3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
一、上から来る祝福
水曜日夜の祈り会では Ten Prayers God Always Says Yes To という本を教材にして祈りを学んでいます。この本は National Day of Prayer に読む推薦図書にもなっていて、とてもタイムリーでした。
この本には Divine Answers to Life's Most Difficult Problems というサブタイトルがついています。つまり、私たちの人生のさまざまな問題の答えは祈りを通して与えられるというのです。祈りが問題を解決するということは、皆さんが毎日体験していることだと思いますが、私はこの本を読みながら、そのことをあらためて教えられています。この本は、「人生の最も困難な問題」として、「神が分からないこと」、「助けを必要としている人が多くいること」、「お金への執着」、「苦難」、「罪」、「ストレスや思い煩い」、「恐れ」、「迷い」、「失敗」、そして「目的を見失うこと」という10項目をあげています。どれも、私たちが抱えている問題ですね。この本は、それぞれの問題に対してどう祈ったらよいかを教えているのです。
先週は第6章で「ストレスや思い煩い」に対してどう祈ったら良いかを学びました。現代はストレスが一杯の時代です。おとなもこどももスケジュールいっぱいの毎日を送り、競走社会を生きています。ストレスがないほうが不思議なくらいです。それで、「人々は胃酸を押さえるために薬を取り、酒を飲む。マッサージに通ったり、アロマセラピーをしたり、カウンセリングため心理学者に莫大なお金を払ったり、ヨガで、からだをプレッセルのようにねじって瞑想する。」と、この本は書いています。けれども、そうしたものによって本当の平安はやってきません。本当の平安は、人間が努力して作り出すもの、修行の結果到達するものではなく、「神さま、私に平安をください。」という単純な祈りによって、はじめて与えられるものなのです。
私たちは、競走社会に生きていますので、多くの人は、クリスチャンになっても、すべての良いものが、上から、神から降りてくるということを忘れ、自分の力で何かをしようと、あせり、すこしでもそれができると高慢になり、できなかったら落胆してしまうということを繰り返しています。天を仰いで神に願い求め、信仰によって神からそれを受け取ることを忘れてしまっているのです。ヤコブの手紙には「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:17)とあります。「ストレスや思い煩い」に対して必要なのは「平安」です。「恐れ」に対して必要なのは「勇気」です。「迷い」に対して必要なのは「知恵」です。平安であれ、勇気であれ、知恵であれ、私たちに本当に必要なものはみな「上」から、神から下ってくるのです。地上的なものは一時しのぎであり、表面をカバーするだけのものでしかありません。
生活していくために、お金や食べ物はなくてなりませんが、それもまた、天から来るのです。「お金が天から来る」といっても、それは、株で大もうけをしたり、ギャンブルで大金を当てたりするということではありません。お金は、まじめに働く者に対する報いとして与えられるものです。多くの人は「このお金は私が稼いだものだ。」と言います。しかし、考えてみてください。働く機会や健康を与えてくださったのは神です。そんな意味では、お金も天の窓からやってくるのです。マラキ書3:10に「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」とあります。食べ物も同じです。農作物は地から収穫するもので、天から降ってくるものではありません。しかし、実際は、天の祝福がなければ、地はどんなものも実らせないのです。神は、イスラエルをエジプトの奴隷から救ったあと、何の農作物も育たない荒野に導きましたが、毎日「マナ」という食べ物を、文字通り天から降らせ、それで人々を養われました。それは日ごとの糧もまた、上から来るのであることを教えるためでした。
多くの実業家が、事業が成功したのは、機会に恵まれ、時代に恵まれた結果で、自分の努力で達成できたものはほんのわずかなものに過ぎないと言っています。神のために大切な働きをした神の働き人たちも口をそろえて、「これができたのは、自分たちの力ではなく、神の恵みです。」とあかししています。まさに、良いものは、神の祝福の結果として、上から与えられるのです。詩篇は「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2)と歌っています。問題の山だけを見ないで、その上にある「天」をみあげましょう。問題の解決は、神から来るからです。それがどんな問題であれ、上をみあげ、天を仰いで、解決を求め、信仰によってそれを受け取りましよう。
二、上におられるキリスト
では、天を仰ぐと、そこには何が見えるのでしょう。上には何があるのでしょう。コロサイ3:1に答があります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」天には神がおられ、そして、神の右にはイエス・キリストがおられるのです。きょうは、「昇天主日」、イエス・キリストが天に帰り、父なる神の右の座にお着きになったことを覚える日です。イエス・キリストは復活されたあと40日にわたって弟子たちに現れ、それから天に昇りました。先週の木曜日がイースターから40日目で、イエス・キリストの「昇天日」でした。教会は「昇天日」のあとの日曜日を「昇天主日」として守り、父なる神の右におられる主イエス・キリストを礼拝しています。
クリスチャンは、二千年の間、天を覚え、天におられる父なる神に祈り、イエス・キリストを天の御座におられるお方として礼拝してきましたが、多くの人は「天」をリアルなものと考えていません。イエスが天に帰られたというのは、神話的表現で、実際は世を去られたということに過ぎないと言う人も多いのです。昔の人は空を仰いで、神を意識しましたが、その空を、雲を突っ切ってジェット機で旅行するようになった現代人は、空を仰いでも、この大空のかなたにある世界を想いみることができなくなっています。夜になれば、数多くの星が見え、宇宙の一部をかいまみることができます。古代の人々は宇宙の広大さに心打たれて、神々は星の上に座しておられると考えました。それで「星座」ということばが生まれました。しかし、現代人は、宇宙にまで行くことができるようになり、宇宙のどこにも神の御座などない、そこが「天」ではないことを証明したと言っています。最初の宇宙飛行士となった旧ソヴィエトのガガーリンは「私は天に行ったが神を見なかった。」と言ったと伝えられています。人々は、「天」は無いのだ、だから神もいないのだと言いますが、そう言う人々は、この宇宙が神の作品であることを忘れています。確かに目に見える大空や宇宙が「天」そのものではなく、そこに神の御座があるというのではありませんが、大空や宇宙は神が創造されたものであり、神の栄光を表わし、「天」の存在を指し示すものとなっているのです(詩篇19:1-3)。聖書は、第一の天である大空、第二の天である宇宙のほかにもうひとつの「天」、「第三の天」があると教えています(コリント第二12:2)。地上のものはすべて過ぎ去ります。永遠に輝いているように見える星にも寿命があって、やがて燃え尽きてしまいます。第一の天も、第二の天も滅びます。しかし、神の住まいである第三の天は永遠、無限の場所であり、そこは、どんな罪もない、きよいところです。この「天」は確かに存在し、イエス・キリストはそこに昇って行かれたのです。
「天」のことは、地上に住む私たちの限られた頭脳だけでは考えきれないものです。「天」は、哲学や思想が生み出した頭脳の産物ではないからです。もしそうなら、それは理論の世界の中にだけある架空のものにすぎなくなります。また、もし、「天」が私たちの心の中にあるだけのものなら、それはたんにセンチメンタルなもので終わってしまいます。しかし、イエス・キリストが「天」に帰られたことにより、「天」は私たちのものとなりました。「クリスチャン」ということばには「キリストの者」、「キリストに属する者」という意味があります。イエス・キリストを信じる者は、キリストのからだの一部となるのです。クリスチャンがキリストのからだであり、その一部であるなら、キリストが「天」に帰られたとき、クリスチャンもまた「天」のものとなったのです。地上に生きている人間には、死や死後の世界、「天」や永遠は手の届かないところにあります。聖書は、そうしたものがあることをはっきり教えていますが、そのすべてを事細かに描いているわけではありません。全く違った世界のことは、人間のことばでは表しきれないのです。しかし、イエス・キリストは、私たちがやがて体験する死も、復活も通られ、私たちがやがて迎え入れられる「天」に先にお帰りになりました。ですから、クリスチャンは、キリストにあって「天」を自分のものとし、そこをふるさととすることができるのです。イエス・キリストが「天」から来て、「天」に帰られた、このことのゆえに、キリストにつながるクリスチャンにとって、「天」は、たんなる理論や概念、また、感情が生み出したものではなく、リアルな場所になったのです。これは、私たちが考えている以上に、クリスチャンにとっての大きな祝福です。
ですから、聖書は、クリスチャンに向かって、「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:2)と命じるのです。クリスチャンは、今は地上に住んでいますが、やがて、天に永遠に住むようになります。この世では寄留者であり、ふるさとである「天」を目指す旅人です。だから、地上でいいかげんであったり、無責任であったりしてよいということではありませんが、クリスチャンは、天をふるさととしていますので、いつも、天のふるさとのことを思いながら地上を旅するのです。もし、みなさんが十何年ぶりかに、ふるさとに帰るとしたら、もう数ヶ月も前から、何を持っていこうか、どんな服を着ていこうか、ふるさとに帰ったら、どこに行こうか、誰と会おうかと、考えはじめることでしょう。まだ、ここにいるうちから、ふるさとでの生活のことを考えて生活しはじめるようになるでしょう。そのように、天を目指して旅するクリスチャンも天のことを思い、そこに行く準備として地上の生活を送るのです。
このように天を思いながら生活することは、クリスチャンにとってなくてならない大切なことです。たとえこの世でどんなにいい暮らしをしたとしても、自分の願い通りに物事が運ぶようなことがあったとしても、それが天につながっていないとすれば、その人生はほんとうには幸いなものとは言えません。ほんとうに幸いな人生は天につながる人生だからです。天を思うクリスチャンは、たとえ、地上では、恵まれない生活であったとしても、天に備えられた住まいで神とともに住むことを思って、それに耐えることができます。たとえ人の賞賛を得ることがなくても、忠実なしもべにさずけられる栄冠を思って、励ましを受けることができます。イエスのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするときも、「天においてあなたがたの報いは大きい」(マタイ5:12)とのイエスのおことばによって慰めを受けます。イエスの教えには、頻繁に「天」が出てきます。天を現実のものとして信じないかぎり、イエスの教えを正しく受け止めることはできず、「天にましますわれらの父よ。」と祈るように教えてくださった祈りを正しく祈ることができません。私たちは天を思っているでしょうか。それとも地上のことだけを思っているでしょうか。
教会の最初の殉教者となったステパノは、人々が彼を殺そうと押し迫ってくる中で、天を仰ぎ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見つめました(使徒7:54)。ステパノは、人々に、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右の座に立っておられるのが見えます。」(使徒7:56)と言っています。ステパノにとって天はリアルな場所でした。しかし、人々はステパノに耳を傾けませんでした。聖書は、「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した」(使徒7:56)と書いています。これは、神のことばに耳をふさぎ、自分の言いたいことだけを大声で主張して、悪意をもって神の人に立ち向かう、悔い改めのない人々のの姿を描いたことばです。彼らは、ユダヤ人であり、神についての十分な知識を持ってはいましたが、天を見ていなかったし、見ようともしなかったのです。神は、私たちがそんな者にならないよう、どんなに願っておられることでしょうか。
ピリピ人への手紙は、「キリストの十字架の敵として歩んでいる」人々について、「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。」と言い、さらに「彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18-19)と言い切っています。私たちはどうでしょうか。天に帰られ、父なる神の右におられるイエスを信じている、いやイエスに属する者とされているのに、私たちの歩みは、地上のこと、人間のことで終始していないでしょうか。天を、上にあるものを見上げましょう。そこにおられるイエス・キリストに目をむけましょう。ピリピ3:20-21にあるように、なぜなら、私たちの国籍は天にあり、そこから、主イエス・キリストが再び救い主としておいでになるからです。コロサイ人への手紙も同じように、「上にあるものを求めなさい。…地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と教えたあと、「私たちのいのちであるキリストが現われるとき、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」(コロサイ3:4)と教えています。私たちにはなんと大きな栄光が約束されていることでしょうか。この栄光にあずかることができるために、イエス・キリストを信じ、キリストに属する者、天に属する者となった私たちは、地上のことだけに心を奪われることなく、さらに「上にあるもの」を追い求めていきましょう。
(祈り)
天におられる父なる神さま、主イエスの昇天主日に、主が帰っていかれた「天」を思うよう教えていただき、感謝します。地上のものに心を惹かれ、天と天にあるものを忘れがちな私たちに、天を思う礼拝、あなたの右に座しておられるイエスを覚えて祈る祈りをささげることができるよう、導いてください。苦しみの日にも、幸いの日にも、天とそこにおられるお方を仰ぎみて、忍耐し、また、感謝することができますように。主イエスのお名前で祈ります。
5/4/2008