2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
クリスチャンがよく使うことばに「キリストにあって」("In Christ")ということばがあります。教派を越えた集会などで、 "Together In Christ" や「キリストにあってひとつ」などというスローガンがよく使われますし、手紙の最後に「主にあって」などと書かれることも多いかと思います。「キリストにあって」("In Christ")、あるいは「彼にあって」("In Him")は聖書に繰り返し出てきます。コロサイ人への手紙でも、「キリストにある兄弟たち」(1:2)、「キリストにある信仰」(1:4)、「万物は御子(キリスト)にあって成り立っている」(1:17)、「神の本質を御子(キリスト)のうちに宿らせ」(1:19)、「キリストにある成人」(1:28)、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」(2:5)、「彼(キリスト)にあって歩みなさい」(2:6)、「キリストの中に根ざし」(2:7)、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」(2:9)、「あなたがたはキリストにあって満ち満ちている」(2:10)というふうに使われています。
「キリストにあって」("In Christ")、このことばは聖書の教えを理解するためにとても大切なことばなのですが、これには一体どのような意味があるのでしょうか。三つのことを学びましょう。第一は「キリストを受け入れること」、第二は「キリストにとどまること」、第三は「キリストにあって歩むこと」です。
一、キリストを受け入れること
6節に、「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」とあります。「キリストにある」ことは、第一にキリストを受け入れることから始まります。
多くの日本人にとってイエス・キリストは自分とは無関係な遠い存在と考えられています。今から二千年前に愛の教えを説いたが、当時の宗教家のねたみを買い、死に追いやられた不運な人として受け止められているようです。人々は、イエスを神の子として受け入れませんが、その教えは賞賛します。たとえば、マタイ5-7章にある「山上の説教」と呼ばれる教えは、キリスト教に反対する人たちでも、「素晴らしい教えだ。人類の宝だ」と言って誉めています。ところが、8章でイエスがらい病の人をいやした部分は「作り話」であると言って受け入れません。イエスの教えたことは受け入れるのに、イエスご自身やイエスがなさったことは受け入れないのです。イエスの教えられたことと、なさったこととを分けてしまうのです。しかし、聖書を読むとイエスの教えられたこととなさったこととは結びついていて、それを分けることはできないことがわかります。
はじめて聖書を読んだとき、私にとって「山上の説教」は「素晴らしい教え」であるというよりは、とても怖い教えでした。人を「能なし」「ばか者」と言うならそれは殺人と同じだ。異性を情欲を抱いて見るなら姦淫と同じだ。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いがあろうか。人に見せるために人前で善行をするな。人を批判する前に自分の罪を悔い改めよ、などと言った教えに、私は、自分がどんなに罪深い者で、心の中がどんなに汚いかを示されました。しかし、続く8章で、イエスが、らい病の人に触れ、その人をいやし、きよめられたというところを読んだとき、私は、らい病をきよめることができたイエスだからこそ、私の罪をもきよめることができるのだということを確信することができました。
イエスは、らい病人をきよめ、病人をいやし、悪霊を追い出し、水をぶどう酒に変え、ガリラヤ湖の水の上を歩き、その嵐を鎮めました。死人さえも生き返らせました。聖書はイエスが教えられたことよりも、イエスがなさったことを多く記しています。聖書の中のそのような箇所を読んで、「そんなことは信じられない」と言って、かえってイエス・キリストから遠ざかってしまう人がいるかもしれませんが、私には、イエスのなさった奇蹟のすべてが尊いものでした。もし、イエスが何の奇蹟もできないお方であったら、どうして私を救うことができるのでしょうか。イエスはご自分が神の御子であり、人類の救い主であることを知らせるためにこれらの奇蹟を行われたのです。
イエスの教えだけが、イエスが救い主であることを物語っているのではありません。イエスのなさったみわざのひとつひとつが、そのことを雄弁に語っています。ある人が「イエスの最後のプルピット(講壇)はあの十字架だった」と言いました。イエスは人々にいやしと解放、赦しと救いを教えただけでなく、実際にそれらのことを与えてくださいました。いや、教えとみわざだけでなく、あの十字架の上で、ご自身さえも私たちに与えてくださったのです。世の中には教えだけを与えても、手足を動かさない人、心を使わない人、自分のものを与えない人がたくさんいます。しかし、イエスは人々を教えるだけでなく、人々に救いの手をさし伸ばし、ご自分のいのちさえも差し出してくださいました。そして十字架から三日目に復活され、あの十字架が人を罪と死と滅びから救うものであることを保証してくださったのです。
ですから、イエス・キリストを受け入れるとは、「イエスの教えはいいなあ」とそれに賛同することだけではなく、イエスが私たちの救いのために成し遂げてくださったみわざを受け入れることでもあるのです。十字架が私の罪のためであり、復活が私を救うためのものであることを受け入れることです。6節に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れた」とあるように、イエスを私の「キリスト(救い主)」として、私の人生の「主」として迎え入れることなのです。
そのようにしてキリストを受け入れた人は、キリストにも受け入れられ、「キリストのうちにある人」となります。キリストが信じる者のうちに入ってくださるばかりでなく、信じる者もキリストのうちにいるようになるのです。「キリストわがうちに、我キリストのうちに」という相互の結びつきが与えられるのです。新共同訳では "In Christ" が「キリストに結ばれて」と訳されています。文字通りの訳ではありませんが、内容的には正しい訳です。「クリスチャン」とは、「キリストに属する者」、「キリストに結ばれた者」という意味の名前です。これは、もとは、「あいつらは、キリストの奴らだ」と軽蔑の意味を込めてつけられた名前なのですが、信仰者たちは、「そうです。私たちは、キリストに属している者、キリストに結ばれている者です」と言って、その名を誇りにしたのです。私たちも、「キリストにある」ことを誇りにしましょう。この世にではなく、キリストによって、神の国に属していることをおおいに喜びたいと思います。
二、キリストにとどまること
イエスはヨハネ15:4で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」と言われました。キリストを受け入れたのに、キリスト以外のものに惹かれていってキリストのうちにとどまり続けなかった人たちが大勢いたからです。そのひとつがグノーシス主義の教えでした。8節に「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」とありますが、ここで「だましごとの哲学」と呼ばれているのが、グノーシス主義という宗教でした。グノーシス主義は、基本的には古代神話に基づくものですが、人々に受け入れられるために哲学的な装いをしていたのです。「グノーシス」とはギリシャ語で「知識」という言葉で、グノーシス主義の人たちは、人はこの宗教によって天的な知恵に到達し、救いを得ることができると説きました。クリスチャンの中には、キリストの教えだけでは足らない、教会の教えは知的ではないと感じて、グノーシス主義のみせかけの知恵や知識に惹かれて、キリストから離れ、教会から離れる人がありました。
グノーシス主義の人々は「隠されたもの」、「奥義」、「知識」、また「満ち満ちたもの」(ギリシャ語で「プレーローマ」)といった言葉を良く使いました。それでパウロも、コロサイ人への手紙の中で同じ言葉を使って、キリストこそ「神の奥義」である、キリストのうちにこそ「知恵と知識との宝」がすべて隠されていると教えたのです(2:2ー3)。
7節に「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」とあるように、キリストにとどまるとは、浮き草のようにこの世の流れに流されることなく、しっかりとキリストに根ざすことです。間違った教えに振り回されることなく、キリストを真理の土台としてその上に自分自身を築きあげていくことです。
グノーシス主義は時代とともに変化してきましたが、共通していることは、旧約聖書の神は究極の神ではないということ、イエスは天の知識を教える教師にすぎないということです。イエスが人となられたことを否定し、十字架の贖いを否定し、復活を否定します。人は、十字架によって贖われ、赦されなければならないほど罪深い存在ではない。ただ無知なだけで、「知識」(グノーシス)を得ることによって神になることができると教えました。これは明らかに聖書に反する教えですので、教会はグノーシスの教えと戦い、それをしりぞけました。グノーシス主義はいったん姿を消しました。しかし、近年、グノーシス主義は「ニューエイジ」と呼ばれる運動や「ボストモダーン」の思想の中に形を変えて再び息を吹き返してきているように思います。グノーシス主義は、かつては外から教会に挑戦してきましたが、今は教会の中に入り込み、救いのメッセージを別のものに変えようとしてます。ですから、コロサイ1:23に「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と勧められているように、正しい福音から外れることなく、キリストにとどまっていたいと思います。
三、キリストにあって歩むこと
「キリストにあって」とは第一にキリストを主として受け入れること、第二に真理であるキリストのうちにとどまることでした。第三は、キリストにあって生きることです。6節に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」と教えられています。ここで「歩く」というのは、日常の具体的な生活を意味しています。グノーシス主義では、日常の生活をほとんど気にかけませんでした。どんなにいいかげんな生活をしていても、かまわなかったのです。宗教生活と日常生活が切り離されていたのです。宗教は単なる頭のエクササイズで、実際の生活には何の変化ももたらさなかったのです。しかし、キリストを信じる信仰は違います。それは、日常生活を変えていくものです。クリスチャンの信仰は、自分の生活に満たされないものかがあるので、それから逃避するために宗教行事や活動に没頭するというものではありません。クリスチャンはなにをさておいても礼拝を守り、祈りを大切にしましますが、その礼拝は私たちを心の深みから造り変えるもの、その祈りは私たちの生活を整えていくものです。信仰と生活は別々のものではありません。信仰とはキリストにあって生活することであり、キリストにある生活とはキリストへの信仰によって日々を歩むことなのです。
初代のクリスチャンは、信仰と一致した生活をしました。人々がクリスチャンを嫌ったのは、その信仰のためばかりでなく、クリスチャンのきちんとした生活態度のゆえでもあったのです。ペテロはその手紙に「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います」(ペテロ第一4:3-4)と書いています。慎ましやかで誠実な生活に励み、どの人に対しても差別無く接したクリスチャンは、その真面目さのゆえに、世の中の人たちから、うっとうしく思われたのです。しかし、彼らは妥協せず、信仰を貫き通しました。そのことで悪く言われることをむしろ誇りとしました。他の宗教の人は、たとえば「仏教徒のくせに」などと言われませんが、クリスチャンが何か悪いことをすると、「クリスチャンのくせに」と言われてしまいます。それはクリスチャンが、その正しい生活によって人々の信用を勝ち取り、社会に良い影響を与えるようになったからです。私たちも先輩のクリスチャンがキリストにあって歩んだ歩みに倣いたいと思います。
「キリストにあって歩く」とはキリストに信頼して歩くことです。日々、キリストの力によって助けられて歩く歩みです。「主が私の手をとってくださいます。どうしてこわがったり逃げたりするでしょう。やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとはなんたる恵みでしょう」と聖歌に歌われているように、キリストに手を引かれて歩む歩みです。今まで到底出来ないと思っていたことが、キリストによってできるようになる。また、今まで何をするにも自分を中心にしていた者が、たとえ小さなことでも「キリストのために」することが喜びとななる。そんな歩みです。それはまた、キリストが共に歩んでくださる歩みです。「キリストにあって歩む」、ここにこそ本当の平安があり、満たしがあり、感謝があります。
伝道集会ではキリストを受け入れるようにと招かれます。そして、キリストを受け入れた者は、週ごとの礼拝で、「キリストにとどまりなさい。」「キリストにあって歩みなさい」という招きを受けます。キリストを受け入れる招きに応えたた私たちは、次にキリストにとどまり、キリストにあって歩く招きにも、感謝しながら応えていこうではありませんか。
あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
(祈り)
父なる神さま、あなたはキリストを受け入れるようにと私たちを招いておられます。今朝の礼拝で、まだイエスをキリスト、また、主として受け入れるのをためらっている人がありましたら、罪びとの私たちにはなによりも救い主、キリストが必要なのたどいうことを示してください。そして、あなたは、私たちにキリストを受け入れるだけでなく、キリストとともに歩むことへと招いておられることを知らせてください。キリストとともに歩む新しい一週間をこの礼拝から始めることができますように導いてください。私たちとともに歩んでくださる主イエスのお名前で祈ります。
4/10/2011