4:7 私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。
4:8 私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。
4:9 また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。
4:10 私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。ーこの人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。ー
4:11 ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。また、彼らは私を激励する者となってくれました。
4:12 あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。
4:13 私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。
4:14 愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。
4:15 どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。
4:16 この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。
先週は、4:2-4から「祈りなさい」、「祈ってあげなさい」、「祈ってもらいなさい」ということを学びました。今朝の箇所はコロサイ人への手紙の最後の挨拶の部分ですが、ここでも祈りがテーマになっています。私はここに「祈りのレポート」、「祈りのリスト」、そして「祈りのゴール」を見つけました。順にお話しします。
一、祈りのレポート
第一に、ここには「祈りのレポート」があります。
パウロは、コロサイ人への手紙で「早く自由の身になって、もう一度伝道できるように、反対者たちを恐れて、神のことばを曲げたり、薄めたりせず、大胆にイエス・キリストを語ることができるように」という祈りの課題を書いていますが、人々はすでにそのことを祈りはじめていて、パウロを監視していたローマの近衛兵がクリスチャンになるなど、祈りはすでに働きはじめていました。パウロは、祈りがどのように働いているかを、もっと詳しく伝えたいと思い、この手紙をテキコに託し、テキコの口から、そのことが伝わるようにしました。7節に「私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう」とある通りです。このように、パウロは祈りの課題を告げるだけでなく、祈りの報告をもして、人々との祈りのまじわりを育てていきました。
初代教会では、他の使徒たちもそのようにしていました。ペテロとヨハネがユダヤの最高議会に引き出されたとき、教会はすぐに祈り会を開きました。祈りが答えられ釈放されたとき、ふたりはまっすぐに、祈り会に向かい、神がどのように祈りに答えてくださったかを報告しています。使徒4:23に「釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」とある通りです。また、ヘロデ王がペテロを投獄し殺害しようとしたときも、教会はペテロのために祈りました。その祈りが聞かれ、神は御使いを遣わしてペテロを救い出しました。そのときも、ペテロは教会の祈り会に直行し、「主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせ」(使徒12:17)ています。
クリスチャンひとりびとりは他の人から「祈ってください」というリクエストを受け取って祈ります。また、礼拝でのとりなしの祈り、連鎖祈祷、祈り会などによって、教会は全体としても、祈りの課題を受け取って祈ります。その祈りが真剣であればあるほど、また、熱心であればあるほど、祈りの結果を聞くとき、より大きな感謝と喜びが与えられます。きょうも、谷川兄弟のあかしを聞きました。彼は出発前に、祈りの課題を知らせてくれ、帰国してからも、こうして報告をしてくれました。そうした報告を聞くとき、私たちは、神が私たちの祈りを用いてくださったことを知り、励ましを受けます。礼拝堂南側の廊下には宣教師、宣教団体からのプレーヤー・レターが、英語、日本語の両方とも掲示されています。そうしたものに目を通していただくと、祈りの課題だけでなく、答えられた祈りについても知ることができます。
8節に「私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません」とありますが、パウロがコロサイの教会に書送った手紙は、パウロの「プレーヤー・レター」だったと言うことができるでしょう。教会は、初代から今にいたるまで、祈りの課題を分かち合い、また、祈りの答えを報告しあって、祈り合ってきたのです。私たちも、そのようにして、祈りのまじわりを育てたいと思います。
二、祈りのリスト
第二に、ここには「祈りのリスト」があります。
今朝の箇所には、テキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユスト、エパフラス、ルカ、デマスの名前が出てきます。パウロと一緒にいて、パウロを支え、パウロに代わって伝道していた人々です。パウロはこうした人々の名前をあげて、コロサイのクリスチャンに「よろしく」と、挨拶を送っています。しかし、パウロがこうした人々の名前をあげているのは、挨拶以上の意味がありました。これは、パウロを支えてくれている人々に対する「アクノレッジメント」でした。パウロは手紙にその名をしるすことによって、感謝を表わし、その労をねぎらっているのです。
また、これは、人々に、こうした忠実な人々を手本にするようにとの勧めでもありました。パウロはピリピ人への手紙で、テモテやエパフロデトの名前をあげて、こうした人々を尊敬し、見習うよう勧めています。どのように神に従い、仕えていくか、それを教えてくれるのは、聖書とともに、人物です。神は、二千年の教会の歴史を通して、私たちが見習うべき数多くの聖徒たちを起こしてくださいました。使徒たち、伝道者たち、殉教者たち、信仰の真理を守るために戦った教父たち、聖書の翻訳と研究のため文字通り生涯を捧げた人たち、キリストとのさらに深いまじわりを求めた修道士たち、教会の改革のために立ち上がった人々、福音を携えて地の果てまで出ていった宣教師たち、貧しい人々、見捨てられたこどもたち、死に行く人々のために奉仕している人々、独裁者と闘い、社会正義のために命をかけた牧師たち、神は、こうした人々を信仰の「オブジェクト・レッスン」(実物教材)として私たちに与えてくださったのです。こうした人々は、私たちの身近なところにも与えられています。私たちには一世、二世の先輩たちという良い模範があります。ピリピ3:17は「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」と教えています。私たちも、こうした人々から多くを学びたいと思います。
しかし、パウロが、ここに人々の名前をあげたのは、なによりも、その人たちのために祈ってもらいたかったためだと思います。「アリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています」(10節)「ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています」(11節)「エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています」(12節)「ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています」(14節)とあります。「よろしくと言っています」と訳されていることばは、文字通りは「挨拶します」ですが、「挨拶します」では日本語にならないので、「よろしく」となったのです。日本語の「よろしく」というのは、そこに何でも入れられることばで、そこには何かの願いを入れることができます。その場合、クリスチャンがクリスチャンに「よろしく」と言って願うものとは、何よりも、「私たちのために祈ってください」という「祈り」ではないでしょうか。パウロが挙げた人々の名前のリストは、そのままコロサイの人々が祈る「祈りのリスト」となりました。
パウロは、最初はバルナバと、次にはシラスと一緒に伝道しました。伝道の働きが広がっていくにつれて、パウロには、ギリシャ人に伝道できる人材が必要でした。それでギリシャ人を父に、ユダヤ人を母に持つテモテを伝道チームに加えました。続いて、ピリピではギリシャ人の医者であるルカが「パウロ伝道団」に加わっています。パウロはコロサイ4:7でテキコのことを「同労のしもべ」と呼び、11節ではアリスタルコ、マルコ、ユストたちを「神の国のために働く私の同労者」と呼んでいます。パウロは伝道がチームワークであることをよく知っていました。自分だけが伝道している、自分ひとりで伝道できるなどと決して思っていませんでした。ですから、パウロは「同労者」たちの名前をあげ、チームメンバーのための祈りを要請したのです。
あなたは祈りのリストを持っていますか。あなたの祈りのリストには、どんな人の名前がありますか。礼拝プログラムには奉仕者の名前が載っています。「礼拝前の黙想」にしたがって、そうした人々のために祈ってください。連鎖祈祷の課題にも多くの人の名前が載っています。年度報告には教団の諸教会のリストがあります。教会では三年に一度、写真のついたディレクトリーを作っていますが、これは祈りのリストとして使うのに良いと思います。AからZまで、良く知っている人だけでなく、知らない人であっても、その人の名前をあげて祝福を祈ってください。「オペレーション・ジャパン」や「オペレーション・ワールド」といった本には、日本の各県のため、また世界の各国のための祈りのリストがあります。いきなり、世界の各国ために、日本の各県のために祈ることができなくても、自分の出身地のため、また、自分の知り合いがいる国のため祈りはじめることができます。東日本大震災の被災地のために祈り続けましょう。そのようにして、教会が祈りに心を向けるなら、神は必ず教会を守り、導き、また用いてくださることでしょう。
三、祈りのゴール
第三に、ここには「祈りのゴール」があります。
12節と13節にエパフラスの名前があります。この人は、コロサイ教会を創設した人で、コロサイ教会の牧師でした。今、エパフラスはパウロに仕えるため、コロサイを離れていますが、いつもコロサイの人々のことが心にあり、毎日、コロサイのクリスチャンのために祈っていました。パウロはエパフラスのそんな祈りをいつも耳にしていたのでしょう。「彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」(12節)とあかししています。
エパフラスの祈りに「完全な人」ということばがありますが、こうしたことばを聞いて身を引いてしまうクリスチャンも多いようです。聖書がいう「完全」という意味を正しく理解していないと、「完全」という言葉を耳にしたり、目にしたりするだけで、「人間に完全なんて有り得ない。そんな無理なことを要求しないで欲しい」と聖書に対して拒否反応を起こしてしまいかねません。ですから、ここで「完全な人」というのは「成熟した人」と訳したほうが良いかと思います。コロサイ4:12で「完全な人」と訳されている言葉もコロサイ1:28で「すべての人を、キリストにある成人として立たせるため」と言われている「成人」も、もとの言葉は同じです。
人はイエス・キリストを信じることによって、罪赦され、神の子どもになります。立場上無罪宣言を受けた、身分だけ神の子どもになったというのでなく、実際に罪からきよめられていく生活が始まり、神の子どもとしての性質がその人のうちで成長していくのです。ミルクしか飲めず、寝返りもできなかった赤ちゃんも、やがて自分で立って歩き、堅いものも食べることができるようになります。子どもたちは学校に行き、友だちを作り、職業を得たり、結婚したりして、家庭から社会へと巣立っていきます。おとなになった後も、さまざまな体験を通して、より人格的に成熟していきます。「完全な人」あるいは「キリストにある成人」というのは、霊的に健全な成長し、また、成長を求め続けている人のことを言います。私たちはみな、成長の過程にあります。それぞれの霊的な段階は違っているでしょう。霊的に成熟した人というのは、もう成長の余地がないほどに完全であるということではなく、成長し続けていく人のことです。いつも後戻りしていたり、同じレベルに留まったりしているのでなく、そこには、苦闘や格闘があるでしょうが、さらに次の段階へと進んでいく人のことです。
パウロがコロサイ1:28-29で「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」と言っているように、パウロもエパフラスも同じゴールを目指し、そのために労苦していました。パウロは、「宣べ伝え」、「戒め」、「教える」という方法でクリスチャンを成熟に導こうとし、エパフラスは、とりなし祈ることによって同じゴールを目指しました。エパフラスについて、「祈りに励んでいる」と訳されているところと、パウロについて「奮闘しています」と訳されているところは、同じ言葉が使われています。英語なら「レスリング」のもとの言葉 "wrestle" です。「取っ組み合いをする」という意味です。「取っ組み合いの祈り」というと、ヤコブが兄エサウに会う前にしたあの、祈りの格闘を思い起こさせてくれます。エパフラスは、まるでヤコブがしたように、コロサイのクリスチャンのために祈ったのです。エパフラスがコロサイのクリスチャンのためにそれほどに祈ったのなら、コロサイのクリスチャンも自らの霊的成長のためにどれほど祈らなければならなかったことでしょうか。
神はすべての人が救われて真理を知るに至ることを望んでおられます。そして、それと同時に救われた人々がさらに神のみこころを深く知ることを願っておられます。子どもの成長を願わない親が無いように、父なる神は、すべてのクリスチャンが霊的に成長し、神のみこころを知ることに進むことを願っておられます。神が「成熟した者となりなさい」と命じられるのは、成長の遅い私たちを責めてのことではなく、健全な成長を願う、神の愛から出たものです。ですから、私たちも、その愛に動かされて、「霊的に成熟したものとなり、神のすべてのみこころを十分に確信して立つ」をそれそれの祈りのゴールとし、教会の祈りのゴールとしてしっかりと据えていきたいと思います。ゴールを見失いさえしなければ、神は、その恵みによってかならず、私たちをそこに近づけてくださることでしょう。私たちもたゆまず祈りに励みましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、みことばによって、より良く祈るためのさまざまな知恵を与え、何を目指して祈るかという祈りの目標を示してくださいました。自分のために願い、他の人のためにとりなし、また、他の人祈ってもらうことが、さらに良くできるために、私たちに祈りの霊と力を注いでください。みことばと祈りによって私たちを成長させ、あなたの教会を建て上げてくださいますように。主イエスのお名前で祈ります。
10/23/2011