつて奴隷には人格が認められず、主人の所有物と見なされ、お金で売り買いされました。しかし、逆に「贖い金」を払えば、束縛から解放され自由になることができました。初代教会では、奴隷を持っている主人には奴隷を解放するよう指導していましたし、クリスチャンになった奴隷たちのために「贖い金」を、教会で積み立てていたことが知られています。聖書は、「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と教えていますが、イエス・キリストは、私たちを罪の奴隷から解放するため、ご自分の命を「贖い金」としてして差し出してくださったのです。イエス・キリストの贖いによって、私たちはほんとうの自由を得たのです。

 贖いという言葉には、さらに「一つにする」という意味があります。神が、この世界を造られた時、造られたものを見て「よし」とされました。「神は見て、それをよしとされた」と創世記にあります。神は最後に人間を造り、この世界の全てが完成しました。聖書は、神の創造のわざを、「そのようにして神はお造りなったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」(創世記1:31)という言葉で結んでいます。このように、神が造られた最初の世界には、すべてのものに一致と調和がありました。神は人に語りかけ、また人に聞き、人は神に聞き、また神に語りかけました。アダムとエバは心を合わせてエデンの園を守っていました。

 ところが、人が神に背き、神から離れた時、アダムとエバは互いに相手を非難し、自分の罪を他のせいにしました。アダムとエバの子、カインは弟アベルをねたみ、アベルを殺しました。それまで人間に優しかった自然が人間を苦しめるようになりました。イエス・キリストの「贖い」は、この神と人との分離、人と人との分裂、自然と人との不調和をいやし、もう一度、神と人、人と人、人と自然を一つにするものなのです。「贖い」を表わす英語には “redemption” のほかに “atonement” という言葉があります。これは、“at-one-ment” と綴るように、キリストにあって、すべてのものが一つになること、世界がもとの調和を取り戻すことを表わしています。エペソ1:10に「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる」とあるのは、このことを指しています。

 三、聖霊と救いの保証

 では、聖霊は、私たちの救いにどのように関わってくださるのでしょうか。父なる神は救いを計画し、御子がそれを実現しましたが、聖霊は、御子が実現した救いを私たちのものとしてくださるのです。救いは御子キリストによってすでに成就しました。けれども、それで私たちが自動的に救われるのではありません。救いの福音を聞き、それを信じるまでは、救いはまだ私たちの外側にしかありません。しかし、私たちが福音を聞いてそれを信じるとき、聖霊は私たちの内側に住んでくださいます。そして、聖霊が私たちの内側に入って来られるとき、救いも私たちの内側にやって来るのです。13節に「約束の聖霊をもって証印を押されました」とあるように、聖霊は、救いの証印だと言われています。これには三つの意味があります。

 第一は、聖霊が救いの約束を確かなものにしてくださったということです。私たちが誰かと重要な約束をする時は、それを間違いのないものにするため、書類を作ります。契約書です。聖書は「旧約」や「新約」と呼ばれるように、神の契約の書物です。神は「わたしはあなたを救い、わたしの民とし、あなたを祝福する。もし、そうしなかったら、この契約書にもとづいて訴えてもよい」と言っておられるかのようです。この契約書だけでも十分なのですが、神は、この契約書に、キリストが十字架で流してくださった血によって「署名」してくださいました。そればかりか、神は、この契約書に聖霊によって「証印」を押してくださったのです。日本では印章ですが、アメリカでは、たいていは円形のシール(“seal”)です。このシールが書類に刻まれる時、その書類は二重、三重の意味で確かなものになります。聖霊は私たちに救いが成就したことを確認し、この救いが確かなものであることを保証してくださるのです。

 第二に、聖霊は、私たちが神のものであることのしるしです。聖霊は、私たちが神の子どもであり、キリストによって贖われた者であること、神の子どもであり、神のものとされていることを確かなものとしてくださり、その確信を私たちに与えてくれます。そして、この確信が、困難なときも、私たちの人生を支えてくれるのです。

 第三に、14節にあるように「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証」です。ここでの「保証」は「手付け金」という意味になります。神の国は聖霊によってすでに私たちのところに来ています。聖書に「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(ローマ14:17)とある通りです。私たちは、今、この地上でも、聖霊によって、神の国の喜びや平安をいただいています。それらは、神の国の祝福の一部分で、「手付け金」のようなものです。やがての時、残りのすべてを受け継ぐことが、聖霊によって保証されているのです。

 このように、私たちは父なる神によって、御子イエスによって、そして、聖霊によって救われています。この私ひとりの救いのために父なる神と御子イエス、そして聖霊が総掛かりで働いてくださっている。神はそんなにしてまで私たちを愛してくださっている。「三位一体」を理解するとは、この神の愛を受け取ることです。キリストの恵みに信頼することです。聖霊のまじわりにとどまることです。たしかに「三位一体」は人間の理性を超えた神秘です。しかし、それは私たちからかけ離れたものではありません。神がその大きな愛で備えてくださった救いのうちに示されています。この救いを受け入れ、救いの確信を与えられ、救いの喜びにあずかることによって、私たちは、「三位一体」の神を、より深く知ることができ、この神を崇めることができるようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエスによって私たちを罪の奴隷から贖い、あなたの子どもとし、聖霊によって御国を受け継ぐ保証を与えてくださいました。あなたの救いのみわざを思うたびに、そこに示された「三位一体」の奥義を見い出す者としてください。そして、いよいよあなたの栄光をほめたたえる私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/12/2022