クリスチャンの礼拝

コロサイ3:15-17

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3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

 先週は「クリスチャンのよそおい」についてお話ししました。12節に「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」とあります。クリスチャンが身につけるべき、こうした内面のよそおいを、ひとことで表わしたことば、それが「ホーリネス」です。歴代誌第一16:29に「御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、御前に行け。聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ」とあります。同じようなことばは、歴代誌第二20:21、詩篇29:2、96:9にもあります。ここで「聖なる飾り物」と訳されているところは、英語では "the beauty of holiness" と訳されています。"Oh, worship the Lord in the beauty of holiness!" クリスチャンがよそおいを整えてまず第一にすることは、主を礼拝することです。そして、その礼拝は「ホーリネス」を身にまとってすべきことなのです。

 今朝は、コロサイ3:15の「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです」とのことばに焦点を合わせてお話ししたいと思いますが、この箇所から、「聖なる飾り物」、「ホーリネス」を身に着けてする、クリスチャンの礼拝のあり方を学ぶことができます。ここから二つのことを学びましょう。ひとつは「共にささげる礼拝」、もう一つは「社会とつながる礼拝」です。

 一、共にささげる礼拝

 はじめに「共にささげる礼拝」について考えてみましょう。

 礼拝には、さまざまな形があります。ひとりで神を賛美し、祈るのも礼拝です。皆さんも、毎日、自分の家で、賛美を歌い、聖書を読み、祈る時を持っていることでしょう。こうしたプライベートなデボーション、個人の礼拝は、良いことであり、また、無くてならないものです。しかし、クリスチャンの礼拝の特徴は、主の日に共に集まってする礼拝にあります。

 他の宗教では、特別なお祭りの日は別として、みんなが共に集まって、いっしょに何かをするということはありません。それぞれが自分の都合の良い日、都合の良い時に、神社や仏閣を訪れて、思い思いの願いごとをささげるのです。教会も「祈りの家」として建てられたのですから、いつでも、誰でも立ち寄って、祈りをささげて帰ることができます。そのことはもっと奨励されていいと思います。けれども、クリスチャンは、それだけで終わらずに、定めれらた時、定められた時間に、一緒に集まって、同じ賛美をひとつの声で歌い、同じ祈りに心を合わせ、同じみことばに耳を傾けます。共にささげる礼拝を守るのです。なぜでしょうか。

 それは、クリスチャンは、キリストのからだとして一つにされているからです。15節は、「そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです」と教えています。「召されて一体となった」「ひとつのからだになった」と言われている「からだ」とは「キリストのからだ」、「教会」のことです。聖書は「教会」という言葉を二つの意味で使っています。一つは、イエス・キリスト以来、歴史を通して続いてきた、あらゆる時代の教会、また、全世界のあらゆる地域にある教会、さらには、天と地上にある教会のすべてを含めた、大きな教会を指します。しかし、もう一つは、もっと具体的な、各地域のクリスチャンの集まりを指します。もっと具体的に言えば、それぞれの礼拝に集っている人々のことです。現代のアメリカの教会では、さまざまなフェローシップやアクティビティがあり、「集まり」が沢山ありますが、聖書の時代のクリスチャンの「集まり」と言うのは「礼拝」を指していました。主の日に共に集まってささげる礼拝によってキリストのからだである教会が目に見えるものとなるのです。

 しかし、教会が目に見えるものとなるとき、そこには、いろいろなトラブルも目に見えるものとなります。人と関わりを持たなければトラブルは起こりませんし、また、関わりを持たない人とはトラブルになることはありません。テレビに出てる政治家やコミュニティのリーダーをテレビの前で批判してもトラブルにはなりません。しかし、そういった人や、その家族が自分の身近にいて、むやみに批判を口にすれば、トラブルになります。同じように教会のフェローシップというものは、外から眺めているだけでは、何の問題もないもののように見えますが、親しくなって意見や好みを口にするようになると、思わぬところでぶつかり合ってしまうことがあります。一緒に奉仕をし、活動をするとき、真剣であればあるほど、リーダーシップや方策に対する考え方の違いで、衝突することがあります。しかし、教会は、そうしたことを乗り越えて、「キリストの平和」を願い求めるのです。

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」の「あなたがた」というのは、この礼拝に集っている私たちのことです。どこか遠くの知らない人のことではありません。どこか遠くの知らない人のことなら、赦しや平和などを「理念」として持っているだけで済ませられます。しかし、長年いっしょにいて知り合っている人とは、過去に嫌な思いをしたことが記憶に刷り込まれていることがあります。そのため、表面では親しそうにしていても、お互いの間に深い溝を持っているということがあるかもしれません。また、古いつきあいが、馴れ合いを生んで、仲良くしているようでも、それが、本当の平和からほど遠い場合もあるでしょう。ですから、13節に「互いに忍び合い、…互いに赦し合いなさい」とあるだけでなく、16節に「互いに教え、互いに戒め」合うことも教えられているのです。テサロニケ第一5:14に「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」と教えられていることが実行できるような成熟したまじわりにまで高められ、キリストの平和に支配される教会でありたいと思います。

 15節にある「キリストの平和」には二つの意味があります。第一に、それは「平安」を指します。罪びとである私たちが、キリストによって神との和解をいただき、罪を赦されて、神の愛のふところの中にいることができる。キリストによって与えられる「平安」です。第二は、人と人と、グループとグループ、また国と国との関係における「平和」です。キリストによって与えられる罪の赦しの「平安」は個人的、内面的なものですが、これは決して個人や内面だけに留まっているものではありません。そうした「平安」を持っている人々は、他の人々に対して忍耐深く、寛容であることができ、人々の間に「平和」を作り出すことができます。人と人との平和は神との平安から生まれるのです。グループとグループの間の平和や国と国との平和などというと、私たちの力の及ばないことのように思われますが、しかし、私たちは個人と個人との関係を正しくしていくことによって、平和への第一歩を作り出すことができるはずです。もちろん、国際関係には、個人と個人との愛や友情だけでは解決できない複雑な問題があるのも事実です。しかし、だからと言って、あきらめてはならないと思います。私たちが社会や世界のためにできることはほんの小さなことかもしれませんが、それは必ず、どこかで実を結ぶはずです。なぜなら、私たちが求める平和は「キリストの平和」、キリストから出た平和、キリストによって完成される平和だからです。神は、神との平安に生きる者を平和の道具として用いてくださるのです。

 15節には「また、感謝の心を持つ人になりなさい」とあります。これは16節や17節にある神への感謝というよりは人への感謝を表わします。クリスチャンひとりびとりはキリストのからだの一部分にすぎません。私たちは、互いに互いを必要としています。自分がキリストのからだの一部であることを意識して礼拝するとき、私たちは他の人を感謝できるようになります。そして、そのようにして、共に礼拝する喜びにあずかるのです。

 二、社会とつながる礼拝

 つぎに、社会とつながる礼拝ということを考えてみましょう。

 クリスチャンは、救われ、バプテスマを受けたとき、キリストのからだに結び合わされました。誰もキリストにつながっているけれど、キリストのからだ、教会にはつながっていないということはできません。キリストのからだにつながらないで、キリストにつながっていることはできないからです。礼拝は、自分がキリストのからだの一部、キリストの手足とされているということを覚える時です。そして、自分がキリストのからだの一部であることが分かるとき、そこから、社会とのつながりが生まれてくるのです。

 キリストはからだをとり、人となられました。何のためでしょう。その目で人々の苦しみを見、その口で神のことばを語り、その手で人々をいやし、その足で孤独な人々を訪ねるためでした。クリスチャンがキリストのからだ、その手足とされたというのは、キリストがなさったように、私たちの身近にいる家族からはじめて、その手の届く人々のために、キリストのことばを運ぶためなのです。

 クリスチャンは12節にあるように「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」です。選ばれてこの礼拝に招かれている、どんなことでも神に願うことを許されているというのは、大きな特権、恵みです。しかし、この神の選びを間違って理解しないようにしましょう。旧約時代の神の民は、自分たちが選ばれたのは、自分たちだけが救われるためだと考えましたが、それは誤った選民思想でした。クリスチャンが神を知り、礼拝に集い、キリストの平和を味わう者とされたのは、ひとりクリスチャンのためだけではありません。まだ、神を知らない人に神を知らせ、この礼拝に集っていない人々を礼拝に招き、心の平安を失い、さまざまなトラブルのただ中にある人々にキリストの平和をもたらすためなのです。神がクリスチャンを選んだのは、その人の救いのためだけではなく、その人を通して、他の人々もまた救われていくためなのです。クリスチャンは礼拝で、神の選びに感謝し、キリストのからだの一部となり、キリストに結ばれたことを喜びますが、それと同時に、礼拝によって、他の人の救いのために、キリストの手足となって、それらの人々のためのつとめを果たすため遣わされていくのです。

 今年7月に、ホーリネス・ユース・コワイヤを教会に招きました。そのとき、コワイヤが「How Beautiful」という歌を英語と日本語で歌ってくれました。これは、Twila Paris という人によって書かれた最近の歌ですが、短い間にポピュラーになりました。メロディーは携帯電話の呼び出し音にもなっていますので、探してみてください。この歌は聖餐の歌として作られ、実際、ある教会で、聖餐のときこの歌が歌われていました。私は聖餐の場でこの歌を歌うことによって、この歌の意味と、聖餐の意味をもっと深く味わうことができました。

How beautiful the hands that served
The wine and the bread and the sons of the earth
How beautiful the feet that walked
The long dusty roads and the hill to the cross
How beautiful, how beautiful
How beautiful is the body of Christ

うるわしい主の手
主はその手でパンとぶどう酒を与え、地上の子等に仕えられた
うるわしい主の足
主はその足でほこりまみれの長い道と十字架に続く丘とを歩かれた
うるわしい、うるわしい、うるわしいキリストのおからだ

How beautiful the heart that bled
That took all my sin and bore it instead
How beautiful the tender eyes
That chose to forgive and never despise
How beautiful, how beautiful
How beautiful is the body of Christ

うるわしい主のハート
血を流したハート、それは私の罪のすべてを身代わりとなって引き受けたため
うるわしい主の目
そのやさしい目は、赦しを与え、決してさげすむことはない
うるわしい、うるわしい、うるわしいキリストのおからだ

 これから守る聖餐で、私たちはキリストのからだ Body of Christ をいただきます。そのことによって、私たちもまた、キリストのからだとなっていくのです。「うるわしい主のおからだ」にあずかる私たちも、神のまえにうるわしい主のからだとなり、キリストの手足となってみこころを行いたいと思います。

 (祈り)

 天の父なる神さま、私たちは礼拝で、あなたを「われらの父よ」と呼び、自分ひとりの「必要」だけでなく、「私たちの」必要を、「互いの」赦しを、そして「すべての人」の守りを願いました。礼拝に参加できない人々を心に覚え、まだあなたを礼拝したことのない人々のことを思いながら礼拝をささげました。どうぞこのことを、これからも、ひとつのからだ、ひとつの心ですることができるよう助けてください。私たちがキリストのからだ、キリストの手足となって、人びとのところに届き、また、この世界で、あなたの平和の道具となることができますように。キリストのお名前で祈ります。

9/25/2011