3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
一、目的の発見
今月、私たちは「人生の目的」についてご一緒に考えています。人生は旅です。人生の目的を持たない人は、行き先がわからずに旅行しているようなものです。空港に行くとたくさんのゲートがあって、多くの人々が飛行機に乗るのを待っています。ある人はニューヨークへ、ある人はデンバーに、ある人はホノルルに向かいます。それぞれ行き先が決まっていて、ボーディングパスを手にして待っています。誰に聞いても、「私はどこへ行くかわかりません。」という人はいません。ちいさなこどもでも、「ぼく、これからフロリダのデズニー・ワールドに行くんだ!」と言ってはしゃいでいます。ところが、人生の旅において多くの人が自分がこれからどこへ行くのか知らないのです。目的地を持たない旅行は旅行とは言えず、それは放浪です。人生の目的を持たなければ、私たちは「人生の旅人」ではなく「人生の放浪者」や「人生の迷子」になってしまいます。あなたの人生の旅には、はっきりした目的地があるでしょうか。
また、どうやって人生の目的を見つけることができるのでしょうか。聖書は、「すべての人は神に造られた。」と教えています。世界中で、一年に六千万人が亡くなり、一億四千万人が産まれています。ですから、毎年八千万人づつ人口が増えていることになります。現在六十六億以上の人口がありますが、正確な数は誰一人知りません。しかし、神はその数をご存知です。私は、アダムとエバ以来、生まれてきた人間の総数はどのぐらいなのだろうと思うことがあります。膨大な数字になるでしょうが、神はそれをもご存知です。神は、名の知られた人も、名もなく死んでいった人も、長く生きた人も、若くして死んだ人も、すべての人をご存知です。なぜなら、神はすべての人を、愛を込め、目的をもって造ってくださったからです。
カーペンターは家を人の住むところとして作ります。犬小屋は犬が寝るところとして作られます。犬小屋が奥さんに追い出されたご主人が行くところになることもありますが、本来は犬のためのものです。すべてのものは、作られたときに目的を持ちます。作った人が目的を与えるのです。そのように、神は私たちを目的をもって造ってくださいました。神は、人を世に生まれさせてくださったとき、すでに目的を与えていてくださっているのです。ですから、私たちは、「神さま、あなたが私を造ってくださった目的は何なのですか。」と神に尋ね、神から答えを聞いて、人生の目的を発見するのです。
二、第一の目的
リック・ウォレンの『人生の五つの目的』(Purpose Driven Life)は、聖書の中に示されている「人生の目的」を分かりやすく解説したものです。そこには、「礼拝」、「まじわり」、「弟子訓練」、「奉仕」、そして「伝道」の五つの目的が書かれていますが、「礼拝」はその第一番目のものです。
イエスはあるとき、「すべての命令の中でどれが一番大切ですか。」という質問を受けました。イエスはそれに対して、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と答えました。神への愛と人への愛を教えたのです。しかもたんにこの二つを並べただけではなく、神への愛が人への愛となって表わされるべきことを教え、そのためには人への愛が神への愛に基づいていなければならないことを教えられました。イエスの答えは、十戒を要約したものですが、十戒も前半はで神への愛を教え、後半で人への愛を教えています。いつどんな場合でも第一に来るのは神への愛です。この神への愛によってはじめて、正しく人を愛することができると、主は教え、聖書は教えています。
この神への愛を表わすのが礼拝です。礼拝とは神のことばを聞き、神に祈ること、ひとことで言うなら神と語り合うことです。神を愛すると言いながら、神を礼拝しないことは、ちょうど、奥さんがご主人に向かって、「あなたを愛していますよ。でも、あなたと口を聞きたくありません。」と言うようなものです。愛するということは、相手に聞くことであり、相手に語りかけることです。神は、私たちに神を愛することを求めておられ、その神への愛を礼拝によって表わすことを期待しておられます。
礼拝はクリスチャンのためだけのものではありません。すべての人が礼拝に招かれています。すべての人は神に造られ、神を礼拝する者として造られているからです。詩篇148篇には
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。とあります。詩篇の最後は「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。」(詩篇150:6)ということばで終わっています。神によって造られた人間は、造られた者として造り主である神を礼拝するよう招かれているのです。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
(中略)
地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。
しかし、クリスチャンは、造られた者として造り主である神を礼拝するだけでなく、贖われた者として救い主である神を礼拝します。神を贖い主、救い主としても礼拝するのです。「贖い」という言葉は出エジプトの出来事から来た言葉です。今から三千年数百年前、イスラエルの人々は、エジプトで奴隷でしたが、神はイスラエルの人々の苦しみをごらんになり、彼らをあわれんでモーセを遣わし、数多くの奇蹟を行ってイスラエルを奴隷から解放し、神の民としました。「贖い」というのは奴隷からの解放を意味しています。神は、イスラエルにタバナクル(幕屋)と呼ばれた移動式の神殿を建てさせ、祭司を任命し、礼拝についてのさまざまな規定を与え、人々に神を礼拝することを教えました。イスラエルの人々が贖われた後、第一にしたことは礼拝でした。彼らは贖われた者として神を礼拝しました。贖われた者の第一の使命は神を礼拝することだったのです。人々は神を礼拝するために贖われたと言ってもよいほどです。
このことは、旧約時代のイスラエルの人々だけに限られていません。イエス・キリストを信じる者も、罪の奴隷から解放されて、神の民となることができるのです。イスラエルが解放されるとき、子羊がイスラエルの身代わりとなって死んでいったように、神の子羊であるイエス・キリストが十字架で私たちの罪の身代わりとなられました。イエス・キリストはその血を流して私たちを贖ってくださったのです。聖書は「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロ第一1:18)と教えています。ですから、イエス・キリストを信じる者たちも、イスラエルの人々と同じように、贖われた者として神を礼拝するのです。神を礼拝することを人生の第一の目的とし、礼拝を生活の中で第一のものとするのです。
私たちがこうして日曜日の朝に礼拝を守っているのは、日曜日がイエス・キリストが復活された日であるということとともに、日曜日が週の第一日目だからです。私たちは週の第一日目を神にささげることによって、一週間を神にささげているのです。週のはじめの日に、一週間の仕事を始める前に、まず神を礼拝することによって、礼拝が人生の第一の目的であり、生活の中で第一のものであることを確認するのです。
三、礼拝を第一に
人生の五つの目的の第一のものが礼拝であるというのは、それは五つの目的を適当にならべて、たまたま礼拝が一番目になったということではありません。礼拝は人生の目的の中で文字通り第一のものであり、他の目的はすべてここから出て来るのです。「まじわり」も、「弟子訓練」も、「奉仕」も、「伝道」もすべて神をあがめるため、神を礼拝するためにあります。礼拝が第一になっていなかったら、「まじわり」、「弟子訓練」、「奉仕」、「伝道」はたんに人間の活動で終わり、人を喜ばせるだけのものになってしまいます。礼拝を第一にするなら残りの目的を自分のものにするのは難しくはありません。しかし、第一のものを第一にしていないと、他の四つの目的も空回りしてしまいます。あなたは、この大切な第一の目的、礼拝を第一にしていますか。礼拝を第一のものにするために、私たちにどんなことができるでしょうか。
ふたつのことをお話しします。第一は、みことばに聞く備えをすることです。礼拝とは、最初に話しましたように、神に聞き、神に語ることです。私たちは礼拝の聖書朗読で神のことばそのものを聞き、続いて説教を聞きます。説教は神が説教者を通して私たちに語ってくださる神のことばです。礼拝前におしゃべりに花を咲かせたり、礼拝が終わってからの活動や行事、家に帰ってからすることなどで礼拝中、心が一杯だったり、説教中、礼拝プログラムに同封されているものを読んていたりして、どうして神のことばを聞くことができるでしょうか。神のことばに聞くにはそれなりの心構えや準備が必要です。使徒の働き第十章に出てくるコルネリオという人はローマの百人隊長で異邦人でしたが、イスラエルの神、まことの神を信じる人でした。彼はペテロを招きなさいという神のお告げを聞き、ペテロを自分の家に招きました。そして、ペテロを迎えて、こう言いました。「いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」(使徒10:33)実際、コルネリオは親族、友人をみな自分の家に呼び集めていました。ペテロが到着する何時間も前にすでにみんなが集まって、ペテロの到着を待っていたのです。最近の教会で、礼拝が始まり、説教が始まっているのに、人々がバタバタと入って来るのと大違いです。コルネリオのように、異邦人であってもイスラエルの神を信じる人たちは当時「神を敬う人」と呼ばれました。当時の「神を敬う人」は、今日の「求道者」にあたります。コルネリオは求道者でしたが、信者よりも立派でした。そのように、求道者のほうが時間よりも早く礼拝に来て、祈って礼拝に備えているのに、信者のほうが遅れて来ることがあります。求道者が神のことばを求めて教会に来ているのに、信者のほうが、神に聞き、神に語りかけることよりも、人に会い、人としゃべるために教会に来るということもあります。それはとても残念なことです。
礼拝をより良く守るためには努力が必要です。しかし、小さな努力で良いのです。断食したり、夜を徹して祈ったりする必要はありません。徹夜するより、土曜日は十分に休んだほうが良く、断食するよりは、日曜日の朝食は十分に摂ったほうが良いのです。土曜日の夜は、礼拝に着ていくもの、持っていくもの、献金などを準備し、早めに休みましょう。多くのクリスチャンが土曜日はテレビを見ないで、夜更かししないように気をつけています。
どんなことでも、努力や心遣いなしにできるものはありません。礼拝が私たちにとっていちばん大切なものなら、そのために心遣いをし、工夫し、準備するのは当然のことです。その準備の中で、なによりも大切なものは「聞く耳」です。コルネリオのように、「いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」という態度で礼拝を迎えましょう。
礼拝を第一のものにするために、次に、聞いたみことばを心に蓄える必要があります。聞いたみことばが私たちの内側に残らなければ、礼拝の意味がなくなります。コロサイ3:16に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ…なさい。」と教えられています。礼拝は神に聞き、神に語ることですが、私たちが神に語りかけることができるためには、まず、神のことばを聞き、それを蓄えておかなくてはなりません。赤ちゃんは話し出すようになるまでは、じっとおとなの話すことばを聞いていて、それを蓄えています。時が来ると今まで蓄えていたことばを使って一気に話し出すようになります。クリスチャンの神への語りかけ、つまり、祈りや賛美も同じです。私たちの祈りのことばも神のことばから来ます。真剣に神のことばに聞き、それを深く心に蓄えている人が、より親しく神に祈ることができ、神への賛美に満たされるのです。
私たちは毎日忙しい日々を過ごしています。わざわざ生活を忙しくしなくても良いのに、人々は、いろんなことに手を広げ、空いている時間にどんどん活動を入れていきます。その結果、礼拝で聞いたみことばが一週間の間にどこかに消えてなくなってしまうのです。教会を出たとたんに、いいえ、礼拝が終わったとたんに、きょうの聖句はどこだったかを忘れてしまっていることがないでしょうか。「キリストのことばを豊かに住まわせる」というのは、礼拝の時間だけで終わらず、その後もずっと神のことばを心にとどめておくことを教えています。「住まわせる」「宿らせる」というのはもっと永続的なことです。一週間の間、さまざまな活動をし、いろんな勉強をするのも悪くはありませんが、あれこれ多くのことをするより、礼拝で聞いたみことばを一週間持続して黙想し、消化していくことに心を注げたらと思うことがあります。ウィークデーの祈り会で、新しい学びをせず、礼拝で聞いたみことばから学んだことや実践したことをみんなでシェアしあっている教会もあります。そこでは、礼拝のみことばに導かれて悔い改めの祈りがささげられ、また賛美や感謝、願いやとりなしがささげられているそうです。それこそ礼拝が第一にされ、みことばが大切にされている教会の姿です。コロサイ3:16に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」とあるとおり、互いに教えあい、戒めあい、共に祈り、賛美する教会は、なんと祝福された教会でしょうか。私たちもみことばを聞いてそれをすぐ忘れるような者ではなく、みことばを私たちの内側に豊かに住まわせる者でありたいと思います。
神は、私たちを目的をもって造られました。第一の目的は神を礼拝することです。神に造られたものとして、造り主である神を礼拝するだけでなく、イエス・キリストを信じ、罪から救われ、贖われた者として、神を礼拝する者となりましょう。コルネリオは求道者のときも神に祈り、礼拝をささげていましたが、ペテロからイエスの十字架と復活を、罪の赦しの福音を聞いたとき、聖霊を受け、また、バプテスマを受け、贖われた者となりました。コルネリオのようにみことばを求める者は、かならず救いに導かれ、また聖霊を受けるようになります。そして、贖われた者、聖霊をいただいたものは、さらに、神のことばに聞き、神のことばに応答していくのです。自分を楽しませるだけの自分勝手な礼拝、自己満足の礼拝、エンターテーメントの礼拝でなく、みことばに導かれ、御霊に満たされ、真実な礼拝をささげていきましょう。そのように神を礼拝し、人生の第一の目的を満たしていく私たちでありたく思います。
(祈り)
主なる神さま、他の国々ではみことばを語ることが禁じられていて、みことばを聞くことができません。また、教会も説教者も、もはや神のことばを信じなくなり、神のことばが神のことばとして語られなくなっているところもあります。そのような中で、このように自由にみことばを聞くことができること、みことばがみことばとして語られている礼拝をこころから感謝します。こんなに大きな恵みの中にいるのに、私たちは自分の考えに聞き、自分のことばを語るのに忙しく、あなたのことばに聞こうとしないことが多くあります。そのため、あなたのことばを私たちの内側に豊かに住まわせることができず、「みことばを聞くことの飢饉」が起こり、私たちのたましいはやせ細っています。私たちをあわれみ、赦し、導いてください。神のことばを神のことばとして聞く私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
4/13/2008