みことばを心に

コロサイ3:16

オーディオファイルを再生できません
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

 聖書は神のことばです。詩篇に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(同130節)とあります。しかし、書店や出版社の倉庫にある聖書から光が出ているわけではありません。聖書は、そのままでは他の書物とかわらず、ペーパーとインクでできたものに過ぎません。聖書は、私たちがそれを読み、学んで、心に受け入れ、心に刻みつけ、心に蓄えたとき、私たちの心を照らす光、私たちの人生の歩みを導くともしびとなるのです。

 それで、コロサイ3:16では「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」と教えられているのです。きょうは、この聖句から「キリストのことば」とは何か、それを「住まわせる」とはどういうことなのか、そして、「豊かに住まわせる」ために具体的にどうすればよいのかをご一緒に考えてみましょう。

 一、キリストのことば

 まず、「キリストのことば」とは何でしょうか。「キリストのことば」には、「キリストが語っておられる」という意味と「キリストを語る」という二つの意味があります。聖書は、まず、「キリストが語られたことば」です。最近の英語の聖書の多くはキリストが直接語られたことばが赤いインクで印刷されています。では、そうした部分だけがキリストのことばで、他はそうではないのでしょうか。いいえ、聖書は、旧約も含めて全体が「キリストのことば」、キリストが語っておられることばです。

 ペテロ第一1:11は、旧約の預言は預言者たちのうちにおられたキリストの霊が、預言者たちに言葉を授けたものであると教えています。また、ヘブル1:1-2に「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」とあります。

 テモテ第二3:16では聖書の著者は聖霊であると言われていますが、コロサイ3:16は、聖書は「キリストのことば」、聖書は神がキリストを通して聖霊によって語っておられると言っているのです。私たちの手にしている聖書は、父・子・聖霊の三位一体の神がくださった聖なる書物、The Holy Bible なのです。私たちは、そんな天からの書物を持っているのです。このことにもっと感謝し、もっと聖書に親しみたいと思います。

 聖書が「キリストのことば」と呼ばれるのは、また、聖書が「キリストを語っている」、つまり、聖書の主題がイエス・キリストであるからです。イエスが「聖書が、わたしについて証言している」(ヨハネ5:39)「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」(ルカ24:44)と言われたように、聖書はキリストを証言するもの、イエスが神の御子キリストであることを教えるものです。

 コロサイの教会をはじめ、アジアの諸教会は、キリストを人間や天使のひとりにまで格下げする間違った教えの影響を受けていました。パウロはそうした誤った教えを「だましごとの哲学」、また、「幼稚な教え」と呼びました。コロサイ2:8にこうあります。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」誤った教えを説く人々も聖書を使いました。しかし、彼らは自分たちの教えに都合のよいように聖書を使っているだけで、聖書をキリストを証しするものとして読んでいなかったのです。

 聖書は、第一級の歴史資料です。歴史として研究しても興味深いものです。文学として読んでも感動を与えてくれます。また、ここには人生の知恵がぎっしりと詰まっています。聖書は、どんなふうに読んでも、役に立ちます。聖書は私たちの心を温めてくれる慰めの言葉、励ましの言葉に満ちています。しかし、聖書から、いわゆる「元気の出る言葉」だけを取り出しても、それがキリストに結びついていなければ、人をほんとうに力づけるものとはなりません。知恵も、希望も、慰めもキリストから来るからです。C. S. ルイスは “Mere Christianity” で「真理を求めないで慰めだけを求めてもそれは与えられない。そんなことをしても真理も慰めも得ることはできない。しかし、真理を求めるなら、真理とともに慰めを得る」と言っています。キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われました。真理であるキリストを脇においたまま、いわゆる「心に響く言葉」だけを聖書から取り出しても、それはほんとうの意味で神のことばを自分のものにしたことにはなりません。聖書を「キリストのことば」として読み、真理を見出し、その真理が与える力や慰め、励ましを自分のものにしたいと思います。

 二、住まわせること

 次に「住まわせる」という言葉ですが、これには「家に迎える」という意味があります。軒下を貸すということではありません。家族が「ひとつ屋根の下に住む」ということです。家族が一緒に生活する親密な関係を描いています。みことばを、時たま訪れる来客としてではなく、一緒に生活する家族として迎えるのです。そうすることによって、キリストが聖霊によって私たちの心のうちに住んでくださるようになるのです。

 ローマ7:17-20には「私のうちに住みついている罪」という言葉が繰り返し出ています。これは人の内面に「住みついて」離れない罪の現実を描いています。人は自分の力で、自分のうちに「住みついている罪」を追い出すことはできません。罪に代わってキリストが聖霊によって私たちの内に共に住んでくださることによってしか、罪を追い出すことはできません。「キリストのことばを住まわせる」とは、神のことばを聞いて、信じて、受け入れて、聖霊を私たちの内側にお迎えすること、日々の生活でキリストを主としてあがめて歩むことなのです。

 「キリストのことばを住まわせる」ということで、思いうかべるのは、種まきのたとえ(マタイ13:1-9)でしょう。種を蒔く人が蒔いた種は、道端に、岩地に、茨の中に、そして良い地に落ちました。道端に落ちた種は鳥に食べられてしまい、岩地に落ちた種は芽を出したものの、根を張ることが出来ずに枯れてしましました。茨の中に落ちた種は芽を出し、根を張ることはできたのですが、茨に被われて伸びることができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は成長して実を結びました。みことばを住まわせるとは、私たちの心が良く耕された畑地のように柔らかくなっていて、みことばの種を包み、そこにある命を育むことなのです。みことばにはいのちがあります。私たちのこころが道端のように神に対して頑固でなければ、また、岩地のように浅いものでなければ、さらに、茨のように神以外のものに占領されているのでなければ、みことばはそこに根を下ろし、成長し、実を結びます。みことばはみことば自体が持っている命によって成長するのです。私たちがすることは、良い土地となってみことばに場所を与えることです。

 キリストはヨハネ15章で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。…あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(ヨハネ15:4, 7)と言われました。キリストのことばが私たちのうちにとどまっているなら、私たちもキリストにとどまっていることを確信することができます。私たちがキリストに願い、キリストがそれをかなえてくださるという祈りの交わりは途絶えることがないのです。この幸いは、何年もかかってやっと手に入れることができるような難しいものではありません。それは、忠実に、心を込めて聖書を読み、それを受け入れるすべての人に与えられるものです。この幸いは、みことばを心のうちに「住まわせる」ことによって私たちのものとなるのです。

 三、みことばを住まわせるために

 では、「キリストのことばを住まわせる」ため、具体的にどうすればよいのでしょうか。四つのステップをお話しします。

 第一に、まずは聖書を「読む」ことです。あるアメリカ人が私に「二年で聖書を全部読みました」と言いました。その人は日本語を話す人ではなかったので、英語の聖書を読んだのだと思ったのですが、よく聞いてみると、なんと日本語の聖書を全部読んだというのです。日本語で聖書を朗読したものを耳で聞きながら、聖書を読んでいったそうです。全巻を読み通すのは母国語でも大変なことなのに、外国語で読んだというのです。私たちも、それぞれ自分のペースで、聖書を読み続けましょう。毎日欠かさないことが大切です。

 第二に、聖書を黙想することです。聖書をただ読んで終わるのではなく、読んだ箇所の中心的な言葉について、時間をかけて思い巡らすのです。これは、牛が食べたものを反芻することにたとえられます。牛は胃袋を四つ持っています。第一の胃袋は大きなもので、草をいっぱい入れることができます。第二の胃袋は、ポンプの役割りをしており、第一の胃袋に入ったものを口に戻します。牛は、それをさらに細かく噛み砕き、噛み砕かれたものは第二の胃によって、第三の胃に送られ、さらに第四の胃で消化酵素と混ざって、腸で栄養となって吸収されます。牛は一日6時間から10時間も口をモグモグさせて、反芻しています。牛だけでなく、シカやキリンなどもそうやって食べ物から栄養素を徹底的に吸収するので、草だけでも生きていけるのです。聖書の養分を吸収するために、くりかえし噛み砕き、すりつぶす反芻のような作業、それが黙想です。

 第三に、祈りによってみことばに応答しましょう。聖書を読み、黙想によって与えられたことに、祈りによって答えるのです。それは、決まりきった祈りでなく、みことばへの応答の祈りです。ですから、みことばによって神の栄光に心打たれたなら、その祈りは賛美の祈りになるでしょうし、キリストの恵みを示されたなら感謝の祈りになるでしょう。また、罪を示されたなら悔い改めの祈りに導かれ、神の約束を示されたなら、それに従って願い求めましょう。もし、聖書を読み黙想しても、何も得られなかったり、疑問が残ったままであったとしても、正直に「主よ。このことが分からないのです。教えてください」と祈ればよいのです。聖書を読み進むうちに、かならず答を得るようになります。

 第四は「瞑想」です。これは祈りの後に自分自身を神に委ね、神が私と共におられることを確認する時です。「確認する」というと、自分が何かをするように聞こえますが、瞑想では神に身を委ねるので、実際のところは、神がその臨在を示してくださるのです。時計の時間ではごく短くても、何時間も主のそばにいたように感じるのが普通です。第二のステップの「黙想」と第四のステップの「瞑想」は似てはいますが、主体が違います。黙想は聖書との対話で、聖書に問い、聖書に聴くのですが、そこでは人が主体です。しかし、瞑想では人は神の臨在の中に身を置くだけで、神が完全に主体となられます。祈りのあと、すぐ立ち上がるのでなく、主の臨在に包まれる体験をもって立ち上がることが大切です。それが朝の祈りなら、私たちの一日は、充実したものになり、それが夜の祈りなら、一日の疲れをいやすものとなります。

 読む(lectio)、黙想する(meditatio)、祈る(oratio)、瞑想する(contemplatio)、この四つのステップは中世の修道院で Lectio Divina(聖なる読書)と呼ばれ、修道士たちによって実践されました。時代を経て、今まで学者や修道士、説教者や一部の知識人だけのものであった聖書が、多くの人々のものになり、今はだれもが「聖なる読書」ができるようになりました。それで「レクチオ・デヴィナ」が見直され、広く用いられるようになりました。この四つのステップは互いに重なりあうことがあり、必ずしも順序通りに進むとは限りません。神は主権者であり、自由にものごとをなさいます。しかし、多くのキリスト者の実際の体験の中から生み出された「レクチオ・デヴィナ」は、勝手気ままに聖書に向かうことから私たちを救ってくれます。これを活用し、「キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせる」のに役立てたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、今も、聖書を手にすることを禁じられたり、買い求めることができなかったり、聖書を教える人がいない国が多くある中で、私たちはこうして聖書を自由に読むことができます。このことを当たり前のことと思わず、この特権を生かして、さらにみことばをうちに住まわせることができるよう、私たちを導き助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/19/2021