御言葉を宿らせる幸い

コロサイ3:16

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キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

 わたしたちは、一昨年から、年間聖句を選ぶようになりました。一昨年はルカ11:1から「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください」、昨年はホセア6:3から「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」を選び、今年はコロサイ3:16から「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」を選びました。では、コロサイ3:16が言う「キリストの言葉」とは何のことでしょうか。また、「宿らせる」とはどうすることなのでしょうか。キリストの言葉を「宿らせる」とき、そこにはどんな祝福があるのでしょうか。そうしたことをご一緒に考えてみましょう。

 一、キリストの言葉

 まず、「キリストの言葉」とは何でしょうか。「の」という言葉にはいろんな意味があります。まず「キリストの」を「キリストが」という意味に取ると、「キリストの言葉」とは「キリストが語られたことば」という意味になります。英語の聖書には、キリストが直接語られた言葉が赤い文字で印刷されたものがあります。"Words of Christ in red" あるいは "Red Letter Edition" などといった表示があります。しかし、赤文字で印刷された言葉だけが「キリストの言葉」なのでしょうか。

 旧約時代の預言者たちはキリストについて数多くの預言を書いていますが、ペテロ第一1:11によると、そうした預言は預言者たちのうちにおられたキリストの霊が、あらかじめ預言者たちに言葉を授けたものであると言っています。つまり、旧約聖書もまた、キリストが預言者たちをとおして語られた「キリストの言葉」であると言うことができます。

 新約聖書は使徒たちの言葉ですが、それもまた、「キリストの言葉」です。キリストが地上で語られた言葉といえども、キリストご自身がそれを書き遺されたわけではありません。キリストの直接の言葉といわれるものもまた、使徒たちが、主が語られた言葉を思い起こして書いたものです。しかし、使徒たちに、キリストの言葉を思い起こさせたのは、聖霊ですから、使徒たちを通して語っておられるのもキリストです。ですから、新約聖書もまた「キリストの言葉」なのです。ヘブル1:1-2に「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」とあります。神はキリストを通して語り、キリストは使徒たちを通して語られたのです。ですから、「キリストの言葉」とは、キリストが直接語られた言葉だけではなく、聖書全体を意味するのです。

 「キリストの言葉」には、また、「キリストについての言葉」という意味があります。「キリストの」を「キリストを」という意味にとれば、聖書は「キリストの言葉」とは「キリストを語る言葉」ということになります。聖書の全体は、そこで「キリストが語っておられる言葉」ですが、同時に、聖書の全体は「キリストについて語っている言葉」です。イエスが「聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と言われたように、聖書はキリストを指し示す、キリストを主題とした書物なのです。

 ですから、「キリストの言葉を宿らせる」というのは、聖書をそこでキリストが語っておられるものとして読むこと、また、聖書の中にキリストを見出すように読むこと、聖書を通してキリストに出会うということになります。聖書は、歴史として研究して興味深いものですし、文学として読んでも感動的なものです。また、数々の人生の知恵に満ちています。聖書は、どんなふうに読んでも役に立ちます。しかし、聖書は、キリストに焦点をあてて読むまでは、それを正しく読んだことにはなりません。聖書からキリストを取り除いたり、キリストを脇に置いたままでは、聖書を「キリストの言葉」として読んでいることにはなりません。

 今、画家が描いたイエスの顔の一部をご覧いただいていますが、これは実際の聖書の言葉で描いた絵なのです。聖書の文字に濃淡をつけて、遠くから見ると、イエスの姿が浮かび上がってくるように工夫されています。この作品は、聖書のどのページを読んでも、そこにキリストを見出すようにということをわたしたちに教えています。聖書を「キリストの言葉」として読み、そこにキリストを見出す。御言葉を通してキリストに出会う。この年も、そのようにして聖書を読み、学んでいきたいと思います。

 二、宿らせること

 最初に「キリストの言葉」について考えてみましたので、次に、「宿らせなさい」というところで使われている「宿る」という言葉について学んでみましょう。これは「中に」という言葉と「家」という言葉が組み合わさって出来た言葉で、「誰かといっしょに一つの家に住む」という意味になります。日本語的に言えば、「ひとつ屋根の下に住む」ということになるでしょうか。家族が一緒に生活する親密な関係を描く言葉です。

 聖書では、この言葉は、神が信じる者たちとともにいてくださることを表わすのに使われています。コリント第二6:16にこうあります。「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。」これは、すべてのものの造り主、最も聖なる神が、ちっぽけで罪あるわたしたちと共に、ひとつ屋根の下に住んでくださるという約束です。そんなありえないことを、イエス・キリストは実現してくださいました。神は、キリストを信じる者に「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と言ってくださり、わたしたちが神に「あなたはわたしの神、わたしはあなたの者」と言うことができるようにしてくださったのです。これこそ驚くべき恵み、「アメージング・グレイス」です。この一年も、日々に神をお迎えし、神と共に生きる喜びを味わいたいと思います。

 ローマ8:11には、「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」とあって、聖霊が、信じる者の霊のうちに宿ってくださっていることが教えられています。聖霊が、時々訪れてくださるというのではなく、―― それは旧約時代のことです。―― 新約時代の今は、聖霊は信じる者の霊とともにいてくださる、そこに住んでくださるというのです。

 同じローマ人への手紙の7:17−20では「わたしの内に宿っている罪」という言葉が繰り返されています。罪が人の内面に「棲みついて」離れない様子、わたしたち人間の罪の現実を描いている言葉です。人間は自分の力で棲みついた罪を追い出すことはできません。それで、これを書いた使徒パウロは「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ7:24)と嘆いています。しかし、この嘆きは、勝利の歓声にかわります。なぜなら、イエス・キリストを信じる者には、罪にかわって聖霊が共に住んでくださる、聖霊が「棲みついて」くださるからです。

 ですから、「キリストの言葉を宿らせる」というのは、神がわたしたちと共におられ、聖霊がわたしたちのうちに住まわれるように、御言葉を自分の内側に迎え入れ、御言葉と共に日々の生活を送るということになります。

 御言葉は、それを読まなければ、書物の中に、紙とインクのままとどまっているだけで終わります。それを読んでも、心に受け入れなければ、頭脳のどこかにかすかな記憶として残るだけです。また、心で受け入れたとしても、それを実行に移さなければ、御言葉によって生活することにはなりません。わたしたちの人生に聖霊の実、また御言葉の実という良い実を実らせることができないのです。御言葉を玄関先に立たせていませんか。あなたの心の家に迎えいれましょう。御言葉をゲストルームにだけでなく、あなたのプライベートな部屋にも迎えましょう。「疑いの部屋」、「思い煩いの部屋」、「恐れの部屋」などは誰もが持っているものです。そこにも御言葉を迎え入れましょう。御言葉が時たまあなたの心の家を訪れるというのではなく、あなたの霊のうちにとどまるようにするのです。それが「御言葉を宿らせる」ことなのです。

 三、その祝福

 聖書を読み、学び、黙想する、これらは、皆、「御言葉を宿らせる」のになくてならないことです。そして、こうしたことは、毎日、コツコツと積み重ねていってはじめて、その人に祝福となって返ってきます。運動でも、勉強でも、毎日、コツコツと続けることが大切だと言われます。一日15分でも、運動や学習を欠かさない人のほうが、一週間に一度、まとめて2時間運動や勉強をする人よりも、進歩が早いと言われます。「御言葉を宿らせる」のも同じです。毎日の積み重ねがあってはじめて、「御言葉に導かれました」、「御言葉に励まされました」、「御言葉に教えられました」、「御言葉に満たされました」という体験ができ、そうした証しが生まれてくるのです。

 ペテロ第一2:2には「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」とあります。「御言葉を宿らせる」人は、「信仰の成長」という素晴らしい祝福を受けます。

 また、ひとりひとりが「御言葉を宿らせる」とき、そういう人たちが集まる教会は豊かなまじわりを築くことができます。コロサイ3:16で「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」と言われている中にある『あなたがた』というのは、「教会」を意味します。「知恵をつくして互に教えまた訓戒し」というのは、教会のまじわりを、「詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえ」というのは教会の礼拝を指しています。教会に集う者ひとりひとりが「御言葉を宿らせる」とき、教会に御言葉が宿りまず。そして、そこから「知恵をつくして互に教えまた訓戒し」あい、成長していくまじわりが生まれ、「詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえ」る真実な礼拝が捧げられるようになるのです。

 主イエスはヨハネ15:7で「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」と言われました。主は「わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら」と仰って、御言葉を心にとどめているなら、キリストにとどまっていることができると教えてくださいました。わたしたちが「御言葉を宿らせる」とき、キリストはわたしたちのうちに宿ってくださるのです。ここに、「御言葉を宿らせる」ことの最大の祝福があります。「御言葉を宿らせる」人の内面の喜びや充足は、他のどんなものにも比べることができません。御言葉によってキリストにとどまり、キリストと共に生きるという大きな祝福に、この一年もあずかっていきたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちが、個人としても、教会としても、あなたのおことばを喜びとし、御言葉を宿すものとなれますよう、導き助けてください。あなたのおことばの豊かさを味わい、それによって満ち足りるものとしてください。この年も混じりけのないみことばによって私たちを養ってください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/8/2017