キリスト者の装い

コロサイ3:12-14

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3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 一、古いものと新しいもの

 コロサイ人への手紙は、1章と2章で、イエス・キリストが神の御子であり、あらゆるものの上におられる第一のお方であることを教えています。そして、この神の御子が私たちを救うために十字架で死なれ、復活されました。それによって、信じる者もまた十字架で罪に死に、キリストの復活によって新しい人に生まれ変わったことを明らかにしています。

 3章からは、イエス・キリストを信じる者の「生き方」(生活)が具体的に教えられています。しかし、それはたんに「こうしましょう」、「ああしましょう」というものではありません。私たちは、正しいこと、良いこと、望ましいことが何かを知っています。しかし、知っているのにそれができない、したいと思うことができないで、したくないことをしてしまう、そうしたジレンマを抱えています。それは罪が引き起こすジレンマで、私たちの力で解決できないものです。

 百年も前のこと、いわゆる発展途上の国に派遣された宣教師が人々の衛生状態が良くないのを見て、村の人たちにこう言いました。「いいかね、家の中にあるものを、よく水で洗うんだ。とくに床は水を撒いてゴシゴシこするんだよ。」すると、村の人が言いました。「そんなことをしたら、家の中が泥だけになっちまうよ。わしらの家の床には石も木も敷いていない、地べたのままだからな。」この話の意味はお分かりですね。地面に水を撒いてこすっても、泥だらけになるように、古い自分をいくら磨き上げても、そこから新しい生活は生まれないのです。古い人が死に、新しい人となって復活するのでなければ、新しい生活は生まれません。ですから聖書は、信仰者の生活について教える前に、常に、イエス・キリストがどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったか、イエスを信じる者がどのように変えられたのかを教えるのです。

 キリストの十字架によって古い自分が死に、キリストの復活によって新しい自分が生まれることを「新生」や「再生」(ボーン・アゲイン)と言います。コロサイ3:9-10に「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」とあるのは、「ボーン・アゲイン」を着物を脱いだり、着たりすることに言い換え、例えたものです。8節には救われたときに脱ぎ捨てた古い着物が、12節にはそのときに着た新しい着物が書かれています。

 二、古い着物

 8節に、脱ぎ捨てたものがあげられています。「怒り」、「憤り」、「悪意」、「そしり」、そして、「恥ずべきことば」です。

 「喜怒哀楽」というように、「怒り」は人間の感情の中でも基本的なものです。すべての怒りが悪ではありません。真理を守り、正義と公平を守るための怒りというものもあります。しかし、誤解から生じる怒りもありますから、よく考え、確かめて結論を出すようにしなければなりません。

 「怒り」が態度になり、行いになったものが、「憤り」です。家庭内暴力や殺人事件の多くが、「ついカッとなって」と、憤りを抑えきれないために起こっています。忍耐や自制心に欠けるため、怒りが爆発して憤りになるのです。人類最初の殺人もそのようにして起こりました。創世記4章に、アベルのささげ物が神に受け入れられたのに、カインのささげ物が受け入れられなかったことが書かれています。その時、カインは自分を反省し、アベルを見習って、ささげ物をささげ直せば良かったのです。しかし、カインは自分を省みることも、他から学ぶこともしないで、自分のささげ物が受け入れられなかったことを怒り、その怒りをアベルに向けました。カインは怒りと憤りに身を任せ、恐ろしい罪を犯してしまったのです。カイン以来、「怒り」と「憤り」は人類の本性となりました。このために多くの人が苦しみを味わっています。

 そして、この怒りと憤りから「悪意」が生まれます。「悪意」と訳されていることばは「敵意」とも訳すことができます。それによって、人類の歴史は戦争の歴史となり、いたるところに争いを見るようになったのです。「怒り、憤り、悪意」の次に「そしり」がありますが、これは、人に対する侮辱のことだけでなく、神への冒瀆をも意味しています。多くの人が気付いていないのですが、じつは、人は、人と争うだけでなく、神とも争う者となったのです。

 最後の「恥ずべきことば」というのは、卑猥な話のことを指しますが、そういう話でなくても、私たちは、なんと無駄な言葉を数多く口にしていることでしょう。口数が少なくて失敗することもありますが、普通は言葉が多くて失敗することのほうが多いと思います。言わなくても良いこと、言ってはいけないことを口にしてしまいやすい私たちに、聖書は「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と教えています。

 人々は「怒り」、「憤り」、「悪意」、「そしり」、「恥ずべきことば」を捨てたいと思うのですが、これらは、人のたましいに染み込み、からだの一部になってしまい、脱ぎ捨てることができなくなっています。それでカバーアップしようとするのですが、隠していても、何かあるたびに、そうしたものが現れてくるのです。しかし、ただ一つ、それを脱ぎ捨てる方法があります。それは、そうした本性を持った自分が死ぬこと、そして、新しくされて復活することです。それができるのは、キリストを信じることによってだけです。キリストの十字架が私の罪のためであったと信じる者は、キリストとともに古い自分に死に、キリストが私を救うために死者の中から復活されたことを信じる者は、キリストとともに復活して新しい人となるのです。イエス・キリストの十字架と復活だけが、古い人を死なせ、その身にまとっていたものを捨てさせ、人がほんらい身に持けていなければならない着物を着せてくれるのです。

 三、新しい着物

 8節には、脱ぎ捨てた古い着物が五つありましたが、新しい着物も五つあって、12節に「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」とあります。

 「深い同情心」というのは「憐れみの心」(新共同訳)や「慈愛の心」(新改訳2017)とも訳されます。けれどもそれは強い者が弱い人たちを見下してかわいそうに思うといったものではありません。聖書でいう「憐れみ」はそのようなものではありません。自分を他の人と同じ立場において、その痛みを共有する。それが「憐れみ」です。英語の聖書では “compassionate hearts”(ESV)と訳されています。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災の直後、被災地で「足湯」が用意されました。震災後、長い間お風呂に入れないでいた人たちのために、せめて足だけでも暖かいお湯に浸してもらおうということで行われました。ひとりのクリスチャン女性が足湯のボランティアに行きました。震災直後のことで、人々はまだ大きなショックの中にありました。ですから、「震災のとき、どこにいましたか」「家族は大丈夫でしたか」などと、ボランティアのほうから、被災者に何かを尋ねてはいけない、また、被災者のほうから話し出したとしても、それを聞くだけで、コメントを加えたり、アドバイスめいたことをしてはいけないというルールが定められていました。ですから、彼女はキリストのことを語ることはできませんでしたし、ほとんどの場合、足湯は無言のうちに行われました。最初、彼女は、「足湯のボランティアならクリスチャンでなくてもできるじゃないか」と思ったそうです。しかし、彼女は、ひとりひとりの足を洗いながら、主イエスが弟子たちの足を洗われたことを思うようになっていました。聖なる神の御子が罪深い人間の埃にまみれた足を洗われた。自分を見捨てて逃げ隠れするような、頼りにならない弟子たちの足を、腰にまいた手ぬぐいで拭いていかれた。主イエスは、高い立場から人間を憐れんだのでなく、私たちが味わう霊的、精神的、肉体的、社会的苦しみのすべてを味わうため、肉体をとり、人となり、私たちと変わらない立場に立たれたのです。彼女は、そのことを思ったとき、自分はキリストと同じ心で、被災者に向かっているだろうかと考えるようになりました。彼女は、そのボランティア活動によってキリストの心に触れるというクリスチャンでなければできないことができたのです。痛みの中にある人々と同じ立場で、その痛みに共感する深いレベルでの同情心を身につけることを学んだのです。

 この「深い同情心」から「慈愛」(「親切」新改訳2017)、つまり、人に対する優しく親切な態度が生まれます。キリストの「憐れみ」の心を知る人は決して高慢になりません。いわゆる親切の押し売りのようなことをして、人をコントロールしようとはしません。「謙遜」と「柔和」を身に着けています。自分の狭い考えに閉じこもらず、違った意見を持つ人にも心を開く「寛容」を身に着けることができます。

 「深い同情心」、「慈愛」、「謙遜」、「柔和」、「寛容」、この五つに加えて、身につけるべき、もう一つのもが「愛の帯」です(14節)。古代の着物はとてもゆるゆるとしたものでした。着物の上から帯を締めなければ、それこそ、締りのないものになりました。私たちは、この「愛の帯」によって、キリストのくださる新しい着物を束ね、それをしっかりと身に着けることができるようになるのです。

 服装は民族や文化によって、時代によって、男女の性別によって、また、時と場所によって変化します。しかし、ここで言われている装いは、どこの国の人であっても、どの時代であっても、どんな立場にあろうとも、すべてのクリスチャンが身に着けていなければならないものです。もちろん「身に着けていなければならない」といっても、こうした着物を自分で作り出さなければならないのではありません。努力によって買い取るのでもありません。これはイエス・キリストが、恵みによって与えてくださるものです。私たちは、信仰によってそれを受け取り、感謝して身に着けるのです。

 「深い同情心」、「慈愛」、「謙遜」、「柔和」、「寛容」、そして「愛」のすべてを持っておられるのは、イエス・キリストだけです。それで、聖書は「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:27)と言っています。「新しい服を着る」ことは「キリストを着る」ことだと言うのです。「キリストを着る」とは、私たちがキリストを受け入れたときに、私たちもキリストのうちに受け入れられることなのです。キリストが私たちのうちにおられ、私たちがキリストのうちにある者となるのです。キリストが着物のように私たちを覆ってくださるのです。

 多くの宗教では信仰の対象とそれを礼拝する者とは遠くかけ離れています。しかし、イエス・キリストと私たちの場合、キリストを信じる者はキリストに結ばれ、キリストのからだの一部分となり、キリストの命に生かされる者となるのです。そしてそれによって、キリストのご性質が私たちの性質になり、私たちがキリストに似た者へと変えられていくのです。

 ですから、「クリスチャンの装い」、それは、私たちがキリストを受け入れ、またキリストに受け入れられ、キリストのいのちに生かされ、キリストのご性質が私たちの性質となり、私たちがキリストに似たものへと変えられていくことによって、身に着いてくるのです。私たちも、そのようなしかたで、「クリスチャンの装い」をしっかりと身に着けたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、キリストを信じる者に、清く、美しい、キリストのご性質を着せてくださいました。捨てるべきものを捨て、得るべきものを手にする、きっぱりとした悔い改めと信仰の決断へと私たちを導き、あなたが装わせてくださるものをもって、キリストを証しすることができるよう、助けてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

10/30/2022