1:1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
1:5 日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
1:8 すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。
1:9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
1:11 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
一、ソロモンの知恵
ソロモンは神に知恵を求めました。神はそれを喜び、誰も及ばないような知恵を彼に与えました。列王記第一3:16-28には、ソロモンの知恵を示すエピソードが記されています。ひとりの女性がもうひとりの女性といっしょに暮らしていました。彼女が赤ん坊を産んでから三日して、もうひとりの女性も赤ん坊を産みました。ところが、その赤ん坊が死んでしまいました。もうひとりの女性は、自分の死んだ赤ん坊と、生きている赤ん坊とを取り替えて、生きている赤ん坊は自分の赤ん坊だと言い張ったのです。そこで生きている赤ん坊の母親が訴えを起こしました。この訴えはソロモン王が直々に裁くことになりました。
ソロモンは剣を持って来させ、「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい」と言いました。すると、ほんとうの母親は子どもが死んでしまうことに耐えられなくなり、「どうか、その生きている子をあの女にあげてください」と願い出ました。ソロモンは、その言葉を聞いて彼女に赤ん坊を返しました。
これと同じ話は、大岡越前のお話しにもあります。大岡越前は、ひとりの子どもを巡って、私こそこの子の母親だと主張するふたりの母親に、子どもの右手と左手を引っ張らせ、自分の方に引っ張ったほうに子どもを与えると言いました。最初、ふたりは子どもの手を引っ張りあうのですが、子どもが痛がるのを見た、本当の母親は思わず子どもの手を離してしまいます。それを見た大岡越前は、手を離した母親に子どもを与えました。いわゆる「大岡裁き」のひとつですが、これは聖書から伝えられてきたものだと言われています。
ソロモンの知恵は、その時代のどの賢者たちの知恵に勝っていて、それはまわりの国々に評判となって聞こえたほどでした。ソロモンの評判を聞いたシェバ(アラビア)の女王がソロモンを試すためにやってきました。彼女の質問に対してソロモンが答えられなかったものは何一つありませんでした。それで、シェバの女王は言いました。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。」(列王記10:6-7)
ソロモンは「三千の箴言」を語り、「一千五首の歌」を詠みました。(列王記第一4:32)ソロモンの格言は「箴言」に、彼の歌は「雅歌」に遺されています。「伝道者の書」もソロモンが書いたとされてきましたので、箴言と雅歌の間に置かれていますが、マルティン・ルター以降、多くの聖書学者は、様々な観点から、これは、ずっと後代、イスラエルがバビロンの捕囚から帰ってきてから後の時代に書かれたものだと言っています。
しかし、「伝道者の書」がソロモンが書いたものでなくても、ここには、ソロモンが遺した知恵の伝統が生きています。人生の現実を見つめる目があります。そこから発見した人生の知恵があります。ソロモンがこう言ったであろうという言葉がここにはあるのです。そんな意味で、「ソロモンの知恵」に関連して「伝道者の書」を学ぶことにしましょう。
二、人生の空しさ
伝道者の書というと誰もが思い浮かべるのは2節の「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」という言葉でしょう。ヘブライ語では次のようになります。
הֲבֵל הֲבָלִים ヘベル ハバリーム 空の空「空の空」は「ヘベル ハバリム」で、最初の「ヘベル」(空)は単数形で、次の「ハバリム」は複数形です。英語では“Vanity of vanities”となり、これは、最上級を表します。「最も空しい。これ以上に空しいものはない」という意味になります。
אָמַר קֹהֶלֶת アマル コヘーレット 伝道者は言う
הֲבֵל הֲבָלִים ヘベル ハバリーム 空の空
הַכֹּל הָֽבֶל ハコール ハベル すべては空
では、伝道者はいったい何が空しいと言っているのでしょうか。最初は知恵と知識です。人がどんなに知恵や知識を得たところで、それによって見えてくるのは、混乱した世界と、はかなく消えていく人生でしかないのです。18節に「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」とある通りです。ほんとうにそうですね。
それなら、本能のままに快楽に浸って生きればいいのでしょうか。2:1-2に「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう」とあるように、それもまた空しいと言っています。これもまたほんとうにそうです。
では財産はどうでしょうか。様々な事業を達成することはどうでしょうか。それらは後の世代にまで引き継がれ、意義あるものではないでしょうか。しかし、伝道者は言います。「私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。」(2:20-21)
このあと、伝道者は、社会のさまざまな矛盾を突きます。「私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。」(4:1)「悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。」(8:11-12)こうしたことは、現代のどこの国にも見られる現実です。
伝道者は言います。「人生は不条理で、無意味で、結局すべてが過ぎ去っていく。また、人は明日何が起こるか分からない。それに、誰もが死を迎えなければならない」と、繰り返し語っています。伝道者の書を読んでいると、悲観的になります。けれども、そこには、そうしたはかない人生だからこそ、「今を大切にし、身近な人々を大切にし、大きな望みを抱かず、何事もほどほどにしなさい」という、処世訓があります。そうした人生訓、処世訓、また、金言といわれるものには、耳を傾ける価値がありますが、そうしたものでさえも、人生から空しさを取り除くことはできません。人の心にひそんでいく虚無感は、そうしたものでは癒やされることはなく、人はありきたりの人生訓、処世訓では満足できないのです。処世訓が「ああしなさい。こうしなさい」ということ以上の、もっと根本的な解決が必要なのです。伝道者の書は、人生訓、処世訓以上のことを語っています。
三、人生の意義
いきなり、伝道者の書の最後の章に飛びますが、伝道者は12章で結論を語っています。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(12:1)伝道者はさんざん「空の空。すべては実体の無いもの。過ぎ去って行くもの」と語ってきましたが、ここで、過ぎ去ることのないお方、私たちに存在と実体を与えておられる創造者を指し示しています。「あなたの創造者を覚えよ。」「覚える」というのは、まずは「知る」ということを意味します。世界を造り、私たちを造った神を認め、知るということです。また「覚える」というのには、「神を人生に、また生活の中心に据える」という意味もあります。神が私たちを造ったのなら、私たちの人生の意味も目的も神にあるはずです。神を自分の人生に迎え、神から人生の意義を受け取るのです。
「創造者を覚える」ということが、13節では「神を恐れる」という言葉で言い換えられています。こう書かれています。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」
神を知り、神を恐れる。とてもシンプルです。哲学は難しい理論で人生の意義を語ります。様々な宗教は、人生の意義は特別な修練を経て悟るもので、簡単に得られるものではないと言います。しかし、聖書は違います。誰でも、神を、自分の創造者として受け入れ、敬うなら、人生の意義を得ることができると言います。ソロモンが「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(箴言1:7)と言っているように、主を恐れることが究極の知恵、知識なのです。
1897年から1898年にかけて、フランスの画家ポール・ゴーギャンはタヒチで幅374.6 cm(147.5 in)、高さ139.1 cm、高さ(54.8 in)のカンヴァスに一枚の油絵を書きました。向かって右側に赤ん坊が描かれ、中央に若者の姿が描かれ、左側に老人が描かれています。ゴーギャンは、この絵に「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」と疑問形で書きました。これは、ゴーギャンの心からの問いで、誰もが心の深いところで持っている問いであると思います。
「我々はどこから来たのか?」東洋人は、「父母から来た。先祖から来た」と考え、両親を敬い、祖先を崇拝します。よく、小さな子どもが母親に、「私はお母さんから生まれたんでしょ。じゃあ、お母さんは誰から生まれたの?」と訊きます。母親は「おばぁちゃんから生まれたのよ」と答えます。「じゃあ、おばぁちゃんは誰からうまれたの?」「おばぁちゃんのおかあさんよ。」「おばぁちゃんのおかあさんは?」「おばぁちゃんのおかあさんのおかあさんよ。」「おばぁちゃんのおかあさんのおかあさんは?」…この質問と答はいつまでたっても終わりません。しかし、聖書は、人類の出発点を教えています。ルカ3:23-38にイエスの系図があり、ヨセフからマタテ、マタテからレビ、レビからメルキへと先祖に向かって遡っています。その中には、ダビデもアブラハムもあり、アダムにまで行き着くのですが、「このアダムは神の子である」(ルカ3:38)とあります。これは、神によって直接造られたという意味で、別の訳では「そして神に至る」となっています。すべての人は「神に至る」のです。私たちは皆、神から来たのです。
私は、若いころ、漠然とではありましたが、「自分は何のために生きているんだろう」という疑問をいつも心に抱いていました。その答えを求めて聖書を読みました。詩篇に「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(詩篇139:13)という言葉を見つけたとき、その答えを得たような気がしました。神が私を造ってくださった。そうであるなら、私の人生の目的や意義は神にあるのだということが分かったのです。
私は、自分が神に造られ、生かされ、愛されている存在であることを知りませんでした。もし、神を知らないままであったなら、「主を恐れる」という本当の知恵を持たず、きっと愚かなことをしてきたに違いありません。たとえ賢くこの世を渡り歩くことができたとしても、心はいつも空しいままだったでしょう。満たされない思いを持ちながら、目的のない人生を送っていたことでしょう。
「我々はどこから来たのか?」この問いの答えを見つけることができたら、「我々は何者か?」「我々はどこへ行くのか?」という問いにも答えを見つけることができます。私たちは神に愛されている者です。神から来たのだから、神に帰るのです。世を去って神に帰る前に、神を認めない空しい人生から回れ右をして神に立ち返りましょう。聖書は、イエス・キリストを「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」(エペソ1:23)お方と呼んでいます。このイエス・キリストが、私たちを「空の空」という人生から「満ち足りた人生」へと導いてくださるのです。「救いに至る知恵」を聖書から学びましょう。そして、それを実践する喜びへと導かれていきましょう。
(祈り)
私たちを造られた神さま。私たちの人生の意義は、創造者であるあなたを知ることにあります。どうぞ、私たちに、あなたを知る知識、あなたを恐れる知恵を与えてください。そして、空しさにかえて、常に、平安と、喜びと、希望で私たちを満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。
8/11/2019