キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
今年の年間聖句にはコロサイ3:16から「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」が選ばれました。この聖句が言う「キリストのことば」とは何のことでしょうか。また、「住まわせる」とはどうすることなのでしょうか。そして、キリストのことばをさらに「豊かに」住まわせるために、私たちに何ができるのでしょうか。一年間、この聖句とともに歩んでいきますから、この聖句の基本的なことを学んでおきましょう。
一、キリストのことば
まず、「キリストのことば」とは何でしょうか。「の」ということばはいろんな意味に解釈することが出来ます。まず「キリストの」を「キリストが」という意味に取ると、「キリストのことば」とは「キリストが語られたことば」という意味になります。英語の聖書には、キリストが直接語られたことばが赤い文字で印刷されたものがあります。"Words of Christ in red" あるいは "Red Letter Edition" などといった表示があります。福音書などでは赤い文字が続いて、読みにくいので、私は敬遠していますが、キリストが語られたことばに注目するには良い工夫かもしれません。しかし、"Red Letter Edition" を読むときには、キリストが直接語られたことば、"Red Letter" だけがキリストのことばで、それだけが重要なのだと勘違いしないようにしなければなりません。聖書はすべて神がキリストを通して聖霊によってお与えになったものですから、"Red Letter" 以外もまた「キリストのことば」であることを覚えていなければなりません。使徒たちによって書かれた手紙もまた、キリストが使徒たちを通して語り、教えておられる「キリストのことば」なのです。ですから、聖書全体が「キリストのことば」ということになります。
「キリストの」ということばは、また、「キリストについて」という意味に取ることもできます。この場合、「キリストのことば」というのは、「キリストについて語られたことば」、「キリストを教えることば」、「キリストが主題であることば」ということになります。キリストは「聖書は、わたしについて証言している」(ヨハネ5:39)「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」(ルカ24:44)と言われました。「律法・預言者・詩篇」というのは聖書のことです。聖書はキリストを証言するもの、キリストを主題とした書物です。ですから、「キリストのことば」には、「キリストが語っておられることば」という意味とともに、「キリストを語ることば」という意味があります。
コロサイの教会をはじめ、アジアの諸教会は、キリストを人間や天使のひとりにまで格下げして教える間違った教えの影響を受けていました。それで、使徒パウロはキリストが第一のお方であることを教えるためにコロサイ人への手紙を書きました。コロサイ2:8に「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」とありますが、そのような間違った教えに対して「イエスが主キリストである」ことを教える健全な教えを「キリストのことば」と呼び、その健全な教えをしっかりと保っているように教えているのです。コロサイ3:18の「キリストのことば」というのは、聖書の全体を心に蓄えるようにということを教えているのですが、とりわけ、キリストについての健全な教理を常に保っているように教えているのです。
私たちは聖書を、キリストを教えるものとして読み、そこからキリストを主とする信仰に導かれているでしょうか。聖書は、歴史として研究して興味深いものですし、文学として読んでも感動を与えます。また、人生の知恵を得るのにとても有益です。聖書は、どんなふうに読んでも面白く、役に立ちます。しかしながら、聖書は、キリストに焦点をあてて読むまでは、それを正しく読んだことにはなりません。ヨハネ1:1に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」とあるように、「ことば」は「キリスト」、キリストご自身が「ことば」なのですから、「キリストのことば」である聖書からキリストを取り除いたり、キリストを脇に置いたままでは、聖書を「キリストのことば」として読んでいることにはならないのです。私は、あるとき、文字に濃淡をつけて、遠くから見るとそこにキリストの顔が浮かび出て見えるように書かかれた聖書の一ページを見たことがあります。私はそれを見て、聖書のどのページを読むときも、そこにキリストを見出していく、そんな気持ちで聖書を読みたいと思いました。物知りになるための知識ではなく、もっと霊的、人格的にキリストを知りたいと願いました。聖書を「キリストのことば」として読み、そこにキリストを見出したいのです。それを今年一年の私たちの目標にしたいと思います。
二、宿すこと
さて、この「キリストのことば」を「住まわせる」、「宿す」とはどうすることでしょうか。「宿す」ということですぐに思い浮かべるのは、母マリヤのことです。ルカ1:29にマリヤが天使ガブリエルのお告げを聞いたとき、「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」とあります。マリヤは神のことばを耳で聞いただけでなく、心でも聞いたのです。それを真剣に受け留めたのです。そして「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言って、神のことばを受け入れ、御子イエスを宿しました。マリヤは御子を宿す前にみことばを宿したのです。マリヤはみことばによって「ことば」である御子をその身に宿したと言って良いでしょう。「キリストのことばを住まわせる」とは、マリヤのように自分のうちにみことばを宿すことなのです。
イエスはこのことを種まきのたとえ(マタイ13:1-9)で分かりやすく説明しておられます。種を蒔く人が蒔いた種は、道端に、岩地に、茨の中に、そして良い地に落ちました。道端に落ちた種は鳥に食べられてしまい、岩地に落ちた種は芽を出したものの、根を張ることが出来ずに枯れてしましました。茨の中に落ちた種は芽を出し、根を張ることはできたのですが、茨に被われて伸びることができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は成長して実を結びました。みことばを宿すとは、私たちの心が良く耕された畑地のように柔らかくなっていて、そこにみことばが落ちると、それを包みこんで自分のうちに、みことばの持ついのちを育むということなのです。みことばにはいのちがあります。私たちのこころが道端のように神に対して頑固でなければ、また、岩地のように浅いものでなければ、茨のように神以外のものに占領されているのでなければ、みことば自体が持っているいのちによって、みことばが私たちの心に根を張り、成長し、実を結ぶようになるのです。キリストのことばを「宿す」とは、私たちが良い地となってみことばに、その場所を与えることなのです。
コロサイ2:6-7に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」とあります。キリストのことばが私たちのうちに根を張り、成長するということは、私たちがキリストのうちに根を張り、成長することでもあるのです。キリストはヨハネ15章で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。…あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:4,7)と言われました。キリストのうちに留まる人は、キリストのことばを自分のうちに留めています。つまり、みことばを自分のうちにとどめる人は、同時にキリストのうちにとどまっているのです。みことばを真理として受け入れ、それを心に宿す人は、キリストのうちに宿る人であると言うことができます。キリストのことばを聞いても、どこか他のところに置き去りにしていくのでなく、自分の心にしっかりととどめましょう。それによって私たちはキリストにつながっていることができるからです。キリストのことばを宿す人には、キリストのいのちによって生かされる力強い人生が待っているのです。
三、豊かに宿すこと
では、キリストのことばをさらに「豊かに」宿らせるにはどうしたら良いのでしょうか。具体的な五つのことをお話しします。
第一に、まずは聖書を開いて「読む」ことからはじめましょう。昨年末、ある英語を話す人から、「二年で聖書を全部読みました」という報告を受けました。私は、英語の聖書を読んだのだと思ったので、「良かったですね」と答えましたが、よく聞いてみると、なんと日本語の聖書を読んだというのです。「すごいな」と思いました。母国語で聖書全巻を読み通すだけでもなかなか大変なことなのに、外国語で読むというのはすごいことだと思いましたが、やればできるのだとも思いました。その人にはきっと神の祝福があったことでしょう。私たちも、同じようにはできなくても、自分のペースでいいですから、せめて生涯に何度かは聖書を初めから終わりまできちんと読み通せたらと思います。一日一章づつ読んでいけばおよそ三年で、毎日旧約二章、新約一章を読めば一年で通読できます。それは必ず大きな祝福となることでしょう。
第二に、礼拝で聖書のメッセージを「聞く」ことです。コロサイ3:16に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」とあるのは、教会の礼拝の様子を描いたものです。初代教会の礼拝では、何人かの人が、今日の説教にあたる預言をし、また、ともに賛美しました。使徒パウロは礼拝で「キリストのことば」を聞くことによってそれを宿すようにと教えています。
第三に、聖書のクラスで「学ぶ」ことです。教会にはすでに聖書を学ぶ機会が数多くあります。そうしたクラスに出られないけども、もっと聖書を学びたいと願う人がありましたら、お知らせください。良い方法を見つられると思います。
「読む」、「聞く」、「学ぶ」の次にすることは、みことばを「黙想する」ことです。詩篇1:2に「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」とあります。この「口ずさむ」という言葉は「思い巡らす」とも訳すことができます。聖書を読むと、かならず、その聖書の一節、あるいはひとつの言葉が心に留まります。大勢の人で同じ箇所を読んだとしても、人によってその節や言葉は違います。また、同じ人が同じ箇所を読んでも、その時にその人が置かれている状況によって響いてくる節や語句は違ってきます。信仰の成長にによっても変わってくるはずです。その時、自分の心に留まった節を、何度かゆっくりと口に出して、あるいは心の中で唱えてみましょう。そしてそれを思い巡らすのです。黙想は自分勝手に想像をふくらませることではありません。むしろ自分の思いがみことばによって導かれ作り上げられていくのです。黙想はひとりごとではありません。みことばとの対話です。みことばとの対話はかならず、神との対話、祈りに導かれていきます。みことばへの応答の祈りを黙想の中に含めましょう。黙想したこと、祈ったことを日記につけておくのも良い霊的な訓練になります。聖書を読み、聞き、学ぶたびに、黙想を実行するなら、みことばは、私たちのうちに根をおろし、実を結ぶようになるでしょう。
第五は、「実行する」ことです。ヤコブ1:21-22に「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」とあります。神が私たちの心に蒔いてくださったみことばを素直に受け入れることとともに、それを実行することが教えられています。神のことばを「実行する」と言っても、誰も、一度に、すべてを実行できるものではありません。一度にひとつづつ実行していければ良いのです。10のことを学んでそのうちのひとつでも実行できたら、100のことを学んでひとつも実行しないよりはもっと良いのです。聖書を、四本の指の上に乗せただけでは簡単に手から落ちてしまいます。しかし、親指でしっかり押さえれば落ちることはありません。「読む」、「聞く」、「学ぶ」、「黙想する」などといったことは四本の指のようなものです。しかし「実行する」というのは親指のようなものです。みことばを実行する人はそれによってみことばを自分のものとすることができるのです。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」このことばの「あなたがた」というのは、私たちひとりびとりのことでもあり、また「教会」のことでもあります。教会の群れの中にキリストのことば、みことばが宿るようにしなさいということを教えています。「みことばが宿る教会」、それはなんと素晴らしい教会でしょう。みことばがみことばとして語られ、聞かれる。どんなことよりもみことばが喜びとなる。みことばによって生かされて、みことばによって励まされ、みことばによって導かれる。みことばのあかしが互いの口から出てくる。互いのまじわりの中にみことばが行き交う、そんな教会です。昨年は「祈る教会」を目指しましたが、今年はそれに加えて「みことばが宿る教会」を目指していきたいと思います。そのことが主の助けにより実現するよう祈りましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちが、個人としても、教会としても、あなたのおことばを喜びとし、みことばを宿すものとなれますよう、導き助けてください。私たちは聖書を神のことばと信じています。あなたのおことばの豊かさを味わい、それによって満ち足りるものとしてください。この年も混じりけのないみことばによって私たちを養ってください。あなたの「ことば」であるキリストによって祈ります。
1/2/2011