7:9 私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
7:10 火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。
7:11 私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
7:12 残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
一、キリストの再臨
旧約聖書は、「救い主が来られる」という約束の書物で、新約聖書は、「救い主が来られた」という成就の書物です。「久しく待ちにし、主よ、とく来たりて」という賛美のように、旧約時代の人々は救い主の到来を待ち望みました。新約時代の私たちは「主は来ませり」と歌って、イエス・キリストが来てくださったことを喜びます。イエス・キリストは救いのみわざを成し遂げたあと、天にお帰りになりましたが、もういちど世に来てくださると、約束されました。それを「再臨」(“Second Coming”)と言います。
イエスが雲に包まれ昇天された時、天使が現われて弟子たちにこう告げました。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)「天に上って行かれるのと同じ有様で」というわけですから、再臨の時も、昇天の時と同じように雲に乗って来られるのです。「雲」は神の栄光を表します。エジプトから救い出されたイスラエルが荒野を旅した時、雲の柱が立って、その行く先を導きました。また、モーセの時代に神の幕屋が完成した時も、ソロモンが神殿を建てた時も、栄光の雲がそこを満たしました。そして、イエスが変貌の山に登られた時、イエスが栄光の姿に変わり、モーセとエリヤが現われ、雲が沸き起こって、三人を包みました。イエスが「雲に乗って来られる」というのは、再臨の時、イエスがその栄光を何一つ制限することなく、この世に来られることを言っているのです。
イエスがもう一度世に来られるのは、神の国の完成のためです。「神の国」、それは「天の国」とも呼ばれます。おとぎ話の「天国」は大空のかなたにあって、そこに神がおられ、天使たちが住み、死んだ人がそこに行く場所として描かれています。けれども、大空のどこにもそういう場所はありません。最初の有人宇宙飛行士となったソヴィエトのガガーリンは「地球は青かった」と言いましたが、ガガーリンの次に宇宙に行ったチトフは「天に神はいなかった」と言ったそうです。大空の向こうは宇宙空間で、そこに「天の国」があるわけではありません。そのようなことは古代の人々もよく知っていました。「天」は、私たちの住む世界と同じ次元のものではなく、霊の次元に属するものです。しかし、天の世界と私たちの世界とは分離したものではなく、つながっています。主の祈りに「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」(マタイ6:10)とあるように、私たちの世界には、天の父の愛の支配が必要なのです。人が神の支配を拒み、その愛から離れてしまっているところに今日の世界の混乱があり、私たちの不幸の原因があります。
イエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言って宣教を始めました。イエスが伝えた神の国は地上のどこかの国のことではありません。「国」という言葉は、「支配」とも訳すことができます。イエスは神の国とは、罪の赦しに基づいた、神の愛と正義と平和の支配のことであると教えられました。それはまず人の心の中にもたらされ、それが個人を変え、家庭や職場、地域を変え、社会を変え、国家を変え、世界を変えていくのです。神の国は、イエスに従ったひとにぎりのガリラヤの人々の間に始まりましたが、それはたちまちローマ帝国内に広まり、ローマ帝国を変えてきました。
神の国は、それ自体の命と力によって成長していくのですが、だからといって、世界が自動的に神の国になるということではありません。人間は常に、まことの神を斥け、自らが「神」になろうとしてきました。平和や正義を好まず、自分の利益のためなら何でもするというような人々がいつの時代もいて、神の国を受け入れないばかりか、御国の民を苦しめ、神の国の働きを妨げてきました。神の国を妨げるものが取り除かれ、神の国が完成する時、それが再臨の時なのです。
二、預言と歴史
聖書の預言が成就して、キリストは来られました。第一の来臨(初臨)が成就しましたから、再臨の預言も必ず実現します。私たちは、聖書の言葉によって、主が再び来られることことを確信しています。
預言の成就は聖書が神の言葉であることの証拠のひとつです。いつの時代にも「私は神からの啓示を受けた」と言って書物を作り、「これは神の言葉だ」と主張する人たちがいました。また、「これから世界はこうなる。こんなことが起こる」との予言も数多くありました。けれども、そうしたものは、歴史的に信頼性のないもので、語られていることに大きな矛盾があります。なによりも、そこには、世界と人生に関する私たちの疑問に答えるものがないのです。そうしたものを読んでも、感動も励ましも、希望も得ることができません。しかし、聖書は違います。聖書は、歴史的に信頼できるものであり、さまざまな時代に、さまざまな人々によって書かれているのに、そこには見事な一致、統一があります。イザヤ34:16に「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである」とある通りです。
聖書の預言は、驚くほど正確に歴史において成就しています。ダニエル7章の預言もそうです。この預言は「バビロンの王ベルシャツァルの元年」にダニエルに示されたものでした。バビロンはベルシャツァルの時代に滅びました。神はダニエルに、バビロンの後、どのような国々が起こり、ユダヤの人々がどのような運命をたどるのかをあらかじめ示されたのです。
ダニエル7章の預言を解くには、ダニエル2章のネブカデネザルに示された幻と比較してみるとよいでしょう。ネブカデネザルが見たのは「頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」(2:32-33)の人の姿でした。それはバビロン帝国とその後に起こる国々を指していました。「純金の頭」は第一の国でバビロン帝国です。「銀の胸と両腕」は第二の国、メディア・ペルシャの連合帝国です。バビロンはこのペルシャに滅ぼされました。「青銅の腹ともも」は第三の国、マケドニアから起こったアレキサンダー大王のギリシャ帝国で、「鉄のすね」と「一部が鉄、一部が粘土の足」は、第四の国、ローマ帝国を指します。鉄は強さを、粘土はもろさを表しています。ローマ帝国は強力な帝国でしたが、さまざまな人種が集まってできており、その内部にもろさをかかえていました。
ダニエル7章には、ダニエルが見た四つの獣の幻が書かれていますが、この四つの獣は、ダニエル2章の四つの国にあてはまります。第一の獣、ライオンは第一の国、バビロンのことです。ダニエル7:4に「見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた」とあります。それは、ネブカデネザルが神の刑罰によって、野の獣のようになりましたが、そこから回復したことを言っています。第二の獣、熊は、第二の国、ペルシャ、第三の獣、ひょうは、第三の国、ギリシャ帝国とそこから分かれた国々のことです。ひょうに「四つの頭」がありましたが、それは、アレクサンダーの後継者を名乗った四人の将軍、マケドニアのカッサンドロス、アナトリアのリュシマコス、シリヤのセレウコス、エジプトのプトレマイオスを指しています。
第一から第三までの獣はそれぞれ、ライオン、熊、ひょうといった動物で表すことができましたが、第四の獣は、今までの獣とは違い、どんな動物にもたとえられないほどのものとして描かれています。この第四の獣はローマ帝国のことです。この獣には十本の角がありましたが、さらにもう一本の角がおこり、先の三本の角を倒しました。そしてその角には「大きなことを語る口」がありました(ダニエル7:8)。これは神への冒瀆のことです。救い主はローマ皇帝の代理者、総督ピラトによって十字架につけられました。ローマ皇帝はみずからを神とし、自分を礼拝させました。エルサレムの神殿を破壊し、神殿跡にローマの主神ユピテル(ジュピター)の神殿を置きました。そして、数知れないキリスト者を、十字架にかけたり、火あぶりにしたり、猛獣の餌にしました。ローマ帝国は、神への冒瀆の限りを尽くしたのです。
この預言が示された時、ペルシャはすでに力を持っていましたが、アレキサンダーを生んだマケドニアやローマは何の力も持たない小さな地方都市に過ぎませんでした。しかし、バビロンからローマに至る歴史は預言の通りに進んでいきました。このことからも、聖書が神の言葉であって、その預言はかならず成就し、実現するものであることが分かります。
三、再臨の預言
ダニエルに示された幻の通り、イエス・キリストは、第四の国、ローマ帝国のときにおいでになり、「神の国は近づいた」と言って、神の国を始められました。けれどもその時はしもべの姿でおいでになり、ダニエル書にあるように「天の雲に乗って」ではありませんでした。ローマ帝国は滅びましたがイエスはまだ雲に乗って再臨しておられません。ではダニエルの預言は間違っていたのでしょうか。いいえ、神の国は来たのです。そして、第四の国もまたまだ続いているのです。西ローマ帝国は紀元475年に、東ローマ帝国は1453年に滅びましたが、その後、ヨーロッパの王たちは「ローマ皇帝」を名乗ってきました。ローマ帝国は人類の歴史の中で、それまでになく、その後も起こらなかった最大の帝国でした。ローマ皇帝は途絶えましたが、その文化や学問、法律や制度、政治や軍事は、ずっとその後の時代を支配してきました。そういう意味では、ローマの時代は今も続いているのです。
ヒットラーなどの独裁者たちが目指したのはじつにローマ帝国の復活であり、ローマ皇帝になることでした。現代の政治家の中にも、心ひそかにそれを目指している人々がいるかもしれません。ヨハネの黙示録には、全盛期のローマ帝国さながらの世界帝国が生まれ、初代教会にあったような迫害が再び起こることが預言されています。
しかし、その国がどんなに強くても、神の国を阻むことはできません。ダニエル2:44に、この世の帝国は、「人手によらず切り出された石」、つまり、神の国によって打ち砕かれると言われています。こう書かれています。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。」
ダニエル7:13-14には、「人の子」と呼ばれるキリストが「天の雲に乗って来られ」、このお方に「主権と光栄と国が与えられ」、「諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕え」、「その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(7:13-14)と記されています。この世の国はどんなに栄えようと、永遠ではありません。それがどんなに信仰者を苦しめようとも、その権力は絶対ではありません。再臨のキリストが神の国を打立てられるのです。
ダニエルに示された幻の解き明かしは、7:17-18でこう要約されています。「これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。しかし、いと高き方の聖徒たちが国を受け継ぎ、その国を永遠に、世々限りなく保つ。」バビロンから始まる四つの国はすでに起こり、今は第四の国の時代が続いています。この後、信仰者にとって大きな苦しみの時代が来るでしょう。しかし、キリストを信じる私たちは、神の国を受け継ぐ者とされています。信仰のゆえに受ける苦しみは無意味ではありません。私たちは、今の世でも、深い慰めと癒やしを受けることができ、キリストが再び来られる時には神の国を受け継ぎ、大きな報いを受けるのです。イエス・キリストに従う決意を新しくして、再臨の希望を確信し、保ちましょう。新しい年を迎えるたびに、再臨の時が近づくのです。これから迎える年を、再臨の主をお迎えする備えをする年としましょう。
(祈り)
主なる神さま。あなたは国々を治め、歴史を導いておられます。これから後、困難な時代がやってくるでしょう。しかし、イエス・キリストは再び来られ、私たちに、永遠の神の国を受け継がせてくださいます。その約束を信じて、その日を待ち望む私たちとしてください。再びこの世に来られる、私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/29/2019