天にあるもの

コロサイ3:1-4

オーディオファイルを再生できません
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

 先週、夏期修養会の講師の口調が、その先生の牧師の口調によく似ていたとお話ししました。だれしも、とくに信仰生活をはじめたころには、その時の牧師から、大きな影響を受けるものです。私もそうでした。バプテスマ(洗礼)を授けていただいた母教会の先生は、私たちに注意深く聖書を読むことを教えてくれました。聖書に「そういうわけで」とか、「こういうわけで」といったことばが出てくると、先生はかならずと言ってよいほど、「『そういうわけで』とありますが、どういうわけでしょうか」と説教しました。それで私も、聖書を読むとき、「そういうわけで」ということばが出てきたら、「どういうわけか」を考えるようになりました。コロサイ3:1は、「こういうわけで」ということばで始まっています。なぜ、ここにこのことばが出てくるのでしょうか。「こういうわけ」というのは「どういうわけ」なのでしょうか。

 一、信仰と信仰生活

 第一に、このことばは、教理から倫理への移り変わりを示しています。

 コロサイ人への手紙は全部で4章ありますが、内容的には1-2章と、3-4章に大きく分けることができます。1-2章はキリストがどのようなお方であり、私たちの救いのために何をしてくださったかということ、つまり「教理」が教えられています。3-4章は、それを信じる者たちがどう生きるべきかということ、つまり「倫理」が教えられています。聖書は、教理と倫理の両方を教えており、多くの場合、最初に教理が教えられ、次に、教理に基づいて倫理が教えられます。3:1の「こういうわけで」ということばは、この手紙の主題が教理から倫理に移っていくことを示しています。

 聖書が教える倫理は、単に、「こうしなさい」、「ああしなさい」という戒めではありません。「こうしたら自分の身を守ることができる」、「相手にいやな思いをさせなくて済む」といった人生の教訓や生活の知恵といったものでもありません。それは、教理に基づいた倫理です。神が私たちのために何をしてくださったかが教えられ、それに基づいて、私たちがなすべきことが教えられるのです。

 たとえば、「人を赦す」ということを教えるのに、聖書は、「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)と言っています。たんに「赦しなさい」と教えるのでなく、「主があなたがたを赦してくださったように」と教えています。主イエス・キリストは、なぜ、どんなふうにして、私たちの、どんな罪を赦されたのか。そこから出発して、私たちははじめて、赦しとは何なのか、どうすることが赦すことなのかが分かり、他の人を赦す心と力を与えられるのです。

 こう言いますと、良いことをするにに、いちいち神を持ち出さなくても良いのではないか。信仰と道徳とを結び付けなくても、人は自然と良い行いができるのではないかと考える人もあるでしょう。道徳的であることは良いことです。しかし、神を認めない道徳は、人間が持っている罪から目をそらせ、罪の解決から人を遠ざけることがあります。道徳というものは、時代や社会によって変化することがあります。信仰と結びつかない道徳は、どうかすれば、その場しのぎで、自分の身を守るためのもので終わってしまうことがあります。また、その時代の権力者たちが自分たちに都合のよい道徳を作り、そうしたお仕着せの道徳によって人種による差別などが生まれたことを、私たちはよく知っています。変わらない神のことばに基づいたものでなければ、他の人を守り、社会を守ることができないのです。神が人に求めておられるのは、神への信仰から生まれる道徳です。教理から生まれる倫理です。信仰から生まれて来る生活です。それによって私たちは、神に喜ばれる生き方ができ、自分が生かされるだけでなく、他の人をもを生かすことができるようになるのです。

 二、キリストの十字架と復活

 コロサイ3:1の「こういうわけで」というのは、第二に、キリストの十字架と復活をさしています。

 コロサイ人への手紙の1-2章にはキリストが第一のお方であると教えられていました。キリストは第一のお方なのに、この世に来られ、一番低い者となられました。主であるお方がしもべとなり、正しいお方が罪を着せられ、十字架に追いやられました。そして、いのちの与え主が死なれたのです。しかし、それは、キリストが罪に負け、死に負けてしまったということではありません。キリストはご自分の死によって死を滅ぼし、三日目に死人の中から復活されました。キリストはご自分の生きておられることを弟子たち示したあと、天に帰り、父なる神の右の座に着座されました。キリストは、やがてそこから、再び、この世に来られます。これを要約すれば、「キリストは死なれ、キリストは復活された。キリストは再び来られる」ということになります。これは、聖書で「信仰の奥義」(テモテ第一3:9)、あるいは「敬虔の奥義」(テモテ第一3:16)と呼ばれています。

 私たちの信仰生活の基盤は、この信仰の奥義にあります。信仰者であれば、誰もが祝福された信仰生活を求めています。どうしたら、満たされた生活ができるのかを学びたいと願っています。しかし、それが「ハウ・ツー」の学びだけで終わってしまうなら、信仰生活のほんとうの秘訣を学ぶことはできません。信仰生活とは「信仰の生活」なのですから、より良い信仰生活を送りたいと願うなら、より深く「信仰」を養う必要があります。自分は「誰を信じているのか」、「何を信じているのか」ということを深く知ることから、どのように生きるのかということが分かって来るのです。

 使徒パウロは言いました。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」(テモテ第二1:12)ローマの世界のいたるところを巡ってキリストを宣べ伝え、教会を生み出してきたパウロの大きな働きは、「私は、自分の信じて来た方をよく知っている」という信仰から生まれたものでした。妨害や迫害、死の危険さえもかえりみないでキリストに従ったその歩みは、「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださる」という確信から出たものでした。神と神のみわざをより良く知ることによって、より豊かな信仰の生活が生まれて来るのです。

 ここで、パウロが「私は、自分の信じて来た方をよく知っている」と言ったのは、「私だけが神を良く知っている」といった高慢な思いからではありません。パウロは別の手紙で「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです」(ピリピ3:12)と言っています。誰も、「私は、もう十分に神を知っている」などと言うことのできる人はいません。パウロのように神を知り、神のみわざを体験している人は、なおのこと、「神さま、もっとあなたを知りたいのです」と、さらに求めることでしょう。「神さま、私はあなたと、あなたが私にしてくださったことを、十分には知っていません。どうぞ、頭で理解するだけでなく、体験においてもあなたを知ることができますように」と、へりくだって神を求めていきましょう。そうするなら、神は、私たちにも、パウロと同じように、「私は、自分の信じている方をよく知っている」と言うことができるようにしてくださるのです。そして、「自分の信じている方をよく知っている人」、つまり「信仰の奥義」を保っている人は、どのように信仰の生活を送るべきかを知るようになるのです。

 三、キリストにある変化

 「こういうわけで」というのは第三に、神が私たちのうちに与えてくださった変化をさしています。

 キリストが死なれ、復活されたこと、そして、やがて再び天からおいでになるために、天にお帰りになったことは、歴史の事実です。キリストの死と、復活は、決して作り話ではなく、それが事実であることを証明することができる歴史上の出来事です。しかし、「歴史上の事実」といっても、それは昔のこととして忘れられていくようなものではありません。歴史の出来事の中には忘れられていくようなものもあるでしょうが、今に至るまでもその影響を残している出来事も数多くあります。日本なら、徳川幕府が倒れ、鎖国が解けたこと、太平洋戦争に敗戦し、新しい憲法のもとに再出発したことなどです。こうしたことが、今の日本を形創っていることは、誰も否定することができません。キリストの十字架と復活は、それ以上の出来事で、二千年たった今も、そして、将来も、人々と世界を造り変えていく事実なのです。キリストの十字架によって赦しが、キリストの復活によって新しいいのちが、信じる者に与え続けられてきましたし、これからも与え続けられるのです。「なぜ二千年も前の十字架が、人の罪を赦すことができるのか」という質問されることがあります。私は、これに対して、「他の歴史上の出来事でさえ、現代の私たちに大きな結果をもたらし、影響を与えているとすれば、神がキリストの十字架によって成し遂げてくださったことが、現代に生きる私たちの救いの力とならないわけがない」と答えています。

 キリストの十字架と復活は、それを信じる者を変えました。コロサイ3:3に「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されている」とあります。キリストを信じる者は、キリストが十字架で死なれたときに、キリストと一緒に死んだのです。また、コロサイ3:1に「あなたがたは、キリストとともによみがえらされた」とあるとおり、キリストを信じる者は、キリストが復活されたときに、キリストと一緒に復活したのです。信じる者は、罪に対してはキリストともに死んだ者であり、神に対してはキリストとともに生きた者なのです。ローマ人への手紙に「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。…キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています」(ローマ6:6,9)とあるのは、このことを指しています。コロサイ3:1の「こういうわけですから」というのは、信じる者に起こった、このような新しい変化を指しています。キリストを信じる者は、新しくされたのだから、新しい歩みへと一歩踏み出すのだと教えているのです。

 キリストを信じる者の新しい歩みとは、コロサイ3:2に「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」とあるように、上にあるもの、天にあるものを意識しながら生きていく生活です。信仰者はこの世に生きてはいても実際は天に属するものとされたのですから、天にあるものを思い、それを求めるのが本来の生き方なのです。

 では「天にあるもの」とは何なのでしょうか。コロサイ3:1に「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」とあるようにそれはキリストです。そして、コロサイ3:3-4に「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」とあるように、そこに、キリストにある「新しい私」もいるのです。

 天にキリストがおられ、私もそこにいるということは、意識して「思う」のでなければ、見過ごされやすい真理です。それをいつも意識していないと、私たちは、地上での成功だけを追い求めたり、この世での生活の事だけを考えて、キリストを見失ってしまいます。また、父なる神の右に座しておられるキリストを見上げていないと、地上での苦しみや悩みに押しつぶされ、キリストにある自分を見失ってしまいます。ローマ人への手紙に「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。…キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています」(ローマ6:6,9)とありました。「知っている」ということばが続いたあとで、聖書は「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ローマ6:11)と教えています。「思う」というのは、たんに知っている、理解しているというだけでなく、それを自分のもとして当てはめることを意味しています。

 キリストが私のために十字架で死んでくださったこと、三日目に死人の中からよみがえられたことは、キリスト者であれば誰もが知り、信じていることです。しかし、この私がキリストと共に死んでいる、キリストと共に復活しているということは、なかなか自分のものにすることが難しい真理です。しかし、天を目指していく信仰の歩みは、ここから始まります。そのことが自分のものとなるよう、祈り求めましょう。神の助けによって、この真理を自分のものとすることができるときがやってきます。あきらめずに求めましょう。そして、上にあるものを見上げ、天にあるものを思う、新しい生活へと導かれていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちがあなたを愛したのでなく、あなたがまず、私たちを愛して、御子イエスの十字架と復活によって、私たちの罪を赦し、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。私たちが、あなたのために生きるのは、あなたのこの愛への応答に過ぎません。すべては、あなたから出ています。ですから、天におられるキリストをさらに深く知り、キリストにある自分自身を発見することができるよう、私たちを導いてください。そこから、天に向かう、私たちの信仰の歩みを始めることができますように。キリストのお名前で祈ります。

7/17/2011