心に刻むべきもの

申命記6:4-12

6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
6:10 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、
6:11 あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、
6:12 あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。

 先々週、ロスアンゼルスで行われた牧師会で、ホノルル教会の鈴木先生は、詩篇103篇を開いて、こう話されました。「私も七十歳に近づいて、六十台前半にはほとんど感じなかった体力、気力の衰えを感じています。ハワイの気候に慣れていないせいもあるのでしょうか、このごろ、忘れっぽくなりました。この間も、教会役員の就任式の時、ひとりびとりを紹介するのに、名前が出てこなくて困ってしまったことがありました。103篇は、ダビデの晩年の詩だと思いますが、その2節に『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』とあります。これは、年をとると忘れっぽくなるが、主の恵みは決して忘れてはいけないと言っているのでしょう。このごろ、このことばの大切さを身にしみて感じています。」皆さんのうち何人かは「同感です」と、うなづいていらっしゃるようですね。

 しかし、何も年をとって物忘れがひどくなったから、神の恵みを忘れるようになる、若いうちは大丈夫、ということでもないようですね。若い人のほうが、むしろ、自分の力に頼って主の恵みを忘れてしまう、仕事に忙しくて主を覚えることが少ないかもしれません。聖書が、主と主の恵みを覚えなさいという時、それは、単に頭脳だけでなく、心で、またからだで覚える、つまり、私たちの生き方のすべてを通して覚えるということを意味しているように思います。主の恵みを忘れると、この世の闇がすぐに私たちの心を捕らえてしまいます。主の恵みを覚えて生きるなら、どんなことがあっても失望に押しつぶされることがなく、迷いにふりまわされることなく、希望をもって、確信をもって歩むことができるのです。

 一、心で覚える

 さて、主の恵みを覚えるという場合、その出発点は、「主おひとりだけが、私たちを恵み、祝福してくださるお方である。」ということです。申命記6:4-5は「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ということばで始まっています。

 ここで、「主は私たちの神。主はただひとりである。」と言われているのは、まず、神は唯一のお方であるという意味です。日本では「八百万の神」と言って、八百万も神々があるのですが、それはみな人間が作り出した神々で、まことの神はただおひとりです。

 私は、ずいぶん前に、「おまえは日本人なのに、なぜキリスト教の神を信じているのか。」と言われたことがありました。その時はまだ信仰を持って間もなくで、何をどう答えて良いかわかりませんでしたので、「神は、キリスト教の神だけでなく、人類すべての神だ。人間は、姿形は違っても、みんなひとつだ。だから、神もおひとりだ。私は、ひとりの人間として、ひとりの神を信じているんだ。」と、その時思ったとおりに答えたのですが、この答えは間違っていなかったと思っています。私たち日本人は、キリストへの信仰に至る前に、まず、「すべてのものの造り主」を知り、「ただひとりの神」に出会わなければならないと思います。

 しかし、申命記6:4で「主はただひとりである。」という言葉には、"The Lord is Only One"(主は唯一のお方)というだけでなく、"Only the Lord"(主ひとりだけ)という意味もあります。「主は唯一のお方」であることを知ったなら、次は「この主だけ」が私を救い、祝福してくださるお方だということを、心に刻まなければならないのです。申命記4:34-35にこう書かれています。「あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。」これは、他の誰でもなく、主だけが、私たちを救ってくださる、私たちが信じ、従うべきお方はこのお方おひとりである、ということを言い表わしているのです。

 申命記32:10-12には、このことが歌の形で表現されています。「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。」ここでは、イスラエルが雛鳥にたとえられています。神は、大鷲にたとえられており、この大鷲は、荒野でこの弱く小さい雛鳥を見つけ、野獣たちを追い払い、それを懐にいだいて暖め、食べ物を与え、育てます。これは、神のイスラエルに対する愛を表わしています。日本語に「目の中に入れても痛くない」という言い方がありますが、神は、イスラエルを「ご自分のひとみのように」守られたのです。「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。」というのは、雛鳥に飛び方を教え、雛鳥を一人前に育てていこうする親鳥の愛情を表わしていますが、神はそのように、イスラエルを、そして、新約時代の神の民であるクリスチャンを、注意深く、丁寧に導き、育ててくださるのです。そして、そのように私たちを愛してくださるのは、主おひとり、主の他にはないのです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という戒めは、神の私たちへのひたすらな愛に答えるようにとの招きなのです。

 6:10-12に「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。」とあります。このことばは、詳しく説明する必要はありませんね。私たちは、神の愛を、恵みを心に刻んでいないと、いつしか、高慢になり、今の幸せは自分の力で勝ち取ったもののように思うようになり、「おひとりの主、主おひとりが幸せを与えてくださるお方である。」ということを忘れてしまうのです。私たちは、神の恵みを忘れることのないように、たえず、神のことばを学び、神のことばによって自分の生活をふりかえり、「神さま、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたを愛することができますように。」と祈り求めていきましょう。

 二、からだで覚える

 神の恵みは「心とからだで覚えるべきもの」と言いましたが、からだで覚えるとは、どういうことでしょうか。ユダヤの人々は、申命記6:8に「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」と書かれていることを文字通り実行しています。テフィリンという小さな箱に、申命記6:8と、これと同じことが命じられている出エジプト13:9、13:16、それに申命記11:18を書いた紙を入れます。テフィリンは、手につけるテフィリン・シェル・ヤドと額につけるテフィリン・シェル・ロシュがあります。まず、左手を腕まくりして、テフィリン・シェル・ヤドを、力瘤のできるところに置きます。それから、肘から下の腕にテフィリンについている皮ひもを時計回りに七回巻きつけます。それが終わると、今度はテフィリン・シェル・ロシュのほうを額につけ、それをゆわえてある紐を胸のところにたらします。額にテフィリンをつけ終わったら、もういちど、腕につけたテフィリンのひもを、今度は中指に巻きつけるのです。テフィリンを外すときは、着けたときと逆の行程を踏みます。テフィリンは、十三歳以上の男子が、毎朝の祈りの時に着けるよう定められています。私は、イスラエルに行ったとき、同じ飛行機に乗っていたユダヤの男性が、祈りの時間になったから、というので、飛行機の中でテフィリンを身に着けて祈りをささげているのを見、その熱心さに感心しました。

 また、ユダヤの人々は、次の9節に「これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」というのも、その通りに守っています。家の入り口だけでなく、ベッドルームにも、バスルームにも、メズザーと呼ばれるものをとりつけます。メズザーとは「門柱」という意味で、いろんな飾りがついていますが、基本的には、円柱の形をしています。この中には、羊皮紙(羊の毛皮をなめしたもの)に申命記6:4-9と11:13-21を書いたものが入っています。メズザーは各部屋のドアの右に、床と天井の距離を測って、天井から三分の一のところに釘で打ちつけられます。この時、人々は次のように祈ります。「われらの神、主、宇宙の王はほむべきかな。主は、われらをその戒めをもって聖別され、われらにメズザーを取り付けるよう、命じられた。われらの神、主、宇宙の王はほむべきかな。主は、われらを生かし、われらを保ち、われらがこの時に至ることを許してくださった。」メズザーは、主が家の門守となってくださっていることのしるしです。人々は、家に入る時も家から出る時も、また、それぞれの部屋に入る時も出る時も、指でメズザーに触れ、その指を唇にもっていきますが、それは、どこに行っても主が共にいてくださるということを意味しています。

 このように、ユダヤの人々は、神のことばを実際に身に着け、家の門柱に置いて、それらをからだで覚えようと努力しています。クリスチャンには、同じことをする必要がありませんが、いつも聖書を身近かに置いて読むこと、また、みことばが記されたもの、あるいは、私たちの主イエス・キリストを覚えさせるようなもので、部屋を飾ることは良いことです。神は、私たちが神を概念として知るだけでなく、生活の中で、神の愛や恵みに触れて生活するように望んでおられ、私たちが、それらをからだで覚えることができるように、具体的に私たちに示していてくださるのです。

 神は、目に見えないお方であり、私たちにどんな偶像も作ってはならないと命じておられます。造られたものは、それがたとえ、金、銀、宝石など、どんなに高価なものであっても、造り主の素晴らしさを表わすことができないからです。しかし、神がどんな形あるものにも表わされていないかというと、そうではなく、神はイエス・キリストにおいて、形あるものとしてご自分を表わしてくださっているのです。コロサイ1:15に「御子は、見えない神のかたちである」とある通りです。神の御子イエス・キリストは人となって私たちに現われてくださいました。キリストは、私たちが目に見えない神を見ることができるように人となられたのです。弟子たちはキリストを、「目で見た、じっと見た、手でさわった」(ヨハネ第一、1:1)と言っています。イエスを肉眼で見ることはできませんが、イエスのなさったこと、語られたことを聖書で読み、イエスが残していかれた足跡をこの地上でたどることができます。神は目に見えないお方ですが、イエス・キリストを通して、実に、具体的な形で、神を知ることができるのです。私たちはイエス・キリストを肉眼では見ることはできなくても、信仰によって、また、聖霊によって、イエス・キリストをリアルにとらえることができるのです。ペテロ第一、1:10に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とあるとおりです。

 神は、また、教会を、私たちがイエス・キリストを体験し、神を知ることができるところとして、私たちに与えてくださっています。キリストは復活されて天に帰られましたが、キリストのからだは天にだけあるのでなく、実は、地上にもあるのです。それは教会です。

 教会とは、キリストを信じる者たちの集まりですが、イエス・キリストは、これをご自分のからだと呼んでくださり、教会を通して、神の愛が、キリストの恵みが、そして聖霊の臨在が、人々の目に見えるものになるよう、計画してくださったのです。地上の教会は「建設中」「作業中」で、いまだ完成しておらず、不完全ですから、そこには、私たちが期待する通りのものが、そのままの形で無いかもしれません。しかし、教会には、この世のどこにもない、真理があり、相互の愛があります。イエス・キリストを信じて、救われ、神の家族である教会の中で信仰を成長させて行く時、またキリストのからだである教会で、キリストの一部分として奉仕に励む時、私たちは、目に見えない神を、まだ、肉眼では見たことのないイエス・キリストを、文字通り、からだで体験することができるのです。古くから「教会を母としない人は、神を父とすることはできない。」という言葉がありますが、目に見えない神につながっていることは、目に見える教会につながることによって確認することができるのです。キリストのからだである教会から離れた信仰は、観念だけの信仰に終わってしまい、生きて働く信仰とはならないのです。

 私たちは、聖餐式で、キリストのからだをあらわすパンをいただき、キリストの血をあらわすブドウ・ジュースをいただきます。神は、私たちのために、目で見ることのできない神の愛、恵み、救いを、目で見、手で触り、さらに舌で味わい、からだで感じることができるようにしてくださいました。神の恵みを忘れやすい私たちに対する、神の素晴らしいご配慮です。私たちは、神の恵みを確認するのに、特別な体験や不思議なしるしを求める必要はないのです。ここに、パンと杯の中に、神の恵みのしるしがあるのです。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」と言われているように、この聖餐式で、神のことばを心に刻み、からだで覚え、その恵みに応答しようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、バプテスマによって、キリストを信じる者たちをキリストのからだに結びあわせてくださいました。そればかりでなく、あなたは、聖餐によって、私たちがキリストのからだの一部であることを、目で見、手で触って確認できるようにしてくださいました。キリストの恵みのしるしである聖餐にあずかる時、その恵みを私たちの心に刻んでください。キリストのからだである教会で、キリストのからだの一部であることを覚えるこの時、私たちのからだを、あなたに受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげさせてください。主イエス・キリストによって、この時を感謝して祈ります。

1/27/2002