3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
十戒には「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(出エジプト20:4-5)としるされています。
忠実なイスラエルの人々はこの戒めを守りました。ダニエル書に、バビロンに連れていかれた三人の若者が、バビロンの王ネブカデネザルが作った金の像を礼拝するのを拒否したことが書かれています。ネブカデネザルは、三人の若者のことを聞いて、怒り、彼らを喚問して、言いました。「おまえたちが、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、おまえたちを火の燃える炉の中に投げ込むぞ。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるというのか。」それに対して、三人の若者は答えました。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」なんと勇敢で、信仰に満ちたことばでしょう。この箇所を読むたびに感動を覚えます。このように、信仰者たちは命がけで偶像礼拝と戦いました。この後、三人の若者がどうなったは、ダニエル書3章を読んでください。
新約時代になって十戒は無効になったのではありません。新約聖書も「偶像崇拝者となってはいけません」(コリント第一10:7)「偶像礼拝を避けなさい」(コリント第一10:14)「偶像を警戒しなさい」(ヨハネ第一5:21)と教えています。初代のクリスチャンはギリシャやローマの神々を拝みませんでした。ローマ皇帝を神として礼拝するよう強要されたときも、それを拒みました。それで、人々は、クリスチャンを「無神論者」と呼んで迫害しました。最も真剣に神を信じる人たちが「無神論者」と呼ばれたのはとても不思議なことですが、人々は目に見えない神は神ではないと考えていたからでした。クリスチャンは、偶像を礼拝しないことによって投獄され、財産を没収され、追放され、命さえも奪われることがありました。しかし、それでも、信仰を守り通しました。
テサロニケ第一1:9-10に、テサロニケのクリスチャンの回心のことが、次のように書かれています。
私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。イエス・キリストによって、「偶像から生けるまことの神に」立ち返ること、これがクリスチャンの信仰の出発点です。八百万の神々のある日本で育った私たちは、偶像を拝み、神でないものを神として礼拝してきました。しかし、イエス・キリストによってただひとりのまことの神を知るようになって、偶像礼拝から解放されたのです。偶像礼拝と決別すること、それは、日本人にはとても難しいことです。イエス・キリストを信じたいと思いながらも、偶像を捨てることに抵抗を感じている人も多いと思います。もちろん、「偶像から生けるまことの神へ」という決断は自分の力だけで出来るものではなく、神の恵みによってはじめて出来ることです。けれども、神がなぜ偶像を禁じておられるのかが分かれば、その決断の助けになるかと思います。神が偶像礼拝を禁じておられるのは、なぜなのか、その三つの理由を考えてみましょう。
一、偶像礼拝と神の栄光
神が偶像礼拝を禁じられたのは、第一に、それが、神の栄光を曇らせるからです。
人類は、もとはおひとりの神を信じていました。目には見えなくても、この世界を創造し、治めておられるお方をあがめていました。人々が世界の各地に散らばって住み、それぞれに違った言語、文化、民族をつくりあげていくようになって、人々は、唯一のまことの神を捨て、それぞれに自分たちの民族の神々を生み出してきました。太陽や月、星が神でないことは現代人なら誰でも知っていますが、古代の人々は、太陽や月、星は天にあって、季節や収穫を支配するだけでなく、国家や個人の運命も支配していると考え、そうしたものを神々として拝みました。確かに、太陽は地上に季節を生み出します。月は潮の満ち干を左右します。星は旅人に、位置や方向を示します。夜空の星は古代の GPS でした。しかし、それらは神ではなく、それらを造られ、導いておられる神が、天体のさらに上におられると、聖書は教えています。創世記1:7は、天体について、「神はそれらを天の大空に置き」(創世記1:7)と言っています。人々が太陽、月、星を神々として礼拝していた古代に、聖書はすでに、それらのものは神ではなく、神の作品にすぎないと言っているのです。
ですから、創造者である神ではなく、造られたものに過ぎないものを神として拝むことは大きな間違いなのです。イザヤ書にこう書かれています。
「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。世界を創造されたお方を、造られたものの姿で表わしたり、それに取り替えたりすることは、神の栄光を小さくすること、いや、神の栄光を消し去ってしまうことになります。偶像礼拝は神に対する大きな侮辱であるばかりか、人は偶像礼拝によって、まことの神の偉大さを見失ってしまうのです。
二、偶像礼拝と人間の尊厳
偶像礼拝が禁じられている第二の理由は、人間の尊厳にかかわりがあります。神のかたちに造られた人間が鳥や獣や這うもの姿を像に刻み、それを拝むことは、人間の尊厳を低め、神のかたちを損なうことになるからです。
神は人間を、神が造られたものの中でいちばん優れた者としてお造りになりました。といっても、人間が一番大きくて、強いという意味ではありません。人間よりも大きくて強い動物はいくらでもあります。人間は馬のように早くは走れませんし、鳥のように空を飛ぶこともできません。魚のように水中で生活することもできません。身を守る角も牙もありません。他の動物は生まれてすぐに自分の足で立ち、自分の力で餌を取ることができるようになるのに、人間は、何年も親の世話にならなければ、何もできません。人間はとても弱い存在です。しかし、神は、人間に特別な賜物をお与えになりました。それは人間に与えられた優れた知恵、豊かな感情、そして物事を選びとっていく意思の力です。他の動物にも知恵はあります。しかし、人間の知恵にはかないません。人間には、目に見えない神を知り、理解する知恵が与られています。他の動物にも喜怒哀楽の感情はあります。しかし、人間には神を愛し、喜ぶ感情が授けられています。他の動物にも意志があるでしょう。しかし、多くの場合、動物は条件反射的に行動し、その行動原理は「快・不快」、ここちよいか、そうでないかです。しかし、人間は、たとえ、それが辛いことや不利なことであっても、快・不快や損得を超えて決断し、価値あるものを選択し、神に従っていく意志が備えられています。人間だけが神を礼拝し、人間の社会にだけ宗教があるのは、人間が神のかたちに造られたからです。神は人間を、あらゆるものの中でいちばん神に近いものとしてお造りになったのです。ですから、人が、鳥や獣の像を作って、それひれ伏すということは、自らが神のかたちであることを否定することになるのです。偶像礼拝は、神の栄光を小さくして、神を低めるだけでなく、神のかたちに造られた自分自身を卑しめ、低めることでもあるのです。
神は偶像について「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と言われたあとで、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神(である)」(出エジプト20:5)と言われました。「ねたむ」というのは決して良い響きの言葉ではりませんが、神があえてそのような言葉を使われたのは、神が他のどんな被造物にもまさって人間を愛しておられる、その愛の強さを表わすためでした。神の人間に対する真剣で、ひたむきな愛は、神と人間との間に割り込んできて、その愛を壊そうとする偶像を黙ってはみていられないのです。神が偶像を嫌われるのは、神がそれほどまでに、人間を愛してくださっているからです。
聖書では、神と神の民との関係は、夫と妻の関係にたとえられています。神が夫で、神の民が妻です。ですから、神の民が偶像礼拝にふけることは、夫を捨てて、他の男性に走っていくことと同じ、偶像礼拝は霊的な姦淫の罪でした。そのような罪を犯した神の民は捨てられて当然なのですが、神は、自分を裏切り、離れて行った人々にも、「背信の女イスラエル。帰れ。…わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。…わたしは、いつまでも怒ってはいない。…背信の子らよ。帰れ。…わたしが、あなたがたの夫になるからだ」(エレミヤ3:12-14)と呼び戻しておられるのです。
同じ神の愛は、今日の私たちにも、変わらず注がれています。とりわけ、イエス・キリストを信じた者にはそうです。ヤコブ4:5に「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」ということばがあります。神は私たちに聖霊を住まわせ、私たちを神のものとされたのです。神は、信仰者たちが偶像礼拝にふけることによって、御霊を消し、イエス・キリストによって回復していただいた神のかたちを損なうことがないようにと、心から願っていてくださるのです。
三、偶像礼拝とむさぼり
神が、偶像礼拝を禁じておられる第三の理由は、それが、私たちの内面の罪と深いかかわりを持っているからです。コロサイ3:5に「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と教えられているように、偶像礼拝とは、心の中のむさぼりが形をとって現われたものであり、また、偶像礼拝はむさぼりを助長します。そのため、神はこれに対して厳しく対処なさるのです。
ソロモン王の時代から、イスラエルに数多くの偶像が入りこんできました。なかでも一番人気があったのは、バアルという男性神とアシタロテという女性神でした。預言者エリヤが「主の預言者は私ひとりになりました」(列王記第一18:22)と嘆いたほど、バアル礼拝はイスラエルに広まりました。なぜでしょう。それは、バアル礼拝が物質的にもっと豊かになりたいという欲望に基づいたものだからでした。バアルは農耕の神で、人々に豊作をもたらすと信じられていました。人々は、もっと多くの収穫を得て、もっと豊かになりたい、そのことだけを求めてバアルを礼拝したのです。アシタロテは牧畜の神で、家畜が増え、その群れが大きくなることを約束していました。ユダヤの人々にとって家畜の群れは財産でしたから、アシタロテ礼拝もまた、物質的に豊かになることだけを追い求める人々には、とても魅力的なものだったのです。神が、神の民に、霊的な真実を求め、社会正義を求められるのに対して、信仰も、道徳も、社会正義も問わず、ただ、バアルやアシタロテのためのお祭りを守っていれば、それで毎年豊作が続き、家畜が増えるというのですから、物質的に満たされることだけを求める人々には、バアル・アシタロテ礼拝はもってこいの宗教でした。そして、そのような偶像を礼拝する人は、結局のところ、自分の欲望に仕えるようになってしまうのです。
バアル・アシタロテ礼拝にかぎらず、偶像礼拝の本質は「むさぼり」(貪欲)にあると、聖書は教えています。そうであるなら、私たちは、たとえ、偶像を刻んでそれにひれ伏すことがなくても、もし、心がむさぼりに支配されているなら、それは偶像礼拝になるのです。そして、神を愛し、敬い、神を主として仕えるよりも、自分が「主」になり、神に、自分の願いをかなるために、自分に仕えさせることを求めるようになるのです。ピリピ3:18-19に
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。という言葉があります。これは、自分の欲望に仕えるという偶像礼拝を指しています。目に見える偶像礼拝から救われた者でも、この目に見えない偶像礼拝に引きこまれてしまうことがあるかも知れません。ですから、自分の歩みをいつも、聖書のことばで照らし、みことばの光の中を歩みましょう。そうするなら、私たちは、偶像礼拝から守られ、霊とまことで神を礼拝する者になることができます。神の大きな愛が私たちを励まし、力づけ、私たちをまことの礼拝者にし、礼拝の喜びでたましいを満たしてくださるのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたが、私たちを偶像礼拝から遠ざけてくださるのは、あなたの栄光を守るためだけでなく、あなたのかたちに造られた私たちに、本来の姿を取り戻させるためであることを今朝、知りました。あなたお深い愛を感謝します。あなたのこの愛が、私たちをむさぼりから解放し、心をきよめられて、真実な愛であなたを礼拝する者としてくださいます。あなたの助けなしには、あなたのおことばに従い通すことはできません。あなたの愛とあわれみのゆえに、私たちを導き、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/24/2011